夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

三彩「天下第一」走馬文皿 永楽和全作

2020-07-01 00:01:00 | 陶磁器
本日の作品は「交趾焼、源内焼、そして京都の近代陶工の代表格である永楽窯」の三者入り混じった観点からの考察が必要な作品の紹介です。

三彩「天下第一」走馬文皿 永楽和全作
底に印 共箱
口径230*高さ48*高台径



まずこの作品と同図の作品が、源内焼の図集の代表格とされる「源内焼(平賀源内のまなざし)」(五島美術館発刊)に作品NO60として掲載されていることです。



図集に掲載の作品は本作品より小ぶりな作品です。同じく見込み中央に「天下/第一」の文字、その周囲に三頭の馬が廻る。

図集には「口縁部、およびそれに伴う文様帯が退化し、見込みの文様も源内焼らしい繊細に乏しい」といういかにも意味深な評が掲載されています。



本作品の箱書には「交趾焼」と記され、裏面には「押印 和全造」とあります。字体や印章は京焼の伝統の名家の中で永楽12代である永楽和全の文献資料と一致します。

  

作品の高台内には「永楽」の円印があります。本作品は永楽12代和全の作に相違ないでしょう。それでは永楽和全と源内焼との関連は・・・???

 

まずここで永楽12代の陶工、「永楽和全」の詳細を記述します。

*******************************************

永樂和全:(えいらく わぜん)1823年(文政6年)~1896年(明治29年)5月7日)。19世紀に活躍した京焼の陶芸家。 千家十職の一つ、土風炉師・善五郎の十二代である。

江戸後期を代表する陶芸家の一人永樂保全(十一代善五郎)の長男で、幼名は仙太郎。 十二代善五郎を襲名したのは1843年であり、1871年に息子の得全に善五郎の名を譲って隠居し、以降は善一郎と名乗った。

1852年に義弟・宗三郎(回全)と共に仁清窯跡に御室窯を築窯し、本格的な作陶活動に入った。さらに、44歳で隠居した後も加賀大聖寺藩に招かれて山代で製陶の指導を行なうなど、精力的な活動を続けた。保全の残した負債に苦しむなどもしたが、よく後代に基盤を残した。

1823年(文政6年)永樂保全(十一代善五郎)の長男、仙太郎として生まれる。母は2年後に没。
1843年(天保14年)十二代善五郎を襲名。
1847年(弘化4年)酒造業木屋久四郎の長女、コウと結婚。
1852年(嘉永5年)このころ仁清窯跡に築窯。
1853年(嘉永6年)長男の常次郎(後の得全)生まれる。
1865年(慶応元年)この頃から「和全」の銘を使用する。
1866年(慶応2年)宗三郎・常次郎と共に九谷焼の指導のため山代春日山に赴く。
1870年(明治3年)九谷から京へ戻る。
1871年(明治4年)得全に善五郎の名を譲り、善一郎と名乗る。また西村姓を永樂姓に改姓。
1872年(明治5年)三河国岡崎の豪商・鈴木利蔵に招かれ、岡崎の甲山に築窯。
1877年(明治10年)岡崎での作陶を終え、帰京する。
1882年(明治15年)一条橋橋詰町から洛東高台寺鷲尾町に転居し、菊谷焼を始める。妻・コウ没。
1883年(明治16年)聴力を失う。
1885年(明治18年)鷲尾町から祇園に転居。
1892年(明治25年)祇園から建仁寺塔頭の正伝院に転居。
1896年(明治29年)5月7日、74歳で亡くなる。

参考作品

「色絵七宝文盃洗」



色絵遠山若松図角皿



共に東京国立博物館蔵の作品です。

永楽和全 補足
若い頃から父・永楽保全をうならせる陶技を発揮した和全は、幕末明治の激動の時代を生きました。焼物の研究に熱心なあまり多額の借金を重ねた父の後を継ぎ、家を維持することに力を注ぎ、義弟とともに立て直しました。 幕末に仁清ゆかりの地で登窯(御室窯)を持ち、維新を迎えてからは京都を離れて加賀山代の「九谷窯」で陶技の指導し、さらには裏千家十一代玄々斎の高弟・鈴木利蔵に招かれ三河岡崎に窯を作って従事しました。また、明治になってから始まった神社仏閣での献茶や大寄せの茶会用として、華やかな茶道具一式を生み出し、新しい永楽家の茶陶の様式を確立しました。 永楽和全は、金襴手の優品を多く残していることでも知られています。

永楽和全の生い立ち
永楽和全は、保全の長男として文政6年(1823)に生まれ、幼名を仙太郎といいました。天保14年(1843)、父・保全の隠居をともない、弱冠21歳にして十二代善五郎を襲名しました。和全の善五郎時代は、明治4年(1871)に家督を長男の常次郎(得全)に譲って自らを善一郎と称するまでの約28年間です。和全は、25歳のときに酒造業を営んでいた木屋久兵衛の娘古宇こうを妻に迎えています。



永楽和全の作風
永楽和全の作風は父・保全の作風に比べてどこか鷹揚な雰囲気があり、写し物は本歌を踏まえつつもやや崩して写す傾向があるため、茶人の間では和全のわびて茶味のある作品の方において評価が高いとされています。 これは、波乱の時代を生き経済的な苦労を重ねた和全が至った、わびの境地の深さをあらわしているともいわれています。嘉永元年頃、鷹司家の注文で近衛家に秘蔵される「揚名爐」の写しの制作で和全は保全の手伝いにあたり、このとき保全を感嘆させる陶才を示したと伝えられています。しかしこの頃から、相続のことで保全との関係に不和が生じています。この頃まで和全の作陶生活は、西村家の当主として京都市内でそれまでと同じように小規模な工房体制で生産を続けていました。

永楽和全の作陶活動を大きく分けると
「御室窯」時代:嘉永5年頃になると、義弟宗三郎とともに御室仁和寺門前の仁清窯跡に窯を築き、このころから和全の本格的な作陶活動が始まったと言われています。
「九谷窯」時代:慶応2年(1866)から明治3年(1870)にかけて加賀大聖寺藩に招かれて山代で製陶の指導に当たった。
「岡崎窯」時代:明治5年から明治10年にわたって三河岡崎の豪商鈴木利蔵に招かれて作陶した「岡崎窯」時代と帰京時代
「菊谷窯」時代:明治15年(1882)に油小路一条の住まいを売り払い東山の下河原鷲尾町に移って窯を築いた「菊谷窯」時代
と、以上の4つの制作期に分けることができます。



「御室窯」時代と「善五郎」共箱作品
御室おむろ窯は嘉永6年に開窯したと言われています。御室の窯は、義弟宗三郎の所有地に築いたと伝えられています。 その地が仁清の窯跡であったことは窯を築く際に仁清印のある陶片がその地で出土したことからわかったそうです。しかし、開窯に当たっては、郊外における永楽家自前の本窯所有の実現、仁清以来衰退していた御室窯の復興、仁和寺の御用窯的な展開など、いくつかの目論見があっての開窯であったようです。また、御室での開窯には、宗三郎の存在が必要不可欠であったと考えられ、和全との緊密な協力体制がなければ実現しませんでした。この窯では金襴手や色絵など、当初から完成度の高い作品が焼かれていましたが、このような時期的に早い段階から様々な技法の作品が作られ、かつ完成度が高いのは、永楽和全の卓越した陶技のみならず、義弟宗三郎をはじめ轆轤師西山藤助などの熟練した職人も加わった工房体制があったためと考えられています。この時期の作風としては、金襴手と色絵の懐石用高級食器が作られ、仁清・乾山の色絵磁器を強く意識した作陶がなされています。御室窯が開窯した嘉永6年は、ペリーが浦賀に来航した年でした。保全が翌嘉永7年に亡くなり、多額の負債を残し、和全はその負債を抱えて明治維新の動乱を乗り越えなければなりませんでした。

「九谷窯」時代と善一郎時代
慶応2年(1866)頃、加賀大聖寺藩から九谷焼の技術指導のため招かれ、和全をはじめ宗三郎や常次郎(得全)ほか工房をあげて山代春日山に移り住み指導にあたります。これが、永楽和全の九谷窯時代です。 和全の指導によりその後の九谷焼に定着した技法が金襴手でありますが、保全の金襴手は金泥を用い、和全から金箔を使った金襴手が焼けるようになったとされ、山代では良質の金沢金箔を使った金襴手が焼かれたと伝えられています。



「岡崎窯」時代と帰京時代
明治に入ると、急激な西洋化で京都の伝統文化は軒並み没落の危機に瀕していました。永楽和全は明治3年(1870)に山代から京都に引き上げ、翌4年には隠居して長男常次郎(後の十四代善五郎・永楽得全)に家督を譲り、自らは善一郎を名乗ります。 またこのとき、西村姓を永楽姓に正式に改姓しています。明治5年には、裏千家十一代玄々斎の高弟・鈴木利蔵の招きで三河岡崎に赴きます。 岡崎甲山での3年間にわたる作陶は、主に赤絵や染付など磁器の量産であったとされています。明治維新で時代が大きくかわり、茶道の世界も様相が大きく変わる中で、時代に応じた西洋的な作品(コーヒー碗やスープ皿など)の制作も手掛け、柔軟に作品を生み出していきました。 またこの間、明治6年には東京の三井家に出向き、和全製品の定期的購入を目的とする「永製講」を組織するなど、三井家の協力を仰ぐものの、実現には至りませんでした。その後、得全による大阪造幣寮の坩堝製作という三井関係の仕事に和全も関わるものの、不成功に終わり、経済的困窮はなかなか解決されませんでした。 しかし、その後明治10年に岡崎に見切りをつけて京都に帰り、帰京後は三井家との交流が深まり、三井家からの注文が増えていきました。


「菊谷窯」時代
和全は、明治15年(1882)に油小路一条から東山高台寺に近い下河原鷹尾町の菊渓川のほとりに住まいを移し、菊谷窯を開窯しています。 この頃妻を亡くし、耳が聾したと言われ、自ら「耳聾軒」と号しました。 菊谷焼は、粗い胎土に薄く透明釉を掛けて簡略な絵付けを施したものが多く、民芸風ともいえる風流な味わいがあり、晩年の永楽和全の境地が窺える作風です。この菊谷焼に捺される繭印「菊谷」の印文は、三井高福の書といわれ、菊谷窯には三井家が深く関与していたと考えられています。また、明治20年(1887)年に京都御苑内で開かれていた京都博覧会の会場で、明治天皇への献茶に和全の天目茶碗が使われました。 この献茶は、三井高朗と三井高棟(北家十代、1857-1948)が主席となり、表千家碌々斎が点前を行っています。 さらにその席上、日の丸釜にまつわる御下問があり、それを記念して和全により日の丸茶碗がやかれています。さらに、明治23年に京都高等女学校で行われた皇后陛下への献茶でも和全の 白地金襴手鳳凰文天目 が用いられています。この頃から日本文化を見直す気運が高まり、伝統文化の振興が図られましたが、それらの献茶はそういった背景を象徴する出来事でした。永楽和全は、そういった神社仏閣での献茶や大寄せの茶会用として、華やかな茶道具を生み出し、永楽家の新たな茶陶の様式を確立したのです。明治29年(1896)、永楽和全は74歳で亡くなりました。

*******************************************

長々と列記しましたが、この陶歴には源内焼との関連性はみられず、源内焼と永楽和全との関連性は残念ながら不明です。むしろ本作品は源内焼を意識したというより、永楽和全が得意とする交趾焼として製作した作品であろうと思うのが妥当と思われます。

他の可能性として「源内焼が永楽和全も同じ交趾焼の作品を模倣したか?」ということです。それは源内焼の性格上あり得ないでしょう。考察するなら、逆に源内焼の図集「平賀源内のまなざし」(五島美術館発刊)の作品自体が交趾焼でははないかということがあり得ます。このことは図集の記述とも相俟って信憑性があるのですが、当方では断定できることではありません。



製作年代は明治期? ともかく交趾焼、源内焼、そして永楽窯とあちこちに興味を持っていたおかげで当方に舞い込んできた作品であり、自己満足的ながらこのような考察も可能になってきたということでしょう。



「天下第一」は明末赤絵などから中国の器に記されてきた用語ですね。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。