最近は原精一のちょっと小さめの作品を展示室に展示しています。各作品には無い場合にはタトウを黄袋を誂えておきます。タトウと黄袋は作品を額装の作品を取り扱う上で必需品ですね。これが備えないで作品を取り扱うのは蒐集者としては失格です。
今回紹介するのは中央に飾れらた作品です。
黄衣の女 原精一画 その9
右下サインとキャンパス裏に題名とサイン有 油彩額装 誂タトウ+黄袋
F2号 額サイズ 縦405*横355 画サイズ:縦240*横190
インターネットオークションで検索すると数多くの作品が表示されます。真贋もあるのでしょうが、これほど多くの作品を描いたのでしょうか? どうも人物、特に裸婦を多く描いており、デッサンの力は高く評価され、多数の素描展を開催していますので、素描の作品数が多いのかもしれません。
よく見ていくと出来の良し悪しがあるようで、その中には贋作もあるのでしょうが、よく選ばないといけない画家のひとりのようです。ともかく作品数の多さには閉口することになります。
裸婦より着衣の作品の方が当方は好きですね。
作品やキャンパス裏面のサインは上記写真のとおりです。
額の裏面にある「梅田美術工芸社」については詳細は不明です。
原精一は戦争に二度出征しています。その当時の質問に「現役の兵隊である訳でしょう。そのなかで、どうやって絵を描いていたのですか?」というのがありますが、次のように答えています。
「僕は下士官だからね。まあ、たとえば昼になって、皆で飯を食う。飯を食ってたら、スケッチできないから飯を食わないで僕はスケッチして歩く……要するに、時間割そのものは軍隊の時間割だから画人(原精一)としては、飯を食う時とか、ちょっとした余暇に描くとか……その時に、軍務だけやるヤツはつまんないヤツだと思ったね、僕は。……それは、もう、いかなる時でも、僕は鉛筆を持って弾に当たってすっとぶなら光栄だと思ったよ。それとね、不思議なことに、これだけ一生懸命やってるのに、武人の神様はどうでもいいけど、ミューズの神は助けてくれるだろうと、僕はずっと思ったね。で、もし僕の仕事がダメならば、ミューズの神がみはなして、弾に当って死んじゃうな、と思ったな。」貪欲な画家としての気概が伝わり、描く時間のなかった反動がその作品数に現れているようにも思えますね。
また次のような逸話もあります。 「原精一のアトリエを訪れたことのある人なら、誰でも一瞬、唖然とし、そして惘然となるであろう。そこは、乱雑をきわめている。いったいに画家のアトリエはきれいではないし、雑然としているものであろうが、原精一のそれは並はずれて乱雑である。しかし、一歩そこへ足を踏みこむと、文字どおり足の踏み場もないが、つま先立ってそのなかを数歩あるいてみると、画家原精一の世界、というべきものを全身の皮膚をとおして感じさせられる。」
「そんなアトリエの片隅に、古ぼけた段ボールの小さな箱があった。蓋があいていて、そこから数枚の黄ばんだ粗末な紙片がはみでていた。手にとってみると、そこに、中国の風景らしきものが荒々しく描かれていたり、地面に横たわっている兵士の姿が鉛筆をつかった早い線描で描かれたりしていた。
絵具と油のにおいのただよう乱雑をきわめたアトリエのなかで、阿修羅のようにキャンバスにむかっている原精一の姿と、弾丸の乱れとぶ戦場を這い回る原精一の姿と、そして戦いがやんでまだなお戦塵のくすぶる荒れはてた光景のなかに小さな紙片と鉛筆を持って仁王のように立っている原精一の姿とが、ひとつになってここに浮びあがってくる。
原精一は、日中戦争から太平洋戦争の8年間のあいだに、二度にわたって召集をうけ、一兵士として戦場をさまよいながら、その間に数百枚のスケッチを描いているのである。このあいだには、画家として軍の報道部に属したこともあるが、一兵士にして画家であった、兵士でありながらその間にも画家でありつづけた、ということをこの数百枚のスケッチは示している。それは従軍画家による戦争の記録画ではない。兵士にして画家であった画家のデッサンである。本展が「戦中デッサン展」と題される理由がそこにある。」
このような逸話を通して彼の作品を見るとまた面白い。