(1)25才で天皇位(昭和)につき、軍政の中で日本軍の最高指揮権としての統帥権者として第2次世界大戦にかかわり、開戦と世界で唯一戦争による原爆投下、終戦を経験して、戦後は平和憲法のもとで「国民統合の象徴」として記録の残る中では最長在位の昭和64年まで生きた昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」(an authentic record of showa tenno)が編さん、刊行されて公開された。
宮内庁が24年余りかけて編さんした61冊の1万2千ページ(報道)という膨大な記録集で「歴史の通説を覆す記述はないとみられる」(同)が、昭和史研究の重要な資料と目(もく)されている。
(2)満州国建国(昭和7年)、第2次世界大戦開戦(14年)から終戦(20年)、沖縄の米軍占領統治と「激動」の昭和史を生きた昭和天皇の公式記録集は、明治以降の慣例にならって編さん刊行された(報道)ものだ。
報道を要約すると文献、出典史料のいうなら列挙集で、時々のエポック(epoc)での昭和天皇の判断、決断と結びつけるものではなく、「第3者による検証を難しくしている」(専門家)内容だ。
(3)戦争、アジア植民地支配と直接かかわった激動の時代を生きた昭和天皇には戦争責任論も論じられたことがあり、天皇の判断、決断について細部にわたっての記録、史料との因果関係について明示していないものとみられる。
広島、長崎の原爆投下を受けて8月14日御前会議で終戦を決断(聖断)し、15日にラジオ放送で国民に伝えた英断(年表例)も天皇の戦争責任の取り方でもあったと理解すべきなのだろう。
(4)昭和天皇は1978年にA級戦犯を合祀した靖国神社には、それまでは参拝していたが以後は取りやめている。
戦争における天皇と軍政府、軍部との関係(確執)について考えさせられる天皇の靖国不参拝だとみる。
同実録には「靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀、御参拝について述べられる」(報道)とあるだけだ。
(5)当時の宮内庁長官の天皇会見メモが06年7月の日本経済新聞で掲載されて、天皇がA級戦犯を合祀した靖国神社に強い不快感を示した(報道)ものと言われている。
このメモ掲載事実も同実録に記載されているが、内容を是認したものではない(報道)としている。
まわりくどい記述でそれとなく判断できるものとなっており、天皇の戦争に対する考えが伝わるものだ。
戦争主導者のA級戦犯と煽動され犠牲となったものと一緒にして、国のために命をおとした英霊として尊崇する安倍首相との違いだ。
(6)時の首相が終戦記念日ほかに次々と靖国参拝をする中で、天皇が2代にわたってA級戦犯合祀以後、靖国神社を参拝しない決断はもうひとつの国民に対する責任の取り方、意思表示で、象徴となった天皇のせめてもの思い、誠意と理解すべきことだ。
13才で第1次世界大戦を経験し、38才で第2次世界大戦を開戦し、44才で終戦を決断(年表例)した悲惨な戦争、占領とともに半生を生きた昭和天皇のある種の誠意が詰まったものだ。
(7)「昭和天皇実録」がどういうものであるのかは専門家の研究、検証、評価を待つとして、昭和の時代が背負ったものを歴史を今に残す史料として、激動の時代であっただけにともに生きた昭和天皇(実録)を通して回顧し、知見し、教訓とするものだ。
首相の靖国参拝はかっての旧日本軍による植民地支配を受けた中国、韓国との大きな外交あつれきを生んでおり、アジアの安定を阻害している。
波乱万丈の時代、歴史を歩んだ昭和天皇の思い、誠意をどうくんでとらえるのかの、もうひとつの歴史評価だ。
宮内庁が24年余りかけて編さんした61冊の1万2千ページ(報道)という膨大な記録集で「歴史の通説を覆す記述はないとみられる」(同)が、昭和史研究の重要な資料と目(もく)されている。
(2)満州国建国(昭和7年)、第2次世界大戦開戦(14年)から終戦(20年)、沖縄の米軍占領統治と「激動」の昭和史を生きた昭和天皇の公式記録集は、明治以降の慣例にならって編さん刊行された(報道)ものだ。
報道を要約すると文献、出典史料のいうなら列挙集で、時々のエポック(epoc)での昭和天皇の判断、決断と結びつけるものではなく、「第3者による検証を難しくしている」(専門家)内容だ。
(3)戦争、アジア植民地支配と直接かかわった激動の時代を生きた昭和天皇には戦争責任論も論じられたことがあり、天皇の判断、決断について細部にわたっての記録、史料との因果関係について明示していないものとみられる。
広島、長崎の原爆投下を受けて8月14日御前会議で終戦を決断(聖断)し、15日にラジオ放送で国民に伝えた英断(年表例)も天皇の戦争責任の取り方でもあったと理解すべきなのだろう。
(4)昭和天皇は1978年にA級戦犯を合祀した靖国神社には、それまでは参拝していたが以後は取りやめている。
戦争における天皇と軍政府、軍部との関係(確執)について考えさせられる天皇の靖国不参拝だとみる。
同実録には「靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀、御参拝について述べられる」(報道)とあるだけだ。
(5)当時の宮内庁長官の天皇会見メモが06年7月の日本経済新聞で掲載されて、天皇がA級戦犯を合祀した靖国神社に強い不快感を示した(報道)ものと言われている。
このメモ掲載事実も同実録に記載されているが、内容を是認したものではない(報道)としている。
まわりくどい記述でそれとなく判断できるものとなっており、天皇の戦争に対する考えが伝わるものだ。
戦争主導者のA級戦犯と煽動され犠牲となったものと一緒にして、国のために命をおとした英霊として尊崇する安倍首相との違いだ。
(6)時の首相が終戦記念日ほかに次々と靖国参拝をする中で、天皇が2代にわたってA級戦犯合祀以後、靖国神社を参拝しない決断はもうひとつの国民に対する責任の取り方、意思表示で、象徴となった天皇のせめてもの思い、誠意と理解すべきことだ。
13才で第1次世界大戦を経験し、38才で第2次世界大戦を開戦し、44才で終戦を決断(年表例)した悲惨な戦争、占領とともに半生を生きた昭和天皇のある種の誠意が詰まったものだ。
(7)「昭和天皇実録」がどういうものであるのかは専門家の研究、検証、評価を待つとして、昭和の時代が背負ったものを歴史を今に残す史料として、激動の時代であっただけにともに生きた昭和天皇(実録)を通して回顧し、知見し、教訓とするものだ。
首相の靖国参拝はかっての旧日本軍による植民地支配を受けた中国、韓国との大きな外交あつれきを生んでおり、アジアの安定を阻害している。
波乱万丈の時代、歴史を歩んだ昭和天皇の思い、誠意をどうくんでとらえるのかの、もうひとつの歴史評価だ。