温泉クンの旅日記

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一瞬の旅

2007-02-25 | 雑文
  < 一瞬の旅 >

 遠くへいくことだけが決して旅ではない。
 温泉の場合は、「遠くへきたなあ」というあるていど以上の距離感がとにかく
非常に大切なのであるが、旅はまたぜんぜん違う。
 降りたことのない駅で降りたり、曲がったことのない路地にはいっていくのも、
旅だ。
 そうわたしは思っている。


 
 東西線の門前仲町駅を東京寄りの出口から出て、階段を登りつめて地上の交差点
にでたら清澄方面のほうにすこし歩くと「赤札堂」が前方右手にすぐみえる。
 その赤札堂の左脇腹あたりの位置に、時代の大また早歩きにポツンと取り残され
たような一角がある。

 昭和の匂いがそこはかとなく漂う、横丁の飲み屋街だ。通りと通りを結ぶ、寸詰
まりの十手のような細い路地に四、五人座ればいっぱいになる小さな呑み屋が犇い
ている。路地の入り口に「辰巳新道」とあった。路地に共同のトイレが二箇所設置
されている。

「あっと、まだやってませんか?」
 ちょうど角にある小さな居酒屋の引き戸を開けると、目の前の五、六人しか座れ
ないカウンター席にはひとりしかいなかった。客かなとも思ったが、カウンターに
グラスもなにも置かれていないので、瞬間にこの店の主人だろうとの見当をつけ
て、引き戸から頭だけ店にいれたまま訊いたのである。
 時間はまだ夕方の五時十分ほどだ。開店は五時半からかもしれない。



「どうぞ、どうぞ。たまたま今日は客が誰もいませんが、ここはいつも四時ごろ
からやってお客さんも結構はいっていますから」
 ニコニコ顔でカウンターのなかに移動しながら「ああ、そちらより、こちらの
ほうの席が温かいです」といままで自分が座っていた席を勧めてくれる。
 客席と厨房もいれて二坪ほどのちいさな店だ。客が座るカウンター席部分の広さ
を掻きあつめて合計しても畳二枚に満たない。
 コートを壁のハンガーにかけ、鞄は置くところがないので急傾斜の階段におかせ
てもらって、とりあえず焼酎の水割りを梅干いりで注文した。

「はい、焼酎の水割り。はいっている梅干も自家製ですから。それね、それをマド
ラーにしてください」
 差し出された大きめの水割りのグラスには、仙人の杖のミニチュアみたいな曲が
りくねった黒光りする炭の棒がささっていた。
 芸能人と並んで写っている写真が、あちこちにこれでもかとべたべた貼られてい
てそちらに目がいってしまうが、そういえば店のあちこちの空間にさまざまな大き
さの炭の棒が置かれている。



「これは備長炭ですか?」
 知らんふりして訊くという、いつものわたしの癖。他に客がいないので、間が持
てない状況のせいもあったのだ。
「ええ、そこらへんにある中国物ではない、正真正銘本物の備長炭です」
 ここからひとしきり、備長炭をいれた水や沸かした湯でいれるお茶の味だとか
飯の味だとかの備長炭の効用の話が続いた。
 ここの主人はダブルの背広でも着て、ネクタイと、そのよく喋るクチを締めれば
大企業の重役にみえる。話に興じながらも、そんなことを考えていた。

「そうそう、ご飯ですけど。これも福島県から取り寄せているんです」
「ええと福島県のどこらへんですか?」
 わたしも福島は詳しい。すこしは、重役から話の主導権をとってみたいので急い
で訊いたものだ。
「会津です」
「会津はどのへん?」
「会津若松なんです。モミの状態で送らせて、保存しておいて、毎日使う分だけ
精米するんです。だからひと味違うんですよ。あ、いかん。あたしばっかり喋っち
ゃって・・・なにかおつまみでも」

「じゃあ、鯵の刺身をもらおうかな。それとこれ、お代わり。梅干そのままでいい
から」
 さきほどから密かに検討していたので、するりと注文してしまう。
「お客さん、この鯵なんですけどね」
 頭だけ落とした鯵のはらわた部分をみせながら新鮮さを解説してくれる。今日は
鰯はいいのがなかったが、瀬戸内海の一本五百円ぐらいのをいつも提供していると
いう。
 かなりの、こだわりの店である。そしてかなりの饒舌な店だが、わたしは気に入
り始めていた。

「実はここの昼飯を二度ほど食べたことがあって、ご飯がたしかにやたら旨かった
よ」
「え、昼間いらしてくれたことあるんですか?」
 とたんに、重役は目を細めて相好を崩したものだ。どっかスイッチを押してしま
ったようだ。
「あれ、息子さんと奥さんですよね。二人ともとても感じのいい応対で」
「まだ修行中なんですけど、お客さんからお金を頂戴するのだから常にいいものを
だしていかなきゃいけない。そう叩き込んでいるところです。今日も、もうすぐ
来ますから」
 ますます満面の笑みを多少の照れとともに浮かべた重役は、「そうですか、お昼
に来ていただいたお客さんですか」と何度も頷きながら、不似合いな携帯電話を
いそいそと取り出した。

 おい、まだ家にいるのか早く出て来い! お前のお昼のお客さんが見えてるか
ら。
 厨房の奥に引っ込んだが、なにぶん狭い店だから聞こえてしまう。
「あ、いま連絡とれましたから、せがれはすぐ来るはずです。どうぞ、ゆっくり
呑んでいってください。あ、いらっしゃい」
 人間ドックが近くなると、わたしはいつも一週間ほど禁酒することにしている。
 かねてから気になっていたこの呑み屋で軽く呑んで、明日から禁酒しよう。その
つもりで入ったのだが、どうやら軽く終わりそうもない。

 低く流れている演歌と、常連と重役との親密な会話をさざなみのように聞いて
いるうちに、わたしの心が勝手気ままに旅をはじめてしまう。
 ・・・それにしても、ここの雰囲気はどこか北国の駅裏を思わせる。

 地方にしては土地代が高い駅裏で細々やっている呑み屋。たとえば釧路とか八戸
とか函館とかの駅に近い屋台。客は常連ばかりの店。たまたま暖簾をくぐったわた
し。はるか遠いこの店で、またいつか呑むことがあるだろうか。そのいつか、この
店はやっているだろうか。たまに湧きあがる笑いの渦、訛りの強い喧騒と時折の
静寂のなかで、無数の思いをめぐらせながら杯を重ねる。呑み終わって引き戸を
開けると、しんしんと雪が降っている。また来ます、自分しか聞こえない呟きを
洩らしながら戸を閉めて歩き出す・・・。

 引き戸が開き、現れた青年の笑顔と心のこもった会釈に「よぉ」と手を挙げて
応えたとたんに、短い短い旅は終わった。

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