・・・ラジオで茶道の歴史の話を聞いていた時に有名な「利休と一輪の朝顔」の話が出てきました。
茶道の真髄を説明するのに、この話をされたと思いますが、私は別の話と関連して、西洋人とは違う、日本人独特の考え方に、改めて、気づいた気がしました。
「利休と一輪の朝顔」と云う話を簡単にいかに説明します。千利休と秀吉の話です。
利休の屋敷に美しい朝顔が咲いているとのウワサを耳にした秀吉が、ぜひ見たいと利休に申し入れました。秀吉は朝早く利休宅へ出向きました。出向かえた利休の案内で庭へ出ますと、どうしたことか一輪の朝顔の花も見えません。秀吉は「朝顔はどこじゃ!」、利休はなんらうろたえることなく、茶室へと秀吉を案内します。茶室に入り、秀吉の目にとびこんできたのは、床の間にいけられた、まっ赤な一輪の朝顔でした。
しばらく、じーっと見つめていた秀吉は、「利休、みごとじゃ!」利休は、あれほど、たくさん咲いていた朝顔の中から、最も美しい一輪を茶室にいけ、他はすべて切り取ってしまっていたのでした。茶の湯のことを茶道といい、道をきわめるために作法や形を学んで行きますが、その奥にきわめねばならないものは、この利休の精神ではないでしょうか。
この話を聞いて、以前に、テレビで「日本人はモノに精神が宿るという考え方があるが、外国人には、物はモノ、物に魂が宿るという考えはない」そうです。
先ほどの話では、朝顔に人と同じ命が宿ると思うから、たった一輪の花を見て日本人は感動を覚えるわけで、外国人はものとみるから、たくさんの朝顔を見てこそ、美しいと思うでしょう。そうなると、日本人に感動を与える「利休と一輪の朝顔」と云うのは外国人には全く持って、変な話になります。