夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

氏素性の解らぬ作品 扇子を持つ女(仮題) 伝長谷川利行筆

2024-12-11 00:01:00 | 洋画
少しは興味があった画家「長谷川利行」の作品ですが、人気ゆえに贋作が多く、また高価なこともあり、距離をおいていた画家のひとりです。

今回紹介する作品はなんとなく気に入り、伊勢正義、木下孝則、原精一の女性を描いた作品蒐集の延長上でインタネットオークションにて落札してみた作品です。真偽のほどは当方は素人故、ご容赦願います。



落札時の金額はとても廉価で真作とは思えないのですが、明るい印象の作品なので愉しめる作品かと思い、画家の画歴を調べてみる契機になろうかと購入を試みた作品です。



氏素性の解らぬ作品 扇子を持つ女(仮題) 伝長谷川利行筆
油彩額装 誂:黄袋+タトウ
F0号 額サイズ:縦300*横260 画サイズ:縦179*横139



長谷川 利行(せかわ としゆき)は明治24年(1891年)7月9日? ~昭和15年(1940年)10月12日)。画家としての活動期間は20年ほどらしい。京都府出身の洋画家、歌人でした。姓の読みは本人の署名に従い「はせかわ」とされ、愛称は「りこう」として一般的に呼称されています。

長谷川利行は「日本のゴッホ」と称せられ、鮮やかな色彩とスピード感ある筆致が特徴とされます。

*一筆で描く唇の赤、頬のピンク、様々な布の立体感、これは凝縮された美しさ・・・・。



1891年に京都府京都市山科区で伏見警察署の警察官であった長谷川利其(としその)、テルの五人兄弟の三男として生まれています。家族構成や出生日はいくつかの説があり、はっきりとしていないそうです。和歌山県有田郡広村(現・広川町)の私立耐久中学校(現・県立耐久高校)に入学し文学を志し同人誌などを発行するも、1909年に中学校を中退しています。当時は歌や詩に興味を持ち、1919年には「長谷川木葦集」という私家版の歌集を発行していいます。



30歳になる1921年に上京するも、しばらくは大衆小説などを書いていました。いつ頃に絵を始めたか不明だそうですが、独学で画を学んだようです。自身の「アトリエ」を持たず、「思い立ったら絵を描く」というスタンスを生涯続けます。

帝展や二科展に落選を重ねますが、田辺至ら主催の第1回新光洋画会展(1920年)にて「田端変電所」が初入選します。関東大震災に被災し、また震災の被害をうけた東京をうたった歌誌「火岸」を刊行後、帰郷し、一時京都で活動しています。その後1926年に再上京し、日暮里の日蓮宗中山派修練所の離れに暮らしています。紹介により高橋新吉と出会い、前田寛治や里見勝蔵の知遇を得、さらに靉光や熊谷守一、熊谷登久平、麻生三郎、井上長三郎、寺田政明らとの交流が始まり、第14回二科展で樗牛賞を受賞、この時が精力的に活動した時期です。翌1926年には佐伯祐三らの「一九三〇年協会」展で奨励賞を受けるなど、徐々に評価を高めていきます。

*利行としては小さな油彩ですが、小さいだけに丁寧に描かれています。かえって大きな絵にない特徴がよく出ているようにも思えますが・・・。



だが一方で、長谷川の生活は、浅草近辺の貧民街で一日中絵を描いているか、絵を換金して酒を飲んでいるかだったようで、友人たちに絵を書いて送りつけたり、前田夕暮、岸田國士ら著名人のところに押しかけて絵を描き、金をせびったりするなど生活は荒れ果てていたようです。このため、知人たちは後世まで彼については堅く口を閉ざしており、その経歴には不明な点が多いことはこのことに起因しているようです。



40歳を過ぎた1929年以降は山谷の木賃宿や簡易宿泊所、救世軍の宿舎などを転々とし、1937年の二科展を最後に公募展へ出展していません。1932年に詩人や小説家と共に芸術家グループ「超々会(シュルシュル会)」を結成し、長谷川は会の中心的な人物となるものの、1年ほどで自然消滅してしまいます。その後、理解者であった天城俊彦が新宿に開いた天城画廊で頻繁に個展を開いていましたが、安酒の飲み過ぎで慢性化していた胃潰瘍が悪化すると徐々に身体が弱り、また1936年の晩秋頃に泥酔してタクシーにはねられ重傷を負うなど、1939年以降はほとんど作品を残していません。1940年5月17日、三河島の路上で行き倒れになり養育院に収容されたものの、胃癌の治療を拒否し、同年10月12日死去しています。享年49歳です。

この際、彼が最後まで離さなかった気に入った絵画作品をぎっしり入れた行李といつも持っていたデッサン帳は、彼が行き倒れて収容された東京市養育院での彼の死後、(引き取り人のない場合の)規定によりすべて焼却処分されたといわれています。 翌1941年1月になって養育院を訪れた天城俊彦らにようやくその死が知られることとなり、遺骨は天城によって引き取られました。

1947年に追悼の短歌集が発行され、高橋新吉、里見勝蔵、児島善三郎、熊谷登久平、あるいは長谷川を援助した有島生馬らが文を寄せています。

30周忌を迎えた1969年10月15日、上野不忍池弁天島に建てられた「利行碑」および隣に立つ歌碑の除幕式を画廊羽黒洞(代表・木村東介)が主催しています。

*下記写真は本作品中のサインですが、良し悪しは素人の当方には判断がつきかねます。なお本ブログは作品の真贋よりも、長谷川利行の資料としてご参考下さい。



画家としての活動は20年に満たないですが、その割に残っている作品数は多いとされます。非常に速筆で、1〜2時間ほどでれっきとした油絵を仕上ています。絵の具の物質性を活かし、木ヘラや指などで引っ掻いたように描いた作品もあります。色彩としては、白を好んで使ったようです。1935年からの数年間は、ガラス絵を多く手掛けており、見ていた人物の証言によると、ガラスを手に持ち正面を手前に向けたまま反対側に手を回し、裏面からひょいひょいっと僅かな時間で描いたという逸話があります。

しかし、その無頼な生き方や経歴故に贋作が非常に多いことも手伝い、長谷川の作品の評価が進んだのは死後数十年たってからです。2009年、第3回「1930年協会」展に出展した絵画のうちの1点「カフェ・パウリスタ」が発見され、2月24日放送の『開運!なんでも鑑定団』で紹介されています。鑑定額は1800万円・・・。



その後、職員が同放送を見ていたことから東京国立近代美術館が2009年度に買い取ったという経緯が、同番組で明かされました。美術館では修復と科学分析が行われ、所蔵する長谷川作品は『岸田国士像』(1930年)、『鉄工場の裏』(1931年)や『新宿風景』(1937年頃)と合わせて4点となったそうです。



本作品に関してのものかどうかも不明ですが、木村東介の名刺が添付されており、表に「五月九日 岩□様」、裏には「一金百万円也 絵画-利行員?図代として借用明後十一日午後3時まで?御支払いいたし候」と記されています。封筒には昭和59年8月1日の消印があります。



木村東介氏については略歴は下記のとおりです。

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木村東介:(きむら とうすけ、1901年4月8日 - 1992年3月11日)は美術商。本名は文雄。山形県米沢市出身。建設大臣などを務めた木村武雄は弟。
山形県議会議員を務めた木村忠三の長男として生まれます。米沢商業学校を中退して上京。やくざな生活や院外団暮らしを続け、一時は憲政公論社に入社。乱闘で片腕を失っています。法廷で出会った裁判官の人格と気骨に打たれ改心し、柳宗悦の指導を受け、昭和7(1932)年、美術商「羽黒洞」を創立します。肉筆浮世絵、大津絵、泥絵などの民族美術を取り上げました。店にはジョンレノン・オノヨーコ夫妻が訪れ、曽我蕭白の作品を購入したそうです。



1960年、上野池之端に不忍画廊(しのばずがろう)を開きます(2012年日本橋に移転)。放浪の画家である長谷川利行の絵画、米沢出身の東洋思想家宮島詠士の書を世に紹介しています。戦後は、瞽女を描いた斎藤真一を世に問い、瞽女ブームをつくったとされます。吉川英治、勅使河原蒼風らの知遇を得たほか、潜行中であった辻政信をかばっています。弁も筆も立ち、芸術院や日展の腐敗を攻撃し、有名画商と人気画家の腐れ縁を弾劾し、その一方で、現代の不遇な異色画家を後援しました。

下記の封筒が本作品に添付されています。



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本日紹介した作品は「利行」ファンには申し訳ない氏素性の解らぬ作品ですが、当方では理解を深める資料として投稿していますのでご容赦願います。










































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