TTPの交渉は、いろいろと紆余曲折はあったが、一応の妥結をみたらしい。
私はTTPを自由貿易という名の幻想の、終わりの始まりだとみている。そもそも、国際間における完全なる自由貿易などというものは、経済学者の頭の中にだけ存在する。
人類が交易を始めて以来、いわゆる自由貿易などというものは存在しなかったと断言したい。交易の始まりは、おそらく氷河期にまで遡るであろうが、それは物々交換であったのは定説となっている。
物々交換においては、Aという物と、Bという物が等価であることが前提となっている。それは理論的には正しいが、私は疑問に思っている。Aという物品を差し出す側にとって、Aは貴重というよりも、むしろ余剰であることの方が多いと思う。
またBという物品を差し出す側にとって、Bは貴重ではあるが、相手との紛争を避ける貢物としての目的を有する場合だってあるだろう。これは、経済学では、AとBは等価となる。
しかし、現実の社会では、異なる価値観を持つグループが相対した場合、等価という概念は成立しがたい。言うまでもないが、上記のケースでは、Aの物品を差し出す側が強者であり、Bを差し出す側は弱者となる。
AとBがともに余剰品であり、なおかつ、お互いに欲しているなんて、理論上の仮定に過ぎず、そのようなケースがないとは思わないが、あるほうが珍しいと考える。これは日常生活から鑑みれば自明だと思う。
つまるところ、自由貿易の大前提となる、等価交換の原則自体が、きわめてあやふやなものとなる。しかし、この物々交換のあやふやさを一掃したのが、共通の価値概念としての通貨の登場であった。
主に貴金属が中心となり、通貨が作られて、それが共通の価値観を有した時、自由貿易は大いに発展することとなる。しかし、歴史が教えてくれるように、自由貿易とは、強いものが欲しいものを合法的に奪う手段として用いられたのが実情だ。
弱いもの、すなわち貧しい国の民が、数千時間をかけて作った物品が、強いものの言い値で買われていく理不尽が横行したのが、自由貿易の現実である。その一つの完成形が、旧GATTであり、その発展系がWTOである。
その一連の流れのなかで生まれたのが、TTP交渉である以上、強者の強欲を合法化するための自由化であることは明白である。
だが、18世紀後半に起きた産業革命により時代の覇者として君臨した欧米文明は、今黄昏を迎えつつある。もはや技術革新は停滞し、科学上の革新的な発見は枝葉末節に堕し、技術上の限界が科学者たちを悩ませる。
豊かな欧米社会が、実は理想社会でないことに気が付いたアジア、アフリカ諸国の若者たちは、欧米への信仰を捨てて、旧来の宗教と民族的矜持に理想を見出すようになってきている。
かつては貴金属を鋳造して作られた通貨は、ペーパーマネーとなり、輪転機という魔法の装置からいくらでも刷り出すことが出来るが、その裏付けとなる国家歳入の欠乏により、著しく価値を落している。
事実上の基軸通貨であるドルは、もはや限界ギリギリまで刷られてしまい、やがて来る破綻の日を隠ぺいするのに必死である。TPPの成功は、世界貿易を更に拡大するだろうが、果たしてそれがバラ色の未来を呼び込むとは、私には思えない。
嫌な予想だが、アメリカが時代の覇者として君臨する限り、その栄誉の証であるドル通貨は世界貿易を支え続けるだろう。そして、永遠に覇者であり続けた国家は存在しない。
いつかは、アメリカも追われる立場となり、覇者の地位から失墜する。その日は、まだまだ先のように思えるが、それが確実に来るであろうことも分かっている。
世界貿易の4割を占める、環太平洋経済圏の成立は、アメリカの延命のための処方箋である。決して根本的な治療法ではないと思う。