頼山陽に円鍔勝三となったら縁の深い広島ですね。最近はこの両名の作品共に縁があったこともあり、さらに作品自体は出来が良いので入手した作品です。ちなみにこの作品は広島からの入手です。
頼山陽像 伝円鍔勝三作 昭和14年(1939年)?
合箱
幅290*奥行180*高さ270
緊張感のある表情がリアルでとても良い出来です。
圓鍔勝三彫刻美術館の資料には1939年(昭和14年)、34歳の時に「頼山陽」の木彫を制作したという記録がありますが、本作品が同一作品かどうかは不明です。おそらくいくつか同じような作品を作ったのでしょう。
頼山陽は広島市で生活しており、円鍔勝三は広島県出身という縁もあったのでしょう。ちなみに同じ年に「徳川家康」の木彫も制作しています。
圓鍔勝三が40歳までの作品については、結婚・アトリエ新築等以降となる圓鍔勝三氏のベースロードとなる時期とされています。この頃の制作作については戦前・戦時中のこともあり、軍事色の強い作品が残っています。また、作品素材についてもその大部分は木彫となっています。
*1937年(昭和12年)32歳の時に、 川崎市中原区小杉にアトリエを新築しています。
「頼山陽」と「円鍔勝三」の各々については本ブログにてその詳細を説明していますので、そちらを参考にしてください。
なお圓鍔勝三の彫刻の特徴のひとつは、木彫を主流としながらも、晩年にしたがい様々な素材を使い作品を制作していることです。他の記事で紹介した裸婦像の作品も非常に軽い木材(桐?)に彫刻されています。
頼山陽は難しい顔で凛々しく表現され、いかにも漢学者として彫られていますが、頼山陽と女流画家の平田玉蘊との悲恋(詳細は当方の他のブログ記事参照)を知っていると、「おいおい、かしこばるなよ。知ってるぞ~」とからかいたくなりますね。
円鍔勝三の若い時の作品かもしれませんが、顔の表情といい、全体に姿勢といい、さすがと思わせてくれる作品のように思います。
木彫の彫跡からは「裸婦像」と共通した彫がうかがえます。
共箱など一切附属品はありませんが、作品の底には彫銘があります。
彫銘などはまだ詳しくありませんので、後学となります。
なにやらもっともらしい札がありますが、参考資料程度のものでしょうが? 本当なら「頼山陽記念文化財団」とかかわりがあった作品ということになりますが・・。
*平成27年(2015) 11月 頼山陽先生像が頼山陽記念文化財団により建立されています。
作者: 奈部雅昭(頼山陽史跡資料館開館20周年記念 の作)
「頼山陽像」の絵画では下記の「帆足杏雨筆 広瀬旭荘賛」の作品が著名です。
当然、この絵画の作品は円鍔勝三も知っていたと思います。
頼山陽の書の作品らと共に飾って愉しんでいます。
放蕩を繰り返したことで、結婚したばかりで妊娠、出産したばかりの嫁を離縁した人物とは程遠い・・。
数多く頼山陽に似たような像はありますが、私はこの像が一番気に入っています。
頼山陽・・、実ははめちゃくちゃに人間くさい・・。