<嵯峨野、化野念仏寺で出会った名言>
京都・嵯峨野、化野(あだしの)念仏寺の参道。
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浄土宗に属する寺院で、本尊は阿弥陀如来、寺の名は正しくは「華西山 東漸院 念仏寺」という。
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往古より化野の山野に散乱埋没していた、無縁仏を集め、阿弥陀如来の説法を聴く人々をなぞらえて配列安祀してある「西院の河原」。
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石塔・石仏の数は八千体を超える。
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無縁仏の霊にローソクをお供えする「千灯供養」は、晩夏の夕暮れにおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣があるそうだ。
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たしか、ドラマ「赤い霊柩車」シリーズのオープニングにもよく出てくるシーンだ。しかし、ここに来たのは別にドラマの聖地巡礼に来たわけではない。
(今でも、まだある・・・のだろうか?)
竹林の観賞も本堂参詣さえも割愛させていただいて、先を急ぐ。たしか地蔵堂のあたりだったと記憶している。
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前に「ぐでぐでの千鳥足に段差は禁物」という記事でこう書いた。
『酒豪の大先輩たちが、呑み過ぎて駅のホームに落ちたとか駅の階段で転倒したとか聞くたびに、「もう・・・呑みすぎなんだよ、
歳を考えろよ」などと、わたしは面白がって悪態をついていた。
そのわたしが、駅では無事で、まさかコンビニで転倒するとはなんとも情けない話である。もしも旅先だったらひと騒ぎになる。
四半世紀も前に訪れた化野念仏寺で見た額にこう書いてあったのが忘れられない。
『子ども叱るな来た道だ、年寄り笑うな行く道だ』
全国の酒豪のかたがた、「ぐでぐでの千鳥足に段差は絶対禁物」をぜひとも他山の石としてくれたまえ、わたしも肝に銘じるので。』
記事を書いたのが2014年だから、それからでも10年近い月日が経っている。
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「あったぞ!」
地蔵堂の脇に、貼り紙をみつけた。何代目の貼り紙だろうか、新しいものだ。横にある「俗世間 つもりちがい十カ条」はまるで記憶にない。
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人の数だけ人生はある。
ひとは誰でも、こと自分の人生においてはたった独りの主人公だ。脇役では決してない。そうして、自分と他人、それぞれの人生が交錯し、錯綜していく。
より良い人生には、多少の運と縁が必要である。運や縁を自分に引き寄せたり呼び込むためには、ひたすら神仏の加護に縋るのもいいが、心に刻まれるような先人の片言隻句に耳を傾け実践するのもアリだ。
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「子供叱るな来た道だ 年寄り笑うな行く道だ」
一説には「妙好人」の作という。(「妙好人」とは浄土宗の熱心な信者のこと)
この言葉には実は続きがあり、「来た道 行く道 二人旅 これから通る今日の道 通り直しのできぬ道」と続くという。
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表稼業のほう(オマエは仕掛人か!)ではもっぱら「神は細部に宿る」という金言だけで過ごしてきたわたしだが、裏ではもっぱらこの人生訓というか名言というか箴言を大事にしているのである。
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次に嵯峨野にきたときは、千二百羅漢で有名な「愛宕(おたぎ)念仏寺」を訪ねてみようか。
→「ぐでぐでの千鳥足に段差は禁物」の記事はこちら
京都・嵯峨野、化野(あだしの)念仏寺の参道。
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浄土宗に属する寺院で、本尊は阿弥陀如来、寺の名は正しくは「華西山 東漸院 念仏寺」という。
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往古より化野の山野に散乱埋没していた、無縁仏を集め、阿弥陀如来の説法を聴く人々をなぞらえて配列安祀してある「西院の河原」。
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石塔・石仏の数は八千体を超える。
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無縁仏の霊にローソクをお供えする「千灯供養」は、晩夏の夕暮れにおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣があるそうだ。
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たしか、ドラマ「赤い霊柩車」シリーズのオープニングにもよく出てくるシーンだ。しかし、ここに来たのは別にドラマの聖地巡礼に来たわけではない。
(今でも、まだある・・・のだろうか?)
竹林の観賞も本堂参詣さえも割愛させていただいて、先を急ぐ。たしか地蔵堂のあたりだったと記憶している。
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前に「ぐでぐでの千鳥足に段差は禁物」という記事でこう書いた。
『酒豪の大先輩たちが、呑み過ぎて駅のホームに落ちたとか駅の階段で転倒したとか聞くたびに、「もう・・・呑みすぎなんだよ、
歳を考えろよ」などと、わたしは面白がって悪態をついていた。
そのわたしが、駅では無事で、まさかコンビニで転倒するとはなんとも情けない話である。もしも旅先だったらひと騒ぎになる。
四半世紀も前に訪れた化野念仏寺で見た額にこう書いてあったのが忘れられない。
『子ども叱るな来た道だ、年寄り笑うな行く道だ』
全国の酒豪のかたがた、「ぐでぐでの千鳥足に段差は絶対禁物」をぜひとも他山の石としてくれたまえ、わたしも肝に銘じるので。』
記事を書いたのが2014年だから、それからでも10年近い月日が経っている。
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「あったぞ!」
地蔵堂の脇に、貼り紙をみつけた。何代目の貼り紙だろうか、新しいものだ。横にある「俗世間 つもりちがい十カ条」はまるで記憶にない。
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人の数だけ人生はある。
ひとは誰でも、こと自分の人生においてはたった独りの主人公だ。脇役では決してない。そうして、自分と他人、それぞれの人生が交錯し、錯綜していく。
より良い人生には、多少の運と縁が必要である。運や縁を自分に引き寄せたり呼び込むためには、ひたすら神仏の加護に縋るのもいいが、心に刻まれるような先人の片言隻句に耳を傾け実践するのもアリだ。
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「子供叱るな来た道だ 年寄り笑うな行く道だ」
一説には「妙好人」の作という。(「妙好人」とは浄土宗の熱心な信者のこと)
この言葉には実は続きがあり、「来た道 行く道 二人旅 これから通る今日の道 通り直しのできぬ道」と続くという。
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表稼業のほう(オマエは仕掛人か!)ではもっぱら「神は細部に宿る」という金言だけで過ごしてきたわたしだが、裏ではもっぱらこの人生訓というか名言というか箴言を大事にしているのである。
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次に嵯峨野にきたときは、千二百羅漢で有名な「愛宕(おたぎ)念仏寺」を訪ねてみようか。
→「ぐでぐでの千鳥足に段差は禁物」の記事はこちら
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