
仏間の照明器具を取替るために片づけをしている際に発見・・・、明治から大正にかけてのメダルや水タバコの器具のようです。

もはや今となっていは骨董品・・・。義父の父上のもののようです。これも大切に保管か・・・


本日は日本では辰砂という顔料で文様の描かれた作品の紹介です。辰砂という釉薬は還元炎で焼成されるため非常に発色の難しい釉薬のひとつとされます。その理由は辰砂の成分は銅ですので、火力の弱い場合は緑色になったり、温度の高い場合は揮発してしまったりするからのようです。

*この作品は書斎の出窓の飾り棚に置いて香を愉しんでいます。
氏素性の解らぬ作品 釉裏紅唐草文香炉 明(洪武年間)?
純銀唐草透火舎 合箱(唐物とあり)
胴径78*高さ78 *高台径

「釉裏紅」については下記の説明のとおりです。
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釉裏紅:陶磁器の加飾技法の一つで、日本では辰砂ともいう。透明釉の釉裏、すなわち素地面と釉との間に描かれた銅の顔料による下絵が、還元炎で紅色に呈色することから、中国で釉裏紅と呼称されます。
*コバルト顔料の代わりに銅を呈色剤として用いて赤い色を発色させます。同じ赤い色でも、釉の上に鮮やかな絵付けが施される五彩の赤色とは異なり、釉裏紅はその名のとおり釉の裏(下)に描かれることで、器面になじんで落ちついた色味を呈します。
この加飾法は中国湖南省の長沙(ちょうさ)窯において晩唐9世紀に開発されましたが、一時途絶え、元代の14世紀になって江南の景徳鎮窯が白磁胎釉裏紅技法を工夫して定着しました。その初期の資料として、至治3年(1323)銘の木簡を伴う釉裏紅磁が、韓国新安沖に沈む元船から引き上げられています。
景徳鎮窯は以後、釉裏紅を重要な技法の一つに加えて今日に至っています。朝鮮半島では高麗時代に青磁に併用され、李朝の18世紀にも盛行しました。日本では江戸時代の17世紀に伊万里焼がわずかながら試みていますが、焼造量は少なく、遺品も希少のようです。
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*白磁釉の中に銅を含ませ、紅色に呈色させる手法は、中国では「紅釉」といい、紅釉は、北宋時代に定窯で作られた「紅定」がその起源とされます。
いはゆる「釉裏紅」については、その初源的なものは晩唐の五代時代(9~10世紀)にみられ、元時代後期(14世紀)になって景徳鎮窯で製作されました。なお明時代の洪武年間(1368~98)の宮廷磁器に紅釉が作られましたが、発色と描き技法の関連性から、洪武釉裏紅の暗い発色は人為的な作りとの見解があります。また当時の東アジアへの輸出品の描きは簡単な一筆画です。

朝鮮半島では、高麗時代後期(12世紀後半~13世紀)に、青磁釉下に銅で文様が筆描で表わされ、朝鮮時代後期(18世紀)には民窯の白磁で釉裏紅が流行しました。

*肥前磁器における「釉裏紅」は初期伊万里の時期に盛んに製作されています。肥前磁器における「辰砂釉」は清六の辻1号窯、清六の辻大師堂横窯、小溝上窯など磁器創始期の窯で陶片が出土しており、染付作品の一部分に辰砂釉を施したり、青磁壷の口縁部や頸部に辰砂釉を塗り巡らす例が見られます。しかし、銅は高温化では揮発しやすいので、文様が安定して表わされることが難しいため、17世紀後半以降は例外を除いて行われなくなります。

元時代の胎土は赤っぽい土、釉薬は宋時代の青白磁に近い青っぽいもの。このあたりは原理原則に沿っていますが、「釉裏紅」の発色が暗いので明時代の洪武年間(元の後期に近い)のものか? 精緻な作りでない点から東南アジア向けの輸出品かもしれません。
文様をみていくと、上から口縁内に蔓唐草文、胴部の主文としてひとつの花を描き、唐草文を釉裏紅で描き、文様の選択や配置は簡略化されていますがこの時代によく見られるもの近いと思います。
洪武年間では釉裏紅が多く使われています。その理由は諸説ありますが、「当時青花の原料となるコバルトが中国へなかなか入ってこなかったために代用として釉裏紅が使われた。」からともいわれています。しかしいずれにせよこの釉裏紅独特の渋い赤色は、器面に幻想的な雰囲気を加え、現在でも多くの人々を魅了していると評価されています。

本作品は「元時代」とされていましたが、確証はありません。元時代には釉裏紅の作品には実用性のある作品は皆無でしたが、元朝廷へ”上納”の必要がなくなったので、明初めの洪武期では(最初の数年では明朝廷への上納制度はまた固めていない)、景徳鎮窯は実用品の釉裏紅器が多く作ったそうです。
肝心の発色ですが、洪武時期の釉裏紅は暗黒な紅色がほとんどです。これと同じ、黒呉須と呼ばれる青花器もこの時期の特徴になります。つまり、窯の焼成は酸化不足→柴不足、焼く時間短縮、表釉や釉下彩も薄い、などなどの原因でいずれも”原価削減”と思われるような工夫されていると思われます。表釉薬や釉裏彩は薄くなった(材料節約)。絵付け模様も漢文化伝統的な装飾文が多くなりました。つまり、洪武時期の景徳鎮窯は”コストバランス”を考え始めたということでしょう。政府の資援がないため、発色を重視してはなりませんので、実用性上では発色のよさよりも、表面の高潔度や丈夫さの重要性が高いとは分かりやすいと思います。稀に発色非常によいものもありますが、それはこの時代の主流ではなく、献上手だと思います。この作品のような釉裏紅の小品は東南アジアに輸出されたようです。

洪武釉下彩の発色変化から推測できますが、当時の景徳鎮は釉下彩を普及するための技法の改良が行われたとされます。釉下彩の発色の中に、粗い点は少なくなり、呉須と銅紅料の精練も行われました。釉下彩部分に表面のデコボコや地へ食い込みする現象は依然あり、発色はまた満足できませんがが、均一発色と表面の光潔さが改善され、徐徐に窯温度を下げる技法の改良があったと思います。なおこの時期に代表的な釉裏紅器は輪花盤や酒注であり、これらは非常に華やかな酒器ですが、前述のように実用性のある小品は東南アジアに輸出されました。
現代ではガス窯や電気窯などで、焼成温度の管理がたやすくなっていますので、辰砂の作品はそれ以前に比してたやすくなっています。ただそれでも難しいのが辰砂だとされています。

ところで洪武窯については『陶説』『景徳鎮陶録』を基にして下記の記述があります。
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洪武窯:中国明代洪武年間(1368-98)に焼造した官窯。洪武末年(一説に二年)廠を景徳鎮の珠山の麓に設けて窯器を焼造し、上方に供してこれを官磁と称し民窯と区別しました。大竜紅窯のほか青窯・色窯・風火窯・匝窯・艦燐窯などがあり計二十座。その製器は土が細脈で、胎は薄く青・黒の二色があるようで、純素なものを佳とします。 器を製造したのち必ず一年余り坏を乾かし、さらに継櫨上でこれを削り施釉焼成します。 釉が漏れるものはこれを削り去り、再び施釉焼成します。それゆえ釉は輝き、この点は民窯の及ばないところであります。その彩色した器では青黒餓金のものがよい。
文献には以上のように記されていますが、遺品について洪武の製を確実に知ることはまだ困難であります。というのは年款の入ったもので信ずべきものがない(おそらく年款を入れる制がなかったと思われる)からであります。ただ元の青花よりやや施文が粗で、永楽(1403-24)のそれより文様の混んだ器を時に散見するから、それらを洪武窯のものと比定するより仕方がないようです。これらの青花磁は概して染付の色が黒い。この時期には良質の青料が欠乏していたからであるでしょう。かえって釉裏紅にみるべきものがあります。
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辰砂については、当方の友人である保戸野窯の平野庫太郎氏の作品にも辰砂の作品が数多くありましたが、平野庫太郎氏は現代でも一定の色の確保は難しいと言っていました。

作りはまるで最近できたようなきれいな作りです。
*「氏素性の解らぬ作品 釉裏紅唐草文香炉 明(洪武年間)?」と題していますが、あくまでも雰囲気であり、「氏素性の解らぬ作品」としています。

釉裏紅(辰砂)は近年の中国の作品のように毒々しい紅は品がなくていけませんね。このような渋い色の方が小生は気に入っています。とくに香炉は・・。

唐草文? 葡萄文?

この器は多少歪であり、それにぴたりと合うようにこの器専用に作られたと思われる火屋が付いています。

火屋(火舎)は純銀製・・。この箱と同時期に器の文様に合わせて誂えたと思われます。

綺麗に磨かれていますね。

最近仕立てられたと思われる箱の収まっています。

誂られている箱には単に「唐物」とされています。無難な表現かな?

とりあえず時代、産地は特定しないで保管しておきます。

さて本来の釉裏紅?の作品として下記の作品を紹介します。
参考作品
元 釉裏紅香炉
作品サイズ:香炉口径75*高さ67*高台径60

本作品の説明は下記のとおりです。


「数少ない元の釉裏紅ですが、酸化銅を使った釉裏紅の色は、淡く滲んでおり、造りは分厚くずっしりとして雑器の趣です。元染の量産がはじまった、元時代後期(14世紀前半)においては青花の高級品はイスラム圏の富裕層に輸出され、青花と釉裏紅の小品は東南アジアに輸出されました。特にフィリピンには、副葬品用に輸出されたといいます。釉裏紅小品といえども、現在は見る機会は稀です。」
辰砂を見慣れているせいか、本日の作品はのような渋い色合いの釉裏紅の作品は新鮮です。

辰砂はその赤が売り物であり、このような色は好みによるでしょうが、本日の作品のような色合いの辰砂の作品は一般的には現代では作らないでしょう。ともかく、時代はともかく味わいの作品のように思いますが、いずれ後学にて・・・。

当方の友人の故平野庫太郎氏の作品には多くの辰砂の佳作がありますが、「釉裏紅」と題した作品は数が少なく下記の作品があるのみです。
釉裏紅菊唐草文鉢 平野庫太郎作

この作品は平野庫太郎氏の貴重な展覧会出品作であり、亡くなる直前に本人から預かって欲しいと言われて当方で保管している作品です。
*「釉裏紅」というのは発色が難しいもので、紹介した作品は近代の作、模作とはいえかなりの苦労があるように思えます。骨董は真贋ばかり気にしますが、近代の模作と吐き捨てる前に、その焼成の過程を知っていなくてはなりません。

僅かに緑色を呈色している箇所がありますが、これは意図的なものと思われます。
この作品を観ると故人と二人だけで工房でお茶やコーヒーを飲みながら談義したり、陶芸した日がたまらなく懐かしい・・・。秋田市内にいた二年間、八戸から秋田に通い、そして青森から通い、さらには岩手から、仙台から、埼玉から、そして東京から秋田まで回数は距離と共に減りましたがよく訪れたものです。それは淡い辰砂の色の作品を観ても同じ思い出が蘇ります。郷里秋田の陶芸家の平野庫太郎氏(元秋田県立美術館館長)は作品と共にもっと世に知られていい陶芸家だと思います。
骨董というのは亡き人を偲ぶものでもあろう・・・。