(1)従軍慰安婦問題に火をつけた朝日新聞が記事掲載から32年後の今年現地検証の結果、関係者の証言に裏付けが取れなかったとして同記事の誤りを認めて取り消した。
32年間も従軍慰安婦の強制連行があったとする日本人関係者の証言をもとに従軍慰安婦問題を主導してきた朝日新聞が、なぜこの時期に現地検証を行うことになったのかのいきさつはよくわからないが、日本を代表する新聞のひとつである朝日新聞の32年後の記事の取り消し報道には違和感の方が大きかった。
報道の自由と責任、使命、信用、影響力の比較落差に、タイムラグ(time lag)の大きさが常識や社会通念をはるかに超えてあまりにも不自然で無謀なものであったからだ。
(2)朝日新聞が32年後に関係者証言の裏付けが取れなかったと記事の取り消しを行ったことについて、同新聞に連載コラムを掲載している池上彰さんが次回同コラムでの「過ちをしたら謝罪すべきだ」との趣旨の批判記事を渡したところ、朝日新聞から掲載を断られた(報道)ことが社会問題化している。
コラム掲載を断られた(press ban of asahi column)批判記事内容がどの範囲まで及ぶものなのかわからないが、本人によれば「過ちをしたら謝罪すべきだ」との趣旨というから、朝日新聞の報道精神、責任、使命のあり方をジャーナリストとして批判したもので、多く見られる批判記事によるものだ。
(3)政治、経済、社会を批判の目で検証報道するメディア、新聞が自社の記事の誤り、取り消しを批判されてこれを不掲載にするなどとは、報道の自由のはき違え、本末転倒もはなはだしいものだ。
何でこうも恥の上塗りをするのか理解できないが、報道統治(報道倫理、よしあしの判断基準 governance)が欠けてきているのだろう。ガバナンスに逆行する規制に走るとは、パラドックス(paradox)としてガバナンスが欠けているということだ。
(4)本人によると連載コラムは何を書いても自由な条件だったということで、それでなくても「過ちをしたら謝罪すべきだ」はこの場合批判もすれば批判も受けるメディアとすれば素直に受け入れて何も問題のないもので、これを拒否する朝日新聞の報道精神、倫理観(view of ethics)にこそ問題がある。
反論があるなら報道で記事で堂々と論戦をはるべきで、都合の悪い批判記事は受け入れないとはあまりに無謀で無分別な報道精神性に欠ける対応、姿勢で認められない。
(5)最近のメディアは、NHK会長の政治的偏向発言が社会的批判を受ける中でそのNHKニュース、報道番組ではまったくまともに取り上げることもなく、触れずにやり過ごして本来の報道の使命、役割、責任の「ほっかぶり」は、他のニュースソースばかりはしたり顔で述べる報道姿勢に比較してしらじらしさを覚えるばかりだ。
報道の公平、公正、倫理性が薄れている現実だ。朝日新聞の自社記事批判を取り上げない、あってはならない組織に巻かれろの報道姿勢と同じだ。
池上彰さんは「その場でコラム連載中止を申し入れ」(報道)騒ぎが大きくなって、朝日新聞はすぐに同コラム記事を掲載することとし池上さんも今回は受け入れたといわれる。
(6)新聞も人間(記者)がかかわるものとして間違いがないとはいえないが、間違った時の対応は社会通念、常識のパラダイム(paradigm)となるべき責任があって当然だ。
32年後の記事の誤り、取り消しに報道、新聞として相当の不条理性(unreasonableness)はあっても、使命、責任から批判を覚悟でそうしたのだから、その後の批判は素直に受け入れるしかない。
32年間も従軍慰安婦の強制連行があったとする日本人関係者の証言をもとに従軍慰安婦問題を主導してきた朝日新聞が、なぜこの時期に現地検証を行うことになったのかのいきさつはよくわからないが、日本を代表する新聞のひとつである朝日新聞の32年後の記事の取り消し報道には違和感の方が大きかった。
報道の自由と責任、使命、信用、影響力の比較落差に、タイムラグ(time lag)の大きさが常識や社会通念をはるかに超えてあまりにも不自然で無謀なものであったからだ。
(2)朝日新聞が32年後に関係者証言の裏付けが取れなかったと記事の取り消しを行ったことについて、同新聞に連載コラムを掲載している池上彰さんが次回同コラムでの「過ちをしたら謝罪すべきだ」との趣旨の批判記事を渡したところ、朝日新聞から掲載を断られた(報道)ことが社会問題化している。
コラム掲載を断られた(press ban of asahi column)批判記事内容がどの範囲まで及ぶものなのかわからないが、本人によれば「過ちをしたら謝罪すべきだ」との趣旨というから、朝日新聞の報道精神、責任、使命のあり方をジャーナリストとして批判したもので、多く見られる批判記事によるものだ。
(3)政治、経済、社会を批判の目で検証報道するメディア、新聞が自社の記事の誤り、取り消しを批判されてこれを不掲載にするなどとは、報道の自由のはき違え、本末転倒もはなはだしいものだ。
何でこうも恥の上塗りをするのか理解できないが、報道統治(報道倫理、よしあしの判断基準 governance)が欠けてきているのだろう。ガバナンスに逆行する規制に走るとは、パラドックス(paradox)としてガバナンスが欠けているということだ。
(4)本人によると連載コラムは何を書いても自由な条件だったということで、それでなくても「過ちをしたら謝罪すべきだ」はこの場合批判もすれば批判も受けるメディアとすれば素直に受け入れて何も問題のないもので、これを拒否する朝日新聞の報道精神、倫理観(view of ethics)にこそ問題がある。
反論があるなら報道で記事で堂々と論戦をはるべきで、都合の悪い批判記事は受け入れないとはあまりに無謀で無分別な報道精神性に欠ける対応、姿勢で認められない。
(5)最近のメディアは、NHK会長の政治的偏向発言が社会的批判を受ける中でそのNHKニュース、報道番組ではまったくまともに取り上げることもなく、触れずにやり過ごして本来の報道の使命、役割、責任の「ほっかぶり」は、他のニュースソースばかりはしたり顔で述べる報道姿勢に比較してしらじらしさを覚えるばかりだ。
報道の公平、公正、倫理性が薄れている現実だ。朝日新聞の自社記事批判を取り上げない、あってはならない組織に巻かれろの報道姿勢と同じだ。
池上彰さんは「その場でコラム連載中止を申し入れ」(報道)騒ぎが大きくなって、朝日新聞はすぐに同コラム記事を掲載することとし池上さんも今回は受け入れたといわれる。
(6)新聞も人間(記者)がかかわるものとして間違いがないとはいえないが、間違った時の対応は社会通念、常識のパラダイム(paradigm)となるべき責任があって当然だ。
32年後の記事の誤り、取り消しに報道、新聞として相当の不条理性(unreasonableness)はあっても、使命、責任から批判を覚悟でそうしたのだから、その後の批判は素直に受け入れるしかない。