先週末はコロナ禍、雨と外に出かけることもなく、息子も退屈そう・・。そこで夏休みも終わりとなり、涼しくなったきたので家でのプール遊びも終焉・・。「さ~、プールを片付けよう!」と息子と共同作業となりました。
水を空けて、水洗いして、エア抜き・・・、これが意外に重労働 息子に手伝ってもらってようやくという感じです。エア抜きまで完了して夕方まで干して、収納・・・。
本日の作品は平福百穂の作品の紹介です。
大雑把な制作時期は大正年間か昭和初期年間でしょうが、詳細は不明な作品です。墨の筆致などのうまさから真作と判断できる作品ですが、この作品ように色使いの少ない筆致だけのうまさから判断できる作品のほうが真贋の判断は楽かもしれません。
犀東似顔達磨図 平福百穂筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 平福一郎鑑定箱
全体サイズ:横475*縦1795 画サイズ:横305*縦570
国府犀東の著書に平福百穂が挿絵を担当するなど、この両者は大いに親交があったと思われます。親交の深さゆえこのようなユーモラスな作品が生まれたのでしょう。
*なお国府犀東と平福百穂による合作の掛け軸もあるようです。
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国府犀東:(こくぶ さいとう)明治6年(1873年)2月~昭和25年(1950年)2月27日)。戦前日本の記者、官僚、漢詩人。本名は種徳。石川県金沢市出身。
新潟、台湾、東京で新聞記者を務めた後、内閣、宮内省、文部省等で地方改良運動、近代社格制度、詔勅起草、文化財行政等に関わった。また慶應義塾大学予科、旧制東京高等学校で漢文を講義した。 号は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来する。対岸で生まれた室生犀星はこれを受けて犀西の意で犀星と名乗った。また、美術編集者坂井犀水の号も犀川による。
学生時代:明治6年(1873年)、石川県石川郡金沢城下(金沢市竪町)の左官職鹿島家に生まれた。初名は長松。後に旧金沢藩士国府家の養子となり、国府種徳と称する。 金沢の竪町小学校に進むと、上級生には泉鏡花、徳田秋声、小倉正恒、井上友一、清水澄、藤岡作太郎がおり、彼らと交流しながら『南総里見八犬伝』、『洗心洞箚記』、『伝習録』、広瀬淡窓漢詩等を読んだ。11歳の時、金沢の禅寺の僧に漢詩を学び、碁石を並べて平仄を覚えた。地元の旧制第四高等学校を卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、洋行帰りの一木喜徳郎に国法学を学んだ。また、京都大徳寺の菅広州、鎌倉円覚寺の釈宗演?に参禅した。
記者時代:卒業前に中退して新潟市で新聞記者となった。明治33年(1900年)恐らく内藤湖南の推薦により台北市に渡り、台湾日報に勤めた。当時の台湾は治安が悪く、剣潭古寺前の基隆河上で月見中銃撃に見舞われ、また潜伏中の孫文に軍資金を請われ、台湾総督に掛け合ったが拒まれたため、台湾銀行の一柳の融通を受けたという。 半年程で本土に帰り、博文館で長く太陽主筆を務め、また同社から歴史本や詩集を刊行した。博文館退職後は万朝報、毎日電報に勤めた。毎日浅草区橋場の自宅から有楽町までタキという車夫の人力車で通勤したという。
官僚時代:明治41年(1908年)、同郷の井上友一に誘われ内務省地方局事務嘱託となり、地方改良運動に関わった。同運動の拡大と共に内閣嘱託となり、有職故実の知識を買われ、神社の叙位昇叙、詔勅の起草、大喪の礼、即位の礼等に携わった。特に国民精神作興ニ関スル詔書は犀東が中心に起草したもので、三笠宮崇仁親王の幼名も犀東の命名による。明治42年(1909年)頃四谷区永住町2番地、明治43年(1910年)頃元鮫河橋町59番地、明治45年(1912年)頃は南町12番地に居住している。大正の元号勧申案を作成し、また昭和改元時には内閣案として立成・定業・光文・章明・協中の候補を提出し、光文案が外部に漏れて光文事件が起こった。 大正9年(1920年)、史蹟名勝天然紀念物保存法の制定に際し、宮内省の助成で西欧へ視察旅行を行った。ロンドンではネーヴィホテルに滞在して駒井権之助を介し地元の詩人と交流し、またフランスでは東洋学者エドゥアール・シャヴァンヌの本を購入した。 摂政時代の昭和天皇の大正11年(1922年)四国行啓、大正12年(1923年)台湾行啓時には、漢詩を教えていた徳川頼倫の伝で宮内省御用掛に任じられ、記録の作成に携わった。 戦前は渋谷区栄通一丁目34番地に住んでいたが、晩年は千葉県君津郡竹岡村(富津市竹岡)に疎開した。
昭和25年(1950年)2月27日死去し、神奈川県鎌倉市円覚寺に葬られた。享年77歳。
*平福百穂とほぼ同年代の人です。
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冒頭の記述のように墨に筆遣いから察して真筆と判断しています。
作品はまずは最初にインスピレーションによる判断が大切だと思いますが、このインスピレーションなるものは数多くの作品を経ないと出てこないと思います。
先日読んだ小説には「いくら美術館や博物館で作品を観てもなんの役にも立たない。自腹で作品を買って、贋作や駄作だったら地団駄踏んで悔しがってこそ目利きが身に付くもの。」と書かれていました。まさしくその通り・・・。しかも1万、2万という小遣い程度で購入できる作品ではダメらしい。どうもその本によると「最近の物価では最低でも30万はするものを購入しないと・・。」ということらしい。30万もするならそれなりに本気で真贋も含めて勉強するからということのようです。
さらには自分の所蔵品が最初から真作と思い込んでいる者や迷っている御仁もだめらしい。きちんと他人の評価を受けることも必要だと記されており、骨董蒐集に必須とされる「売ってみないと解らない。」という第3者の評価を受けることが必要とも記されています。蒐集家は自分の殻に閉じこもる性癖の方が多いのでこれは意外に難しい・・・
本作品には平福百穂の後半生に数多く押印されている白文朱長方印「平福」の印のみです。箱書は子息の平福一郎によるものです。通常は書状の鑑定書の多い平福一郎の鑑定ですが、たまに箱書の鑑定作品もあるようです。
「平福百穂初筆犀東似顔達磨図」とあることから正月に描かれた作品であろうと推測されます。平福一郎氏はこの作品が正月に描かれたことをきっと覚えていたのでしょう。
実際に「国府犀東」の似顔絵だと平福百穂が子息の平福一郎に伝えていたのかもしれませんね。
さて、当方のインスピ―レーションは正しいか否か・・。息子曰く「パパのおもちゃは全部捨てちゃうもんね。」、さらに家内は「全部売っちゃうもんね。」だと・・ 小生は達磨の如く黙るばかり・・・。
水を空けて、水洗いして、エア抜き・・・、これが意外に重労働 息子に手伝ってもらってようやくという感じです。エア抜きまで完了して夕方まで干して、収納・・・。
本日の作品は平福百穂の作品の紹介です。
大雑把な制作時期は大正年間か昭和初期年間でしょうが、詳細は不明な作品です。墨の筆致などのうまさから真作と判断できる作品ですが、この作品ように色使いの少ない筆致だけのうまさから判断できる作品のほうが真贋の判断は楽かもしれません。
犀東似顔達磨図 平福百穂筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 平福一郎鑑定箱
全体サイズ:横475*縦1795 画サイズ:横305*縦570
国府犀東の著書に平福百穂が挿絵を担当するなど、この両者は大いに親交があったと思われます。親交の深さゆえこのようなユーモラスな作品が生まれたのでしょう。
*なお国府犀東と平福百穂による合作の掛け軸もあるようです。
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国府犀東:(こくぶ さいとう)明治6年(1873年)2月~昭和25年(1950年)2月27日)。戦前日本の記者、官僚、漢詩人。本名は種徳。石川県金沢市出身。
新潟、台湾、東京で新聞記者を務めた後、内閣、宮内省、文部省等で地方改良運動、近代社格制度、詔勅起草、文化財行政等に関わった。また慶應義塾大学予科、旧制東京高等学校で漢文を講義した。 号は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来する。対岸で生まれた室生犀星はこれを受けて犀西の意で犀星と名乗った。また、美術編集者坂井犀水の号も犀川による。
学生時代:明治6年(1873年)、石川県石川郡金沢城下(金沢市竪町)の左官職鹿島家に生まれた。初名は長松。後に旧金沢藩士国府家の養子となり、国府種徳と称する。 金沢の竪町小学校に進むと、上級生には泉鏡花、徳田秋声、小倉正恒、井上友一、清水澄、藤岡作太郎がおり、彼らと交流しながら『南総里見八犬伝』、『洗心洞箚記』、『伝習録』、広瀬淡窓漢詩等を読んだ。11歳の時、金沢の禅寺の僧に漢詩を学び、碁石を並べて平仄を覚えた。地元の旧制第四高等学校を卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、洋行帰りの一木喜徳郎に国法学を学んだ。また、京都大徳寺の菅広州、鎌倉円覚寺の釈宗演?に参禅した。
記者時代:卒業前に中退して新潟市で新聞記者となった。明治33年(1900年)恐らく内藤湖南の推薦により台北市に渡り、台湾日報に勤めた。当時の台湾は治安が悪く、剣潭古寺前の基隆河上で月見中銃撃に見舞われ、また潜伏中の孫文に軍資金を請われ、台湾総督に掛け合ったが拒まれたため、台湾銀行の一柳の融通を受けたという。 半年程で本土に帰り、博文館で長く太陽主筆を務め、また同社から歴史本や詩集を刊行した。博文館退職後は万朝報、毎日電報に勤めた。毎日浅草区橋場の自宅から有楽町までタキという車夫の人力車で通勤したという。
官僚時代:明治41年(1908年)、同郷の井上友一に誘われ内務省地方局事務嘱託となり、地方改良運動に関わった。同運動の拡大と共に内閣嘱託となり、有職故実の知識を買われ、神社の叙位昇叙、詔勅の起草、大喪の礼、即位の礼等に携わった。特に国民精神作興ニ関スル詔書は犀東が中心に起草したもので、三笠宮崇仁親王の幼名も犀東の命名による。明治42年(1909年)頃四谷区永住町2番地、明治43年(1910年)頃元鮫河橋町59番地、明治45年(1912年)頃は南町12番地に居住している。大正の元号勧申案を作成し、また昭和改元時には内閣案として立成・定業・光文・章明・協中の候補を提出し、光文案が外部に漏れて光文事件が起こった。 大正9年(1920年)、史蹟名勝天然紀念物保存法の制定に際し、宮内省の助成で西欧へ視察旅行を行った。ロンドンではネーヴィホテルに滞在して駒井権之助を介し地元の詩人と交流し、またフランスでは東洋学者エドゥアール・シャヴァンヌの本を購入した。 摂政時代の昭和天皇の大正11年(1922年)四国行啓、大正12年(1923年)台湾行啓時には、漢詩を教えていた徳川頼倫の伝で宮内省御用掛に任じられ、記録の作成に携わった。 戦前は渋谷区栄通一丁目34番地に住んでいたが、晩年は千葉県君津郡竹岡村(富津市竹岡)に疎開した。
昭和25年(1950年)2月27日死去し、神奈川県鎌倉市円覚寺に葬られた。享年77歳。
*平福百穂とほぼ同年代の人です。
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冒頭の記述のように墨に筆遣いから察して真筆と判断しています。
作品はまずは最初にインスピレーションによる判断が大切だと思いますが、このインスピレーションなるものは数多くの作品を経ないと出てこないと思います。
先日読んだ小説には「いくら美術館や博物館で作品を観てもなんの役にも立たない。自腹で作品を買って、贋作や駄作だったら地団駄踏んで悔しがってこそ目利きが身に付くもの。」と書かれていました。まさしくその通り・・・。しかも1万、2万という小遣い程度で購入できる作品ではダメらしい。どうもその本によると「最近の物価では最低でも30万はするものを購入しないと・・。」ということらしい。30万もするならそれなりに本気で真贋も含めて勉強するからということのようです。
さらには自分の所蔵品が最初から真作と思い込んでいる者や迷っている御仁もだめらしい。きちんと他人の評価を受けることも必要だと記されており、骨董蒐集に必須とされる「売ってみないと解らない。」という第3者の評価を受けることが必要とも記されています。蒐集家は自分の殻に閉じこもる性癖の方が多いのでこれは意外に難しい・・・
本作品には平福百穂の後半生に数多く押印されている白文朱長方印「平福」の印のみです。箱書は子息の平福一郎によるものです。通常は書状の鑑定書の多い平福一郎の鑑定ですが、たまに箱書の鑑定作品もあるようです。
「平福百穂初筆犀東似顔達磨図」とあることから正月に描かれた作品であろうと推測されます。平福一郎氏はこの作品が正月に描かれたことをきっと覚えていたのでしょう。
実際に「国府犀東」の似顔絵だと平福百穂が子息の平福一郎に伝えていたのかもしれませんね。
さて、当方のインスピ―レーションは正しいか否か・・。息子曰く「パパのおもちゃは全部捨てちゃうもんね。」、さらに家内は「全部売っちゃうもんね。」だと・・ 小生は達磨の如く黙るばかり・・・。