入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

        入笠縁(ゆかり)の伝承を訪ねる (3)

2016年01月06日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 何となく去りがたい想いを振り切り、「深山の中に庵一二ばかりしてすみ侍りける」と親王が記した地に別れをした。

 何方(いづかた)も 山の端ちかき 柴の戸は 月みる空や すくなかるらむ ― 宗良親王 「季歌(りか)集」―

 この後、「信濃宮神社」を訪ね、参拝した。すでに何度か来ていたこともあったが、いつ来てもこの神社は、皇紀二千六百年の国威発揚のための急ごしらえ的な趣きが感じられて、いまひとつしみじみとした気持になれない。この1年後の1941年、日本は太平洋戦争に突入していくことになる。この神社の建設には各地から相当数の人が集められ、勤労奉仕を強いられたと聞くが、「もっと立派な神社ができると思っていたのに」とは、伊那から参加した古老の感想だった。

 さて行く前は親王にとって、入笠の御所平と比べたなら、「大河原の御所平」はよほど住みやすい場所だったろうと想像していた。が、その予測は見事に外れた。とらえようによっては、入笠の御所平に暮らした方が良かったのでは、と思えなくもなかったほどだ。
 ただし、30余年を暮らす間、親王は吉野には一度ならず帰参したにもかかわらずまたこの地に戻ってきた。さまざまな事情はあったにせよ、はたまた月を眺めるにはそこからの空はやや狭かったかも知れないが、深山の不自由な暮らしに甘んじたということは、この辺鄙な土地にそれなりの愛着を持っていたのかもしれない。そう思うと、後醍醐天皇の皇子であり、また天台宗総本山延暦寺の最高位・座主(ざす)であった身を、時代の波に翻弄され、このような遠隔の地で生きざるを得なかった親王に対する憐憫ともいえる気持ちが、幾分だが軽くなる。
 
 もうひとつ、もしも親王が入笠の地で1年以上も暮らしていたとしたなら、では北条時行主従は一体どこに潜伏していたのか、という疑問の答えが欲しくなる。というよりか、一体他に身を隠す場所などあったろうかという謎だ。ところが、あった。それも五カ所以上も。その中には藤沢の谷は当然として、一昨日大鹿村からの帰りに通った四徳もその一つに数えられている。しかし、疑問も残る。(つづく)

 今日の写真は、大鹿村上蔵(わぞ)集落に残る長野県最古の木造建築「福徳時本堂」、国の重要文化財指定。1160年創建というも、調査によれば鎌倉時代以上には遡れないというが、宗良親王もこの地にあって目にしたことになる。

 入笠牧場の宿泊施設及びキャンプ場の営業に関しましてはカテゴリー別の「H27年度冬季営業」を、また天体観測に関心のある方は「入笠牧場からの星空」をご覧ください。
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