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衆議院選挙戦も活況にあるようですが、希望の党だけには投票したくないというのが当方の本音です。中身のない政策・候補者、当選だけを考える寄せ集め集団は前の野党政権の同じく日本を停滞させることになります。自民党に「ちょっとお灸をすえる。」という思いが大火を招きかねません。しかも都知事当選の頃から本ブログで述べているように、批判だけが得意で、根回しのできない方が党のトップであれば政策実行どころではなくなります。
今回の選挙はとくに都民がどう判断するかが焦点ですが、きちんとした考えをもって投票に臨むべきで、劇場と称して何もできない党首の党に投票する愚かな都民とならぬことが肝要です。一票たりとも投票すべき党ではありません。
さて鯉の作品では根強い人気のある画家、土方稲嶺、黒田稲皐の作品ですが、贋作も多くあり、テレビに放映されている「なんでも鑑定団」にも出品されている作品もありましたが、贋作という評価の作品でした。土方稲嶺の作品は本ブログでも紹介しましたが、本日は黒田稲皐の作品の紹介です。
群鯉図 伝黒田稲皐筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1650*横550 画サイズ:縦1205*横505
「因幡画壇」と称されている鳥取を中心に活躍した画家は土方稲嶺→黒田稲皐→小畑稲升と続き、土方稲嶺の門人は大変多く、土方稲嶺は「因幡画壇」の祖と呼ばれている。
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黒田稲皐:(くろだ とうこう、天明7年(1787年) - 弘化3年11月6日(1846年12月23日))。
江戸時代後期の絵師、鳥取藩士。本姓は林。名は文祥。通称は六之丞。字は叔奎か。号ははじめ稲葉、のち稲皐。鳥取藩士・林源三郎の弟として生まれる。
文化4年(1807年)から9年(1812年)の間に鳥取新田藩(東館藩)池田家の家臣・黒田家に養子に入る。藩主池田仲雅の近習となり、しばしば江戸へ赴き公務を勤めた。
幼少の頃から画を好み、藩絵師土方稲嶺に写生画法を学んだ。稲嶺は病の床で稲皐を枕元に呼び寄せ、「我が門流中、相当の技量ある者のみ、画号に稲字を冠せしめよ」とかたったとされ(『鳥取藩史』)、師の信頼が厚かったのを見て取れる。
*落款は「稲皐黒田文祥製」とあり、印章は「文祥」の朱文白丸印が押印されています。
下記の右の写真は参考作品の落款です。印章は一致してないように思われます。
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また、弓馬、刀槍、水練などの武芸にも長じ、落款には「弓馬余興」の印をしばしば用いた。更に「因州臣」「因藩臣」と入った作もあり、これらは、自分はあくまで武士であり絵は余興にすぎないという稲皐の矜持を表している。
当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念した。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。人物、花卉、禽獣いずれも巧みであったが、特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれた。
弘化3年(1846年)11月6日死去。60歳。墓は鳥取市玄忠寺にある。跡は甥の黒田稲観が継ぎ山水画を得意としたが、稲観は33歳で亡くなった。他の弟子に小畑稲升がおり、稲皐の墓前には稲升が寄進した水盤石が置かれている。
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表具はだいぶ痛んでいますが、改装するかどうか悩むところです。
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「池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。」という上記の説明のように、池の中を覗き込んで描いたかのような踊るような構図も魅力があります。
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ただ本作品を「伝」とせざる得ないのは、印章以外にやはり鱗の描き方がちょっと雑に感じるからです。構図はよし、鱗以外の描き方よし・・・。ま~じっくり後学とさせていただきましょう。
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土方稲嶺、黒田稲皐の作品には贋作が多いとのこと、マイナーな画家と現在では思っても、少しでも有名になると贋作が出回るのは今も昔も変わらないようですが・・。
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参考:なんでも鑑定に出品されたが贋作の判定の作品への評
*稲皐の描く鯉の鱗はジグソーパズルをはめこんだような描き方をするのが特徴だが、依頼品の鱗は重なり合って描かれている。また鱗の一枚一枚を見ると、根本が黒く先端が白く描かれているが、その対比がはっきりしすぎている。本来の稲皐の鱗はもっと微妙な変化をしている。
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なにはともあれ、真贋にこだわりすぎると骨董の愉しみはすべてに嫌気がさすことになりかねませんのである意味で割り切りが大切です。骨董は「愉しめや愉しめや」が基本ですから・・。
政治家の真贋もまた然り、政治にかかわりすぎると人生に嫌気がさします。ただし少なくても希望の党は贋作! 都民は真実をきちんと見極めべきでしょう。今回の選挙の贋作は悪意があり、出来がひどいから・・。
今回の選挙はとくに都民がどう判断するかが焦点ですが、きちんとした考えをもって投票に臨むべきで、劇場と称して何もできない党首の党に投票する愚かな都民とならぬことが肝要です。一票たりとも投票すべき党ではありません。
さて鯉の作品では根強い人気のある画家、土方稲嶺、黒田稲皐の作品ですが、贋作も多くあり、テレビに放映されている「なんでも鑑定団」にも出品されている作品もありましたが、贋作という評価の作品でした。土方稲嶺の作品は本ブログでも紹介しましたが、本日は黒田稲皐の作品の紹介です。
群鯉図 伝黒田稲皐筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1650*横550 画サイズ:縦1205*横505
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「因幡画壇」と称されている鳥取を中心に活躍した画家は土方稲嶺→黒田稲皐→小畑稲升と続き、土方稲嶺の門人は大変多く、土方稲嶺は「因幡画壇」の祖と呼ばれている。
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黒田稲皐:(くろだ とうこう、天明7年(1787年) - 弘化3年11月6日(1846年12月23日))。
江戸時代後期の絵師、鳥取藩士。本姓は林。名は文祥。通称は六之丞。字は叔奎か。号ははじめ稲葉、のち稲皐。鳥取藩士・林源三郎の弟として生まれる。
文化4年(1807年)から9年(1812年)の間に鳥取新田藩(東館藩)池田家の家臣・黒田家に養子に入る。藩主池田仲雅の近習となり、しばしば江戸へ赴き公務を勤めた。
幼少の頃から画を好み、藩絵師土方稲嶺に写生画法を学んだ。稲嶺は病の床で稲皐を枕元に呼び寄せ、「我が門流中、相当の技量ある者のみ、画号に稲字を冠せしめよ」とかたったとされ(『鳥取藩史』)、師の信頼が厚かったのを見て取れる。
*落款は「稲皐黒田文祥製」とあり、印章は「文祥」の朱文白丸印が押印されています。
下記の右の写真は参考作品の落款です。印章は一致してないように思われます。
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また、弓馬、刀槍、水練などの武芸にも長じ、落款には「弓馬余興」の印をしばしば用いた。更に「因州臣」「因藩臣」と入った作もあり、これらは、自分はあくまで武士であり絵は余興にすぎないという稲皐の矜持を表している。
当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念した。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。人物、花卉、禽獣いずれも巧みであったが、特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれた。
弘化3年(1846年)11月6日死去。60歳。墓は鳥取市玄忠寺にある。跡は甥の黒田稲観が継ぎ山水画を得意としたが、稲観は33歳で亡くなった。他の弟子に小畑稲升がおり、稲皐の墓前には稲升が寄進した水盤石が置かれている。
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表具はだいぶ痛んでいますが、改装するかどうか悩むところです。
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「池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。」という上記の説明のように、池の中を覗き込んで描いたかのような踊るような構図も魅力があります。
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ただ本作品を「伝」とせざる得ないのは、印章以外にやはり鱗の描き方がちょっと雑に感じるからです。構図はよし、鱗以外の描き方よし・・・。ま~じっくり後学とさせていただきましょう。
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土方稲嶺、黒田稲皐の作品には贋作が多いとのこと、マイナーな画家と現在では思っても、少しでも有名になると贋作が出回るのは今も昔も変わらないようですが・・。
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参考:なんでも鑑定に出品されたが贋作の判定の作品への評
*稲皐の描く鯉の鱗はジグソーパズルをはめこんだような描き方をするのが特徴だが、依頼品の鱗は重なり合って描かれている。また鱗の一枚一枚を見ると、根本が黒く先端が白く描かれているが、その対比がはっきりしすぎている。本来の稲皐の鱗はもっと微妙な変化をしている。
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なにはともあれ、真贋にこだわりすぎると骨董の愉しみはすべてに嫌気がさすことになりかねませんのである意味で割り切りが大切です。骨董は「愉しめや愉しめや」が基本ですから・・。
政治家の真贋もまた然り、政治にかかわりすぎると人生に嫌気がさします。ただし少なくても希望の党は贋作! 都民は真実をきちんと見極めべきでしょう。今回の選挙の贋作は悪意があり、出来がひどいから・・。