(1)朝日新聞が立て続けに日本政治、社会の重要、重大問題の従軍慰安婦、福島第一原発事故で「誤報(false report)」を認めて、社長が引責辞任を示唆するハメに追い込まれた。
奇しくもどちらも「吉田証言調書」がからんでの裏付けのない情報に飛びついて、一方的な理解にもとづく新聞記事化で墓穴を掘った。
新聞も人間(記者)がからむもので間違いは起こり得るものと書いたが、これにさらに泥を塗ったのが朝日新聞が慰安婦強制連行と断じた当時の実行者とみられる証言をもとに書いた32年前の記事を今になって現地検証の結果、裏付けがとれなかったと同記事の誤りを認めて取り消した経緯、タイムラグ(time lag)の不自然さだ。
これにジャーナリストの池上彰さんが自らの同新聞の連載コラムに「謝罪すべきだ」と書いた記事を載せようとしたところ、朝日新聞がこれを拒否したことだ。
(2)記事に間違いは起こり得るものといっても、間違いを認めたら謝罪(apology)すべきだという批評記事を掲載しないというのはメディア批評精神、報道の自由、倫理という基本理念を新聞媒体自らが自己否定する愚かな末期的行為で、もはや新聞報道の使命、責任、資格を放棄したも同然の有り様行為であった。
しかもこの段階では反響が大きく社会問題化してすぐに池上さんの記事を掲載すると方針を変更してさらに恥の上塗りをしておいて、しかし朝日新聞としては明確な責任所在をしなかった。
(3)新聞も人間(記者)がかかわる以上間違いも起きるものから「出発」しても、こうも次から次へと報道倫理、規範、模範(paradigm)の自己否定が続いて地に墜ちていってはもはや救いようもない。
築地にある朝日新聞東京本社を訪ねたことがあるが、その威風堂々とした高層ビルには全国紙で日本を代表する新聞社とはこういうものかと感嘆させられたが、同時に相当の違和感もあった。
(4)新聞社は読者購読料に広告料、事業料が経営基本財源となるもので、国民の知る権利に応える報道の使命、責任、検証が事業優先するもので、利益利潤追求が本業のものではないの思い、考えがあった。
これならもっと読者、スポンサー、社会に還元できることがあるのではないのかの違和感である。もちろん名は体を表すで、社会倫理、正義、情報、知識、文化を社会すみずみまでに提供、定着、浸透させる、また政治、経済の監視、検証者として国民に有益情報を提供、還元させる巨大媒体であれば問題はない。
(5)しかし現実はそうはなっていない。朝日新聞は時の政権と距離を置くメディアの宿命を鮮明に背負って、報道による歴史、政治、社会検証者として社会良識を代表する一定の存在感を示してきた。
そのため時の政府からは意見攻撃されることも多く、それはそれで評価できる存在であった。
(6)近年の新聞業界は情報化時代のネット、タブレット社会に押されて、世界的に経営難時代が続いている。時の政権と距離を置き一定の社会良識を代表する存在感の使命、役割、自覚が「巨大化(hugeness of news mission)」して自己制御、統治が効かずに、さらに新聞経営難時代の中で報道の自由、検証、確実性よりはトピックス(topics)に偏向した姿が威風堂々とした高層ビルと重なる。
その変形巨大化した全国紙が地方紙との提携に経営難脱却の活路を求めているパラドックス(paradox)だ。
奇しくもどちらも「吉田証言調書」がからんでの裏付けのない情報に飛びついて、一方的な理解にもとづく新聞記事化で墓穴を掘った。
新聞も人間(記者)がからむもので間違いは起こり得るものと書いたが、これにさらに泥を塗ったのが朝日新聞が慰安婦強制連行と断じた当時の実行者とみられる証言をもとに書いた32年前の記事を今になって現地検証の結果、裏付けがとれなかったと同記事の誤りを認めて取り消した経緯、タイムラグ(time lag)の不自然さだ。
これにジャーナリストの池上彰さんが自らの同新聞の連載コラムに「謝罪すべきだ」と書いた記事を載せようとしたところ、朝日新聞がこれを拒否したことだ。
(2)記事に間違いは起こり得るものといっても、間違いを認めたら謝罪(apology)すべきだという批評記事を掲載しないというのはメディア批評精神、報道の自由、倫理という基本理念を新聞媒体自らが自己否定する愚かな末期的行為で、もはや新聞報道の使命、責任、資格を放棄したも同然の有り様行為であった。
しかもこの段階では反響が大きく社会問題化してすぐに池上さんの記事を掲載すると方針を変更してさらに恥の上塗りをしておいて、しかし朝日新聞としては明確な責任所在をしなかった。
(3)新聞も人間(記者)がかかわる以上間違いも起きるものから「出発」しても、こうも次から次へと報道倫理、規範、模範(paradigm)の自己否定が続いて地に墜ちていってはもはや救いようもない。
築地にある朝日新聞東京本社を訪ねたことがあるが、その威風堂々とした高層ビルには全国紙で日本を代表する新聞社とはこういうものかと感嘆させられたが、同時に相当の違和感もあった。
(4)新聞社は読者購読料に広告料、事業料が経営基本財源となるもので、国民の知る権利に応える報道の使命、責任、検証が事業優先するもので、利益利潤追求が本業のものではないの思い、考えがあった。
これならもっと読者、スポンサー、社会に還元できることがあるのではないのかの違和感である。もちろん名は体を表すで、社会倫理、正義、情報、知識、文化を社会すみずみまでに提供、定着、浸透させる、また政治、経済の監視、検証者として国民に有益情報を提供、還元させる巨大媒体であれば問題はない。
(5)しかし現実はそうはなっていない。朝日新聞は時の政権と距離を置くメディアの宿命を鮮明に背負って、報道による歴史、政治、社会検証者として社会良識を代表する一定の存在感を示してきた。
そのため時の政府からは意見攻撃されることも多く、それはそれで評価できる存在であった。
(6)近年の新聞業界は情報化時代のネット、タブレット社会に押されて、世界的に経営難時代が続いている。時の政権と距離を置き一定の社会良識を代表する存在感の使命、役割、自覚が「巨大化(hugeness of news mission)」して自己制御、統治が効かずに、さらに新聞経営難時代の中で報道の自由、検証、確実性よりはトピックス(topics)に偏向した姿が威風堂々とした高層ビルと重なる。
その変形巨大化した全国紙が地方紙との提携に経営難脱却の活路を求めているパラドックス(paradox)だ。