入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

        入笠牧場番外編

2016年01月11日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


  午前5時、外はまだ暗い。ストーブの燃える音を聞きながら、昨日(10日)の毎日新聞が報じていた記事をもう一度読み返した。シベリアのノリリスクという極寒の地で果てた日本人を夫とした渡辺智津子さんと、その娘である祥子(さちこ)さん二人の母娘(おやこ)の話である。

 智津子さんは81歳の生涯を閉じるまでに、夫の眠る北極圏に位置する辺境の地ノノリスクを一度ならず二度訪ねようとした。一度目はモスクワで断念せざるをえなかったがそれでも諦めきれず、ついに政治的には複雑で、外国人には立ち入ることの難しい極北の果てに行き、母娘ともども永久凍土に眠る夫であり、父である人の墓前に額ずき、触れ、祈りをささげることがかなった。母の智津子さんは70歳、娘の祥子さんは48歳、1990年のことだった。
 その後も夫の眠る地への訪問を強く念願しながら果たせず、智津子さんは81歳で癌のため逝ってしまった。夫のいない墓に入ることを望まず、散骨を希望する旨の遺書を残していた。
 娘の祥子さんはその意を汲み、遺骨の一部をかつて3人が暮らしたサハリンの官舎跡地に埋葬し、さらに母親が再訪を強く願っていた父の抑留された地、ノリリスクにも、同じことをする決意をした。そして、幸運にもロシア側の理解を得て、その願いは1904年に果たされた。
 しかし、話はそれで終わらなかった。たくさんの日本人が眠るその施設には、日本人のための慰霊碑がなかった。渡辺祥子さんはその建設を心密かに決めて、帰国した。
それからは募金活動に奔走するだけでなく、60歳にしてロシア語を学び、遅々として進まない慰霊碑の建設に苦労を重ねながらも、折れることのない努力は続いた。
 そんな時、日本に留学中のロシア人女学生を紹介され、以後彼女の協力を得ることによって様々な問題が解決され、ついに昨年の10月、慰霊碑は完成し、式典が現地で開催された。「御影石でできた碑には、織鶴とノリリスクの市民が空輸で取り寄せてた赤いバラが添えられていた。『どうかこの鶴に乗って故郷にお帰り下さい』。渡辺さんは(略)日本の方角の東南を向いた碑に何度も触れた」と、同紙は印象深く伝えている。
 その記事にもまして、さらに強烈に心を撃たれたのは、式典で支援者と抱き合う渡辺祥子さんの写真であった。その表情だった。母を、父たちの眠るシベリヤの荒れ地に散骨して10余年・・・、精神的にも、物理的にも長い旅をやっと終えて、慰霊碑の傍に立ち、触れて、それまでの「鉛のような想い(渡辺さん談)」も消えていったことだろう。苦労や悲しみ、安堵と喜び、その他言葉にできない彼女の深いふかい想いがその表情に表れ、彼女の顔をゆがませていた。
 
関心のある方は、是非同記事を読んでいただきたい。
 
 
 
 
コメント
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