スペアタイヤがないぞ!
車のトランクを引っ掻き回して探したが、どうしてもスペアタイヤが見つからない。ホットコーヒーを飲みながら、冷静に考えてみることにした。幸い、ここはコンビニの駐車場。ただし、時間は早朝4時である。
先週末のことだが、夜半に首都高速を走っている時に、なにか異音がしたのは覚えている。だが、ハンドルに違和感はなく、通常と同じ感覚でそのまま中央高速へ抜けて八王子まで走れた。
そこで数時間所要を済ませて帰宅の途についた。いつもの道を快調に走らせていたのだが、なにか妙な音がすることに気が付いた。窓を開けると、シャカシャカシャカと聞こえてくる。これ、なんだ?
道路わきに車を止めて、よくよく見ると、左の後輪が完全にパンクしている。しかも、サイドウォールまで破損している。これはパンクでは済まない、タイヤ交換しなくてはダメだ。
そこで少し走って、広い駐車場を持つコンビニに入る。それからタイヤを交換しようと思い、トランクを探した次第である。しかし、あるはずの場所にあるのはバッテリーで、肝心のスペアタイヤがないではないか。
コンビニで買ってきたホットコーヒーを飲みながら、グローブボックスにあった車の仕様書を調べて、ようやく思い出した。この車、スペアタイヤを積んでいないのだ。
私の車はハイブリッド車なので、バッテリーを大量に搭載している。そのため、本来スペアタイヤが置いてある箇所に、バッテリーが配置されているのだ。たしか購入時に営業マンから、そう教わったことを思いだした。
その時は、それで納得していた。なにせ、タイヤのパンクなんて、滅多にない。7年ほど前に一度あったが、すぐに気が付いて、修理して済ませていた。当時の車には当然スペアタイヤは搭載されていたが、結局一度も使わずに、今の車に買い替えている。
こうなると、JAFを呼ぶしかない。連絡をとるのは久しぶりである。夜は終わりを告げ、明け方になる頃にJAFは到着した。自宅まで車を牽引してもらい、ディーラーが店を開ける時間にもう一度牽引してもらうことになる。
幸い自宅まで3キロほどであったので、5時過ぎには帰宅できた。なんか精神的に疲れて、すぐに寝てしまう。明けて日曜の昼前に起きて、再びJAFを呼んでディーラーまで牽引してもらう。
その日の夕方にはタイヤ交換は終わり、再びハンドルを握ることが出来た。昔はスペアタイヤは法定備品であったようだが、今は必ずしもそうではないらしい。道路の整備が進み、タイヤのパンク自体が減ったことと、ハイブリッド車の普及のためらしい。
明け方のコンビニの駐車場でJAFを待つ間、なぜパンクに気が付かなかったのかと考えていた。通常、パンクするとハンドルがぶれて気が付くことが多い。まして高速道路を走っていたのだから、気が付かないほうが不思議だ。
改めて車の仕様書を読むと、パンクしてもしばらくは走れるようになっているらしい。また徐々に時間をかけて空気が抜けたようなので、気が付きにくかったのだろう。タイヤの進歩、道路整備の良さなども手伝い、昔よりもパンクがしにくく、また気が付きにくいという事なのだろう。
私自身、久々のパンクであったし、パンクしてもあれほど長時間普通に走れるとは、思いもしなかった。技術の進歩には、一長一短あるものだと痛感した週末でした。
この三週間ほど、体調が芳しくなく、週末は家で寝て過ごすことが多かった。
日頃、TVを見ない私だが、こんな時はCS放送をだらだらとながら観していることが多い。観るのは動物ドキュメンタリーや、映画、歴史ドキュメンタリーが中心となる。
時々観るのがCNNとBBC、後TBSの枠内で放送されるCBSのニュース報道だ。なにしろ日本のマスコミとは視点が違う。もちろん、欧米の視聴者向けの報道なので、日本の視聴者向けと違うのは当たり前だ。
それは分かるが、あまりに視点が違い過ぎると、違和感を禁じ得ない。同じことを報道しているのに、まるで報じ方が違う。それをダメとは云わないが、あれほど差があると、妙な勘繰りを入れたくなるではないか。
先だって安倍総理が訪米したのはご承知のことだと思う。オバマ大統領は民主党の鳩山総理(当時)に辟易したのか、当初は安倍総理に対して至って冷淡であった。しかし、今回の訪米では打って変わっての好意的な対応であった。
通常の公式会見の場だけでなく、非公式な場での歓待で安倍総理の訪米に応えていたことは、日本のマスコミなら報道すべきだと思うが、私の記憶ではそのような報道はなかったように思う。
ちなみに下記の映像は、アメリカの独立記念館を非公式で、一般閲覧を閉鎖してオバマ大統領と安倍首相が二人で訪問した時のものです。この地はアメリカの誇りの地であり、外国の要人を招待することは稀です。
CNNにせよ、BBCにせよ、普段は日本に関する報道は少なく、まして首相個人に関する報道は皆無に近い。しかし、今回の訪米では珍しく安倍首相を取り上げていた。それもTTPでもなければ、災害関連でもなく、米軍との連携が深まったことを報道していた。はっきり言えば、対シナ包囲網の完成である。
新安保法制は、間違いなく戦争法であることが確信できるものではあるが、それを報じない日本のマスコミってどうなのだろう。あれほどまでに、安倍内閣の新安保法制への対応を激しく否定する基調で報道を繰り返していた新聞、TVの無関心ぶりには呆れてしまう。
私は欧米のマスコミの視点が正しいと云う気はないが、それにしたって自国の平和に関する重要な相手国であるアメリカの対応の変化ぐらいは報じるべきだと思う。
なんか憐みを感じる映像であった。
アメリカ海軍の原子力空母ロナルドレーガンが横須賀に寄港している。例によって、反米自虐の平和を愛する市民たちが自発的に抗議活動をしているのだが、その映像が笑えた。
海辺の埠頭で、頭上にプラカードを掲げての抗議運動なのだが、集まったのは数十人。遠目からみると、なにやってるのか分からない程度の集団でしかないので、報道するTV局も近くに寄って撮影している有様。
確認するが、原子力空母である。しかも間違いなく核兵器を搭載しているはずだ。日本の非核三原則なんざ、まったく無視しているに違いない。平和を愛し核兵器に反対する善良なる市民の方々は、必ずや抗議運動に自発的に賛同して集まってくれるはずだ。
その結果が、あの少人数の毎度御馴染みのプロ市民たちだけの抗議活動である。いつもなら、盛り上がっていると報道したいマスコミ各社も、この惨状に報道を控えている始末である。
一方、横須賀はこの原子力空母の寄港に沸いている。飲み屋街は夜半まで酔客で溢れ、米軍に納品している業者は忙しさに目がまわるほどだ。この空母は一般公開されたので、1万5千もの一般市民が見学に集う始末である。この半分でいいから、反米平和運動に参加してくれたらと、悔しがっているお方々の顔が見えるようである。
ちなみに、今回の寄港は、横須賀をメインとする原子力空母ジョージ・ワシントンが原子炉のメンテのためにアメリカ本土の海軍工廠に戻るので、その代替としてロナルドレーガンが派遣されたことによる。これは昨年初頭に公表されている。いわば予定通りの行動である。
ただ、今後横須賀にアメリカ海軍の原子力空母が二艦、常駐する可能性は高い。もちろん、これは対シナを睨んでのものである。如何にアメリカ政府がシナとの融和を望もうと、太平洋の覇権は譲らないとの確固たる意志を示したものでもある。
日本のマスコミ様は、反米ネタや観光ネタとしてではなく、日本の安全という観点から、今少し関心をもったほうが良いと思いますよ。
人は強い者に惹かれる。
強い男に女性が惹かれることは良くある。しかし、男だって強い男には惹かれる。生物としての本能的なものだと思うが、問題はその強さの中味というか質である。
子供の頃ならガキ大将というか、腕っぷしが強くって、みんなをまとめられる強さに憧れる。もっとも、このガキ大将タイプはあまりいない。むしろ口の上手さだったり、人使いの上手さ、立ち回りの上手さで大将を気取る奴のほうが多い。
だが、身体が成長してくると、強さはより明確に、攻撃的になって現れる。他人と比較しての強さ、これを立証することが大事となる。私も小学校高学年から中学にかけて、公園で意味もなく悪ガキ仲間たちと、取っ組み合ったり、腕相撲をしたり、はたまた眼の飛ばしあいをしてたりしたものだ。
世間からは、不良呼ばわりされたりしたが、仲間内でのポジション争いは、男として避けられぬ真剣勝負の場であった。野蛮だと誹謗するのは容易いが、昨今のLINEイジメのような陰湿さはない。
白状すると、居心地のいい世界だった。ただし、居場所を確保していればの話だ。実はこれが難しい。特に男の場合、12歳前後で急速に身体が発達する。身長が伸びるだけでなく、筋骨逞しくなってくる。
すると、強さの順位が微妙になる。今やれば、俺のほうが強いんじゃないの?そんな疑問を解決するには、腕っぷししかない。だからこそ、仲間内のケンカが一番シビアとなる。
要するに猿山のオスざるたちの勢力争いと、なんら変わりないのが思春期の男の子たちなのだ。だが、この荒れ狂う子ザルたちも気が付かざるを得ない。世の中、腕っぷしだけではないと。
それに気が付くのは、十代後半になる。高校を退校になったり、あるいは鑑別所に送り込まれったり、次第に社会の枠組みに締め付けられる自分に気が付くと、不良から卒業していく。
ある者は、デキ婚の現実に真面目に働かざるを得なくなり、不良でいられない自分に気が付く。また、ある者は、お金を稼ぐには不良のままではダメだと気が付き、稼ぎる業界に入っていく。その業界がサラ金や裏金融だったりすることもあるが、好きなバイクや車関係の仕事であることも多い。
生きていくには、腕っぷしの強さとは別の強さが必要だと気が付いてしまう。それが不良の卒業の時なのだろう。しかし、いつまでも不良のままでいたい大人だっている。いや、今さら堅気にはなれないとの諦めも混じっている。
そうなると、二十歳過ぎても不良で居続ける。ここから先は容易な世界ではない。あるものはヤクザになるが、それが出来ない根性なしは多い。昨今流行の半グレと呼ばれる若者たちがそうだ。
ヤクザならば守らねばならぬシガラミとか、碌でもない制約はけっこうある。あれは、あれでキツイ世界だ。その厳しさを厭う反面、堅気で生きていくだけの自制心もない。あるのは、有り余る腕力と、不良としての欲望だけ。
この連中は怖い。素人の怖さというか、制約がない怖さをもっている。ヤクザならば通す筋目があるが、反グレにはそれさえない。正直、私は関わりたくない連中だと思っている。
そんな半グレの若者たちを描き出したらピカ一なのが、表題の作品である。主人公は、ようやく鑑別所を出た、抑えの効かない暴力を秘めた若者だ。どうやら原作者の実体験に基づく話らしい。
この原作者、間違いなくかなりのヤンチャもんだ。理屈や道理ではなく、腕っぷしの強さだけが正義の世界。そんな強引な正義を貫く暴れん坊たちは、かなり魅力的な男たちだ。多分、身近にいたら私も惹かれたと思う。
でも、危ない連中であるのも確かで、それが分かるから今は距離を置くようにしている。育ちが悪い私は、この手の暴れん坊たちから目が離せない。誰にでもお薦めできる漫画ではないが、不良少年から抜け切れない半グレの若者たちの姿に興味があるなら、読んでみるのも一興でしょう。
そろそろゴミ箱を戻して欲しい。
あのオーム真理教と称する輩が、地下鉄にサリンを撒き、ゴミ箱にもサリンを残置しての大量毒殺を狙ってから十数年がたつ。あの事件以来、駅のホームはもとより、街角からもゴミ箱が消えた。
未だに、ゴミ箱は復活する兆しはない。これには別の要因もある。一般家庭ゴミはともかく、事業系のゴミは現在有料であり、シールを貼って所定のゴミ袋に入れて出すことが義務付けられている。
東京の場合、10リットルのゴミシールから50リットルのゴミシールと数種類に分かれる。一枚一枚は安いが、それでも積もり積もれば、けっこうな金額となる。この負担を嫌がる事業者の中には、公共のゴミ箱にわざわざ入れる輩が現れて問題になっていた。要するに、公園や駅のゴミ箱に捨てれば、ゴミシールを貼る必要がないので、金がかからない。
もちろん実際には、公園を管理する自治体や、鉄道事業者が代わりにその負担をしているだけだ。セコいというか、狡い連中が横行していることが問題になっていた矢先に、サリン事件が起こった。
この事件を契機に、公園や駅などの公共施設からゴミ箱が撤去された。ズルをする事業者がいなくなり、話題に上ることもなくなった。
だが、正直言ってゴミ箱がないのは迷惑だ。裏道の草むらや、高速道路の中央分離帯にゴミを投げ捨てる不届きものは、相も変わらずいるし、コンビニのゴミ箱に家庭用のゴミを持ち込む不届き者も後を絶たない。
おそらく公園に再びゴミ箱を設置すれば、そこへわざわざ捨てに来る輩は絶対にいると思う。だから公園などに設置しろとは言わない。しかし、駅のホームやコンコースには設置されるべきだと思う。
私はけっこう外回りが多く、東京近郊を電車で動き回っている。当然に駅の売店などで、こまごましたものを買うことは多い。それなににゴミ箱がない。これは理不尽だ。
テロの恐れを口にする人もいるが、テロリストが本気で爆弾などを仕掛けようと思ったら、別にゴミ箱である必要はない。どこにだって仕掛けられる。それなのに駅にゴミ箱を設置しないとは、鉄道事業者の怠惰としか言いようがない。嫌なら売店も撤去すべきだ。
まったく腹立たしい限りである。