当方の蒐集対象となっている木下孝則の作品ですが、まだ若い頃の作品が入手できましたので紹介します。
ブロンドプロフィール 木下孝則画 1924年 その28
油彩額装 左上サイン 誂:黄袋+タトウ
M10号程度 額サイズ:縦690*横535 画サイズ:縦520*横370
この作品は大正15年(1924年)頃に描かれたようで、木下孝則が32歳の頃の作です。木下孝則は、明治27年2月24日東京市四谷区に生まれており、父友三郎は、和歌山県の出身で司法畑から後に明治大学総長となった人で、母は西洋美術史家であった児島喜久雄氏の三女です。
孝則は7人兄弟の長男で、三男は、やはり洋画家となった木下義謙です。木下孝則が洋画を志望したのには、母方の叔父児島喜久雄の影響によるところが大きかったといわれています。
木下孝則は明治39年、学習院初等科卒業、次で中等科、高等科に進み、大正6年京大法科大学政治経済学科に入学、翌年東京帝国大学文科大学哲学科に再入学しますが、大正8年に東大も退学しています。この学歴からかなりの秀才であったのでしょうね。
この頃、小島善太郎、林倭衛、佐伯祐三その他との交友から、油絵を描き初め、大正10年第8回二科会展に「富永君の肖像」が初入選となっています。
続いて大正12年、13年に樗牛賞、二科会賞を受けますが、15年、1930年協会を設立します。昭和2年には春陽会に会員として招かれ、しばらくは1930年協会展並びに春陽会展にも出品していたようです。本作品はこの頃に描かれたものと推測されます。
この頃の略歴は下記のとおりです。
大正8年 東大を退学、小島善太郎、林倭衛、佐伯祐三、前田寛治、里見勝蒋、中山巍らと交友。
大正10年 第8回二科展に「富永君の肖像」入選。9月渡仏
大正12年 イタリアに数カ月滞在ののち、秋帰国、小島善太郎、児島善三郎らと円鳥会々員となる。
大正13年 第11回二科会展に「針仕事をする女」「ゼレニフスカ夫人」「イヴォンヌ」など7点を出品、樗牛賞をうける。
大正14年 第12回二科会展に「後向きの裸婦の習作」「読書する了子」「志津枝」等出品、二科会賞をうける。
大正15年 第1回聖徳太子奉讃展に「K男爵夫人」出品、前田寛治、佐伯祐三らと1930年協会を設立
大正10年 第8回二科展に「富永君の肖像」入選。9月渡仏
大正12年 イタリアに数カ月滞在ののち、秋帰国、小島善太郎、児島善三郎らと円鳥会々員となる。
大正13年 第11回二科会展に「針仕事をする女」「ゼレニフスカ夫人」「イヴォンヌ」など7点を出品、樗牛賞をうける。
大正14年 第12回二科会展に「後向きの裸婦の習作」「読書する了子」「志津枝」等出品、二科会賞をうける。
大正15年 第1回聖徳太子奉讃展に「K男爵夫人」出品、前田寛治、佐伯祐三らと1930年協会を設立
若い頃から一貫して婦人像を描きつづけ、穏健な写実派の作家として評価されてきます。戦後になってからは一連のバレリーナの作品によって注目されますが、その他の婦人像も、すべて、都会の洗練された若い女性をモデルとして、明快単純な色調、優れた描写力が独自の作風を創り出しています。作品は殆ど女性像でそれもコスチュームが多く、裸婦の作品は比較的少ないようです。
女性の内面も含めた美しい部分を描きたいという画家の姿勢が見てとれ、さらにはこの作品では髪の美しさにこだわって描いています。直前の渡欧が影響している作品かもしれませんね。
この頃の作品は遺っている数が少ないようで、貴重な作品となるでしょう。
初期の作品はその後の明るさのある作品と違って、黒を主体とした作品が多いようです。