入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

       入笠縁(ゆかり)の伝承を訪ねる (2)

2016年01月05日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


写真は、伊那市長谷溝口にある後醍醐天皇の皇子・宗良親王の墓所とされ、今も崇敬されている史跡。親王は誼(よしみ)を通じていた諏訪氏を訪ねる途次、この近くの峠で何者かに襲われ落名したと口碑は伝えている。時に1385年のことである。
 実はまだ、親王の墓所については諸説あり、特に静岡県の井伊谷には宮内庁が管理する墓所もある。しかし、長谷にあるこの墓の規模、そして隣接する常福寺の天井裏から出てきた親王の木像、及びその胎内にあった古文書は、この墓所こそが親王のものであるとする有力な証拠となっている。皇紀二千六百年(1940年)を迎えるに、国威発揚の必要があってだろう、そのころに墓は大分手を入れられたことがうかがわれる。陸軍大将揮毫による大きな石塔も石段左側にある。
 古文書の内容や木像については、他に詳しく知ることができるし、なぜ天井裏なぞに隠されていたのかについては思うこともあるが、推測の域を出ず、ここではあまり深くは触れないで、先を急ぐことにしたい。

 152号線を分杭峠越えして、親王が拠点とした大鹿村の大河原へ向かおうとすれば、峠の登り口で冬季通行止めになっていることを知る。やむなく引き返して勝間から高鳥谷(たかずや)山の裏の峠を越え、中沢からは四徳(しとく)を抜けて大鹿村に出ようとした。ところが四徳に通ずる山道は初めてのことで、迷いにまよい、ようやく大河原に着いたときは昼をとっくに過ぎていた。またしても空腹は度し難かったが、そうなると妥協して、いい加減な物を食べるなどという気にはならない。我慢した。
 何度か訪れた信濃宮は後回しにして、まずは初めていく御所平に直行することに決めた。昔は秋葉街道で栄えた大鹿村かもしれないが、三六災害に打ちのめされ、周囲から隔絶された典型的な山の中の村だ。御所平へは、眼下はるかに流れる小渋川の深い谷の中腹を横切るようにして進むのだが、対岸には険阻な山肌が迫り、遠い昔、親王が往来に際し余儀なくされたであろう数々のご苦労など、想像するに余りある。


 
 それにしても地元の豪族・高坂氏の支援を受けていた親王が何故にまた人里をさらに遠く離れ、深い山の中に身を潜めなければならなかったのか、あるいは、親王は南朝のため各地に出撃を繰り返えさなければならなかったはずの身、ならばもう少し適当な場所がなかったのだろうか、湧いてくる疑問に答えようもなかった。
 供奉していた者がどれほどいたかは分からない。しかし、御所平と表示された場所に降り立ち、目の前にあるそう呼ばれている土地のあまりの狭さを見たとたん、絶句した。再建された貧弱な小屋は緩い傾斜地に建てられていたのだが、とても館などとは呼び難く、もし何らかの史実により再現された物だとしたなら、余計に哀れを誘う。小屋の前の周囲とは不似合いな石碑にも、違和感だけを覚えた。
 唯一の救いは、600年経っても変わらぬだろう雪を被った赤石山脈の秀麗な峰々が、宗良親王と郎党の、過酷な運命や不自由な暮らしを時に慰めることもあっただろうと、青い空と輝く山稜を見つめながら想像できたことだった。(つづく)
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