いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

才能とミスマッチ。 talent and mismatch

2011-04-25 19:24:23 | 日記
 (1)なかなか明るく楽しい、いい話題を探してみても見当たらない。日本ハムファイターズの斎藤佑樹投手は、変化球を低めに集めて、かわしてかわして打者の心理を見透かしての打ち損じ、打ち急ぎを重ねて5イニング、6イニングの責任回数を点を取られても「ゲームをつくって」2試合2勝の効率のいい勝利が続く。
 体格的にはプロ野球でも恵まれない中、自分の才能を活かす「考えた」投球スタイルで結果は残している。才能投手だ。

 本来は、ここぞという時のストレートに見るべきものがあり、これから状況に合わせた頭脳的な多様な投球スタイルを披露していくのではないのか。勝っている分、期待感を持たせるパフォーマンスは、その才能を含めてプロフェッショナルだ。
 これから「力」のある相手投手との投げ合い、また敗れてからの「変身(variation)」、期待感とともに「何をやるのか」無限の可能性、修正能力・幅の広さと対応のキャパシティ(capacity)の高さは、十分だ。

 (2)統一地方選の第2ラウンド、名古屋、愛知では市長が代表の地域政党「減税日本」が初めて国政選挙に候補者を立てた愛知6区補選。自民党候補者に大差で敗れた。
 名古屋市内の選挙では連戦連勝の「減税日本」候補者も、市外の国政選挙では「代表(市長)」個人の影響力、政治力も及ばずに敗北した。

 同市長の卓越した政治理念、政策、信条をバックボーンにしてみても、それだけでは「減税日本」候補者の選定ミスマッチ(select mismatch)が歴然だ。まるで市長の影響力誇示が信念かのような、それだけの力不足の候補者の政見、発言では、市民、県民の支持は得られない。
 代表(市長)のまるで自らの政治理念、政策実現のためだけの「駒」のような役割の候補者集め、手法に、才能のともなわない候補者ときては、野望政治の限界を示すだけだ。

 政治理念、政策には見るべきものがありながら政治手法、議会対策には問題もある同市長の政治戦略の見直し(反省改善)、自らの政治家候補者の資質育成、教育への取組みが「減税日本」の課題だ。
 同市長の政治の「志」、「理念」、「試み」は始まったばかりだ。地方から政治を変える期待も大きい。

 (3)2年前に本格的政権交代を果たした民主党政権は、理系出身の首相として当初は話題も集めた。理系界からの期待の声も大きかった。その首相は1年も持たずに辞任して、後を継いだ首相もまた理系の首相だった。
 政治家に思想信条、教育分野の区別、適正などもちろんない、自由自在だ。ところがこの理系の首相二人はよく似たところがある。
 総じて楽観的で、決断力が希薄で遅く、他人を動かす前に自分が勝手に動きすぎて後戻りできないスパイラル(spiral)に自ら落ち入る政治力量だ。

 ともに政治哲学が感じられずに論理的整合性が乏しくて、やる意志、決意は示しながらもプロセス展開に整合性を欠き、その言葉の「軽さ」も共通するが、政治家の言葉の軽さは前自民党政権時代から共通するものだけに、これは総じて政治家の特性のようだ。

 (4)そこで気になるのが、近年の大学教育の「管理化」だ。地域に開かれた大学を目指しながら、教室の入退室はICカードで管理され自由を拘束されて、時代に即応した大学は(それはそれで間違っていないが)実務型教育志向偏重が強くなって、情報関係(パソコン)教室が目につきまるで専門学校化している。

 電気、空調のエネルギー中央集約制御型は省エネ、省コストの環境時代ニーズには見事に適応しているが、教育の「管理化」はオーソドックスな理論、哲学、原論の息吹、モチーブパワー(motive power)をも制御して失っている。
 カリキュラムの弱体化を生み、卒業後のキャリアー評価優先偏重で、大学教育フレーム(educational framework)が弱体化している。

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メディアも奮起を。 stirring up the media

2011-04-24 19:23:32 | 日記
 (1)東日本大震災復興支援で政府、首相は諮問的(意見を聞く)なものを含めて20にも及ぶ関連会議を立ち上げたらしいが、ようやく基軸となる「復興構想会議」をスタートさせた。
 そこに与野党代表者も参加するものと思っていたら、政治は政治で全閣僚で構成する「復興対策本部」を設置してそこに野党関係者の参加も要請しているが、政治的思惑から参加協力も得られないと見ると、今度は連立する国民新党の呼びかけに応じて首相は「復興実施本部」の設置で野党代表者の参加を要請していくそうだ。

 つまり『復興(renaissance)』の「構想」と「対策」と「実施」をそれぞれ次から次へと立ち上げて個別に対応していく、前代未聞の大震災被害を前にして随分と悠長な呑気な震災対応策だ。毎日のようにこの有り様を聞かされるので、この首相の「考え」ていること、「頭」の構造がまったく理解不能だ。

 首相は「持てるすべての力を振り絞って(復興の)実現に向けて頑張りたい」らしいが、この経過を見ていると比喩でもなくて「持てるすべての力」も「ない」思考停止状態は明らかだ。
 議院内閣制で首相自らを国民が選べない国民の不幸(そういう首相を選択した議員を選んだ国民にも大いに責任はある)がそのまま被災地、被災者の救済支援の不統一、機能停止、遅れに直結していく。

 (2)首相も記者会見には登場してくるようなので、メディアも国民に代わってこの首相の思考停止「ストーリー」の真偽についてトコトン問い質してほしいものだ。が、メディアもメディアで記者会見の様子をテレビで見る限りでは、双方言いっぱなしの噛み合わない緊張感のない、現状を「正さない」無味乾燥のパフォーマンスに終始している。政治の低迷にメディアのチェック機能の不足、欠如が後押ししている。

 メディアの使命は評論とは違うから、分析、検証、解説のそのトップに「追求・正す」という高い「使命感」が国民から求められている。政治とともにメディアにも反省と奮起(stirring up the media)を促したい。
 前代未聞の東日本大震災を前にして、メディアと被災地、被災者とのスタンスで、政治のチェック機能も含めて被災地、被災者の「心」の代弁者として機能しているのか疑問だし、当然満足できるメディアの役割(検証)を果たしているとは言えない。

 あるコメンテーター(元新聞記者)が原発の前からリポートをして、メディアがここまで立ち入って被災地現地の現状を報道する姿勢のないことを批判していた。
 その行動が適切なのかは別にして、メディアの役割、意識、意欲の低さの指摘だけは的を得ている。

 それでも、子ども達の『笑顔』が、「夢」を「町」を立て直したいという「声」が救いだ。

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強い励みだ。 good incentive

2011-04-23 19:37:19 | 日記
 (1)東日本大震災でけっして経済力の高くない東南アジアをはじめ諸外国からの援助金、援助物資も多く寄せられた。日本からの「ODA(政府開発援助)」国際協力援助に対しての深い感謝の気持ちと今回はそれにお返しをする番だとのコメントもある。(報道)

 「ODA」国際協力援助というのは、方針、対象(国)、規模についてあまり国民には情報発信もされずに(関心のない一部国民が悪いのかもしれないが)、しかし世界相互に協力、援助する国の「名誉ある国際的地位(憲法前文)」を高めている対外投資だ。

 自国の窮状を顧みず、東日本大震災被害に援助の手を差し伸べる国々にはありがたいばかりだ。この「ODA」も、11年度1次補正予算の財源として今年限りということだが500億円相当が減額される。
 まずは、本予算97兆円規模の震災復興へシフトした大幅組み替えで財源捻出がプライオウリティ(priority)だ。
 復興財源での被災者への「増税」とか発展途上国への「ODA減額」はモスト・ビハインド(most behind)な政策のはずだ。

 (2)20年近くも自宅軟禁生活を経験して、昨年ようやく一部制限を解除されたミャンマー民主化指導者のアウンサンスーチーさんからの震災被害の「日本のみなさまへ」という寄稿文(手紙)が新聞に掲載された。

 他国に救済物資を送る余裕のない国情から、ビルマ人(アウンサンスーチーさんは軍事政権の使う国名ミャンマーを認めずに、旧名「ビルマ」を使用する)の思い、精神性を「詩」に寄せて示した。
 「日本人は強じんな精神力だけでなく繊細な美意識や詩歌をめでるしなやかさも併せ持つ」として「日本が立ち上がる時、私たちの詩が支えになればと願う」(報道)と書いてある。

 20年近くもの自宅軟禁にも、父親(ビルマ政治指導者、暗殺される)からの「意志」を貫き通す強い「精神力」、軍事政権の言う国名ミャンマーを認めずに自国を旧名「ビルマ」と言う「自信、自尊心」のアウンサンスーチーさんからの「心」の支援が、被災地、被災者に届き、共感と共有と共心を持って受け入れられるのではないのか。
 強い励みだ(good incentive)。

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「ゼロ」からのグランドデザイン。(節電自粛を活かそう)grand design from zero

2011-04-22 19:33:22 | 日記
 (1)前代未聞の大震災で、被災地も被災を免れた地域地方も「変わらなければ」ならない。震災前の日本は、①デフレ円高不況による消費低迷、経済活動縮小、②雇用不安、③公約マニフェストの中止、後退、見直し、④900兆円を超える国家累積赤字に財源不足の予算、⑤内閣支持率の20%前半の低迷、⑥わずかに地方政治での「都構想」、「減税政策」と変革志向が高まってきていた。⑦リーダーシップを失った政権は3月危機説も取りざたされていた。

 (2)その渦中3月11日に起きた東日本大震災は巨大津波による東北太平洋側一帯に壊滅的被害を及ぼして、福島では震災による原発事故の影響(放射性物質の漏えい拡散)が今なお収束の目途もたたない深刻な事態のままだ。
 自宅に帰れず避難所生活をする人、全国各地に避難生活をする人が数十万人にも及び、1万人以上の消息も不明のままだ。

 震災から1か月以上も経過しての被災地でのこの状況は、地方行政機能も壊滅的な被害を受けたとはいえ「復旧、復興」などの「レベル」の段階ではなく、いかに前代未聞の大震災とはいえ政府、関係者の対応支援が機能していないことを示す。

 過ぎたことを言ってもとはいえ、国の組織をあげての支援の拠点となる行政支援センターを被災地現地に近い周辺地域に設置して責任者を配置して、そこを拠点にして震災救済支援を展開すべきである。
 いかに防災服でパフォーマンスして見せても、東京「官邸」からの情報発信(これがまた責任回避型内容発信)では、被災地との一体感を共有などできなかった。
 政府関係者が被災地、被災関係者に会うたびに「頭」が上がらずに、首相は避難所生活者に「怒り」で迎えられた。

 (3)そういう現状とは別に、壊滅的な被害を受けた東北太平洋側一帯の復興対策はスタートした。その「復興構想会議」では、まず復興財源としての国債発行、増税論議が発信されている。しかし、巨額の費用が見込まれる復興計画で11年度「本予算」の97兆円規模の復興シフトへの大幅な組み替えが前提だ。

 そして壊滅的な被害を受けた東北太平洋側一帯の「ゼロ」からの行政機能形態の見直しの「基本テーゼ(these)」がまず発信されなければならない。
 長い歴史観、地域観、人間観の特性を生かした「ゼロ」からだから考えられる安全、生活、人権、経済、文化圏の建設計画のグランドデザイン化(東北道州構想)が復興計画の基本だ(grand design from zero)。

 (4)被災を免れた地域地方では、「光」も「日常」も戻ってきて通常の経済、文化活動で被災地を支援しようという理念機運も高まってきている。生活、経済活動に影響する夏の電力不足に対応する取組みも供給目標(5500万キロワット)、需要目標(節電15%)の設定検討で調整中だ。

 震災前は地球温暖化阻止のため20年までに温室効果ガス25%削減を目標とした。原発不信不安でエネルギー政策の大転換の必要もあり、環境は厳しさを増すが一時は味わったこの時考えた生活、経済活動でのとりわけ「都市機能」、「生活」での「節電」、効率・効能・機能化(LED化、太陽光発電)の取組みを常態化したい。後戻りはしない。そして一時の「自粛」思考もむだではない。

 経済はすでに「安定不況」の時代に入っており、かってのような経済成長はもはや望めない。雇用は確保するシェアー(share)社会のもとに、「生活」に見合った形(なり)振りかまわない収入ではなく、限られた「収入」に見合った生活に基軸をシフトして、生活観のシフト(shift)が幸せ観の前提だ。

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ゲーム審判の極意。 secret principles of game judgment

2011-04-21 19:23:03 | 日記
 (1)きのうのプロ野球で、セカンド後方に高く上がった打球を後ろ向きダイビングで捕球しようとして、テレビのリプレイを見ると一旦グラウンドにバウンドしたボールのはねかえりをグラブに収めたように(かなり高い確率)見えたプレイを、一塁審判は直接捕球したとアウトの判定にした。

 一塁審判と同じ視野、視界から見ていたはず(つまり、打球がセカンドプレーヤーの影に入っていたと見られる)のホームチーム(一塁側ダックアウト)の監督が抗議に走る。やり取りはわからないが、アウトの判定は覆(くつがえ)られない。
 ホームチームの代表は、判定の正確性向上を求める要望書をセリーグ連盟に提出した。

 (2)限られた種目(フェンシング、陸上の一部、スピード系は機械判定)以外のスポーツは「人(審判)」が「裁く」。一定の法則はあるのだろうが、審判判定能力に「個人差」はあり、しかしその「個人判定」がゲーム裁定(判定)のプライオウリティ(priority)として、前提として成り立つのがスポーツでもある(secret principles of game judgment)。
 そうした考え、パラダイム(paradigm)の象徴として、米大リーグの「審判員(umpire)」のスタンスがある。原則として一切の抗議は認められずに(テレビを見る限りでは、それでも一応抗議のアピールはするようだ)即、退場措置に結びつくことが多い。

 「人」が裁く「許容量」の中に、「人は間違いを起こすもの」との寛容な共有常識がある。プロフェッショナルとなれば、絶対的なゲーム成立のプライオウリティ(priority)を許容し前提としてわかったゲーム展開を組み立てるのは当然だ。
 往々にして監督の抗議は、チームまたは関係プレーヤーを擁護して鼓舞する意図があると聞くので、それまでのことであって、チーム代表がプロ野球連盟に要望書を提出するようなプロ野球の基本理念を否定するような事態ではないはずだ。

 野球の基本理念(「人」が裁く)からすれば、抗議はパフォーマンスにすぎない。「人」が裁く野球の基本理念から、「故意」でない限り「判定」は変えてはいけないし、変える必要もない。

 (3)今回のケースも、かってのように外野審判(線審)が居れば、正面からボールを見ることのできるプレーで、より正確な判定につながったといえる。審判の人材不足、またグラウンドのクリアーカット(clear cut すっきり観)を演出するためのゲーム審判員の削減だ。
 そのため判定には問題(審判の判定する位置)も指摘されて、さすがにきわどいホームランの判定(影響力が大きい)には映像判定による再確認も取り入れられた。これも野球の基本理念(「人」が裁く)からすれば必要もないことだ。「人(審判員)」が裁く判定が基本理念として成立しているスポーツだ。

 しかし、そもそも「人」が裁く不安定、不精度、そもそも見えない死角のあることを「許容」することがプライオウリティで成り立つスポーツのこと、その「人」の能力範囲の許容量の中で「それも人生」とゲームを楽しむことが、スポーツの「懐(ふところ)の深い、偉大」なところでもある。
 「故意」があってはもちろん成り立たないスポーツだが、審判スキル、判定の正確性を要望書を出してこれ以上とやかく取り上げる問題ではない。

 (4)もうひとつ「人」が「人」を裁く裁判制度ではどうか。こちらの方は合議制(多数決)以外は別の信義上の確たる法則もなく、しかし「許容量」などあってはならずにやはり「人」が「人」を裁く限界、不条理がついてまわる。

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