入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

        入笠縁(ゆかり)の伝承を訪ねる (4)

2016年01月07日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

                                     福徳寺本堂より / 大鹿村上蔵(わぞ)地区

 今日も昨日の続きになるが、こうしたことを充分に調べた上で書いているかと問われれば、「いかにも」とまでは言いかねるし、識者が読めば、思い違いがあるかも知れない。それでも、もう少しお付き合いいただき、今日で終わりにしたい。
 
 鎌倉幕府が滅亡したのは1333年。その後1335年、北条氏の残党が諏訪氏の支援を受け、幼少の北条時行を奉じて足利尊氏の弟・直義(ただよし)の守る鎌倉奪還に成功する。世に言う「中先代の乱」である。わずか20日程度で京から駆け付けた尊氏の軍によって鎮圧されてしまうが、これだけのことができたということは、時行の側にかなりの残存勢力があったと考えて間違いないだろう。
 次に時行の消息を知るのは、1340年の「大徳王寺城の戦い」で、この場所については諸説あるも、上伊那地方であることだけは確かである。ということは、乱に敗れた後も時行は、再度伊那の地に戻り再起をうかがっていたことになる。実はうかつにもその事実を踏まえた上で、時行入笠潜伏説を始めたわけではなかった。そうなると、この地方にいた期間は考えていたより長くなり、潜伏場所が他にあっても不思議ではない。
 そのことは取り敢えず置き、このころすでに後醍醐天皇は皇居を吉野に移し、南北朝の動乱は始まっていた。中先代の乱鎮圧に向かったとき尊氏は、征夷大将軍の職を求めたが得られず、やむなく勅許も待たず出撃したため双方の間に遺恨を残す結果となり、関係は悪化した。伊那地方も、北条氏をまだ支援しようとする勢力、足利幕府に付こうとする勢力、高坂氏のように南朝に味方しようとする勢力などが入り乱れていた。
 そういう混乱の中、時行は上伊那の地を転々としたようだ。しかし敢えて勝手な推測を加えさせてもらえば、もし時行主従が入笠に潜伏したとしても、それは中先代の乱以前のことだったような気がする。
 ただ、宗長親王の在所であった大鹿村の大河原を知ったいまとなっては、入笠の御所平にいた人物がどちらであったとしても、もうそのことに強くこだわる気持ちは失せてしまった。心情的には宗長親王よりも、幼少のときから北条一門の再興を背負わされた、北条時行に寄せる気持ちの方が強かったのだが、そういう差もなくなった。
 やがて時行とその残党はこの地を去り南朝に従うことになるが、1352年時行は足利方に捕えられ、鎌倉龍ノ口において短い不遇の生涯を終えた。まだ20代だったろう。

 明日入笠へ行ったら、御所平を訪ねてみたい。
 入笠牧場の宿泊施設及びキャンプ場の営業に関しましてはカテゴリー別の「H27年度冬季営業」を、また天体観測に関心のある方は「入笠牧場からの星空」をご覧ください。
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