いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

おごり、のぼせ。 extravagance, revel

2015-07-01 19:47:31 | 日記
 (1)自民党「若手」勉強会に出席した議員のマスコミ批判のボルテージ(voltage)が下がらない。朝日新聞の慰安婦問題の長年の事実誤認による記事訂正を取り上げて、マスコミに対して「言いたい放題を言って歩いたらいいというもんじゃない」(報道)と再度批判をくり返した。

 朝日新聞に限らずにマスコミの報道に間違いはある。事実を伝えるメディアといえども「人間」のやることだから間違いがあって不思議ではないが〔なくするチェック体制、間違っても安全(fail safe)の確立は求められる〕、それをいちいち取り上げて「マスコミを懲らしめなければいけない」というのは専制的なおごり(extravagance)、のぼせ(revel)以外にない。

 (2)「懲らしめ」なければいけないのは議員の方にこそいるのではないのか。違法献金問題で自らあってはならないことと釈明しながら、大臣を責任辞任したあとは公の場に現れずに説明責任を果たすこともなく再選を果たすと何事もなかったかのように議員活動を続けるなどとはあってはならないことだ。

 もちろんメディアもメディアだから議員には言いたいこともあるだろうが、国民の負託を受けた議員として良識と見識、分別が求められて言い方、批評の方法論(methodology)があるはずだ。

 (3)おごり、のぼせがどこから来ているのかはあきらかだ。安倍政権、自民党の1強多弱時代による余裕からくる「やりたい放題」、「言いたい放題」に安倍イズムのナショナリズム台頭の中で問答無用の論理、円安株高、賃上げ効果による経済回復基調が後押しする安定した内閣支持率を維持してきた影響だ。

 メディアもメディアで、マスコミ批判の問題の議員勉強会をわざわざ「若手」と表記して、世間には「若気のいたり」と受け取られるような印象を持たせるのは、相手の思うツボでもある。

 (4)若手勉強会での発言の議員張本人はどう見ても中年を過ぎたおっさんで、それでも政治家では「若手」の部類に入るのかもしれないが、世間では酸いも甘いもわかる年代の類に入るのだから「若手」はいらない。

 自分たちの言動に対してすでに社会パラダイム(paradigm)として責任を持つ判断、良識、能力、分別が求められて、仮に言いたいことはあっても言い方やくるめ方に方法論があるだろう。

 (5)このおごり、のぼせはどこからくるのか上述したが、小市民的国民意識(petite bourgeoisie)の自己責任(self responsibility)もないことはない。一度考えてみることだ。

 政治の世界での言論の自由、表現の自由抑圧とあわせて、社会では出版の自由も話題になった。神戸幼児殺傷事件で刑期を終えた当時10代の元加害者が社会復帰し、30代になって同事件にかかわる手記を出版してこれに被害者家族が出版差し止めを求めている。

 (6)被害者感情を逆なでするものとして、事件の特異性から書店や図書館では同出版物を取り扱わないところも出てきて物議をかもしている。
 これまでもこうした出版ケースはあり、当事者間で解決できる問題ではないので、有害図書として表現の自由、出版の自由を抑圧することはできないが、それぞれの当事者感情に思いをはせてみることも必要だ。

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