(1)今、財津和夫さんのアコースティックコンサートにゲスト出演している沢田知可子さんのブログに、同コンサートホール聴衆に「会いたい」の作曲者が財津和夫さんであることを知っている人と聞いたところ、20%程度が「知らない」と答えた(拍手の数)と書いてあった。
今や90年代というよりは日本ポップスを代表するヒット曲、名曲のひとつの「会いたい」であるが、作曲者の財津和夫さんのこの歌での印象が一般人ではそう強烈でもないことがよくわかるエピソード(episode)である。
(2)この歌をはじめて聞いたのは、車のラジオからだった。かなり暑くなってきた季節の昼下がりに車のラジオからこの歌が流れてきて、すぐに久しぶりにすばらしい歌が出てきたなという印象が今でも鮮明に強く残っている。
あとになってその作曲者が財津和夫さんだと知った。「会いたい」がヒットしたあと財津和夫さんはこの歌に注いだエネルギーについて、沢田知可子さんの歌をバラードで世に出すプロジェクトのために何度も何度も曲を書き直して完成させた苦労話を披露していた。
(3)それから20年余りたってこの歌「会いたい」が注目されたのは、作詞した沢ちひろさんが歌手沢田知可子さんを相手に訴訟を起こした話題だった。
沢田さんがTVバラエティ番組で「会いたい」の詞を社会風刺風に変えて歌って(報道によると現実的な「仕事がほしい、おカネがほしい」風)、さらに沢田さんの最新アルバムで「会いたい」をコーラスグループと一緒にレコーディングした際にイントロで英語のセリフを入れて歌い、タイトルも「会いたい in ・・・」とコーラスグループ名を入れて発売したことに対して、作詞者の沢ちひろさんが名誉を傷つけられたとして損害賠償に訴えたものだった。
(4)沢田さん側も争う姿勢を示して話題は続いたが最近になって沢田さん側にも歩み寄る姿勢に転じて、原告の作詞者沢ちひろさんが訴訟を取り下げる(報道)ことになった。
曲よりは詞のほうが歌に対する思い入れが強くでる傾向はあり、勝手に変えることによって物議をかもすことはある。著作権の問題もある。
曲はアレンジで変わるもので、バンド編成などでアレンジが原曲と同じというのはもともとむずかしい。
(5)ジャズ音楽の場合には、原曲にない「アドリブ(ad lib)」が演奏者の表現能力、音楽スキルの高さを評価する方法論(methodology)として欠かすことのできないダイナミズム(dynamism)であり、ほとんど原曲どおりで演奏されることなどないが誰もが問題にすることなどもない。
もちろん専門的には「約束事」があって、原曲(originality)の音域の範囲内(高い音楽専門的なことは理解できない)でアドリブを自在に取り入れることらしい。
音楽的にみると言葉ひとつ、フレーズひとつをつくり変えたからといって、一切歌わせないとか訴訟沙汰になる世界観よりは、アドリブ音楽世界観は随分と「度量(magnanimity)」の広い、心の広さ、価値共有を感じるものだ。
(6)もちろん創造者にとっては唯一絶対の原曲、作品であるだけに、勝手に崩されては「人格」にかかわる問題でもあるのだろうが、一方で原曲、作品をもとにその範囲内で想像性豊かに発展的に表現してくれることはそれへの敬意(respect)の表れであり、創ったものにとっては誇り、名誉でもある。
それが話題になることは原曲、作品の価値が広く認められて高いことを意味してもいるからだ。歌わせないとか訴訟沙汰になる前に考えることがあるはずだった。
(7)作曲者の財津和夫さんにとって、歌手と作詞者の「会いたい」アドリブ訴訟(‘ai tai' suit of ad lib)問題がどう映って見えたのか、正に同訴訟取り下げと時を同じくして(その少し前から)沢田知可子さんをゲストに招いてのコンサート開催でその答えを導き出していたのではないのか。
今や90年代というよりは日本ポップスを代表するヒット曲、名曲のひとつの「会いたい」であるが、作曲者の財津和夫さんのこの歌での印象が一般人ではそう強烈でもないことがよくわかるエピソード(episode)である。
(2)この歌をはじめて聞いたのは、車のラジオからだった。かなり暑くなってきた季節の昼下がりに車のラジオからこの歌が流れてきて、すぐに久しぶりにすばらしい歌が出てきたなという印象が今でも鮮明に強く残っている。
あとになってその作曲者が財津和夫さんだと知った。「会いたい」がヒットしたあと財津和夫さんはこの歌に注いだエネルギーについて、沢田知可子さんの歌をバラードで世に出すプロジェクトのために何度も何度も曲を書き直して完成させた苦労話を披露していた。
(3)それから20年余りたってこの歌「会いたい」が注目されたのは、作詞した沢ちひろさんが歌手沢田知可子さんを相手に訴訟を起こした話題だった。
沢田さんがTVバラエティ番組で「会いたい」の詞を社会風刺風に変えて歌って(報道によると現実的な「仕事がほしい、おカネがほしい」風)、さらに沢田さんの最新アルバムで「会いたい」をコーラスグループと一緒にレコーディングした際にイントロで英語のセリフを入れて歌い、タイトルも「会いたい in ・・・」とコーラスグループ名を入れて発売したことに対して、作詞者の沢ちひろさんが名誉を傷つけられたとして損害賠償に訴えたものだった。
(4)沢田さん側も争う姿勢を示して話題は続いたが最近になって沢田さん側にも歩み寄る姿勢に転じて、原告の作詞者沢ちひろさんが訴訟を取り下げる(報道)ことになった。
曲よりは詞のほうが歌に対する思い入れが強くでる傾向はあり、勝手に変えることによって物議をかもすことはある。著作権の問題もある。
曲はアレンジで変わるもので、バンド編成などでアレンジが原曲と同じというのはもともとむずかしい。
(5)ジャズ音楽の場合には、原曲にない「アドリブ(ad lib)」が演奏者の表現能力、音楽スキルの高さを評価する方法論(methodology)として欠かすことのできないダイナミズム(dynamism)であり、ほとんど原曲どおりで演奏されることなどないが誰もが問題にすることなどもない。
もちろん専門的には「約束事」があって、原曲(originality)の音域の範囲内(高い音楽専門的なことは理解できない)でアドリブを自在に取り入れることらしい。
音楽的にみると言葉ひとつ、フレーズひとつをつくり変えたからといって、一切歌わせないとか訴訟沙汰になる世界観よりは、アドリブ音楽世界観は随分と「度量(magnanimity)」の広い、心の広さ、価値共有を感じるものだ。
(6)もちろん創造者にとっては唯一絶対の原曲、作品であるだけに、勝手に崩されては「人格」にかかわる問題でもあるのだろうが、一方で原曲、作品をもとにその範囲内で想像性豊かに発展的に表現してくれることはそれへの敬意(respect)の表れであり、創ったものにとっては誇り、名誉でもある。
それが話題になることは原曲、作品の価値が広く認められて高いことを意味してもいるからだ。歌わせないとか訴訟沙汰になる前に考えることがあるはずだった。
(7)作曲者の財津和夫さんにとって、歌手と作詞者の「会いたい」アドリブ訴訟(‘ai tai' suit of ad lib)問題がどう映って見えたのか、正に同訴訟取り下げと時を同じくして(その少し前から)沢田知可子さんをゲストに招いてのコンサート開催でその答えを導き出していたのではないのか。