
昨日は皆で東京美術倶楽部へ・・・。息子と二人で気に入った作品は刀・・、お値段は2000万円也。家内はトーテツ君(青銅器)と原山渓の絵(300万円)。なかなか当方には手の届かない選抜きの作品群ですが、買われる御仁が多々おられるようです。

さて本日紹介する作品は本ブログにてときおり紹介されている「古清水」に分類されると思われる作品ですが、「古清水」という名称自体は、制作年代が京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また江戸後期であっても磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。

一般的には野々村仁清以後 から奥田穎川(1753~1811年)以前のものとされています。具体的には仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって本格的な磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。
さらに京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。
京焼に詳しい方は理解できるでしょうが、一般的には解ったようでよく解らない分類ですね。
お気に入りの作品 古清水焼 七宝菊流透手箱菓子器
修理痕有 合箱入
幅105*奥行160*高さ105

野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造しましたが、その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世にて「古清水」と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されたとされています。

分類で紛らわしいのは脈々と現代まで続いている京焼の色絵があり、その近現代の作品と「古清水」の作品が混同されている点です。見分け方は陶器と磁器の違いのほかは、近現代の釉薬は大変透明感が強くさらさらしており、文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えているという特徴があります。古いものはそのようなことはなく、釉薬にねっとりとした不透明で盛り上がり感があります。最大の特徴は赤の釉薬で、「古清水」の古い赤は近現代の釉薬よりもっとどす黒さに近い濃い赤とされます。
また近現代の胎土は硬くてすべすべしていますが、本来古清水の胎土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするものとされています。解りやすいのは基本的に「古清水」は高台の裏などに窯印はありません。窯印のあるものは一部を除き、基本的に古清水焼より若い物と区別しています。

粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(生没年未詳)によって大きく開花しましたが、仁清は粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。それによって当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品が後に「古清水」と呼ばれるようになりました。

それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。

江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。
そんな状況下の京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(1753~1811)です。頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,その後の幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。

幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(1824~84)によって制作された「京薩摩」が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛など多くの陶芸家を輩出しました。第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。
以上が京焼の大まかな陶歴ですが、幕末・明治の変革期以降の近代の京焼についてはなんとなく当方では食指が動く作品は少なくなったように思っています。

箱書には「御姫様頂戴之品也」とありますが、来歴は不明ですので参考程度・・。

所蔵に関する貼紙もありますが、こちらも詳細は不明です。

補修跡が僅かにありますが、繊細な作りの古清水焼は破損しやすくどんどん完品の作品は少なくなっているように思います。

なおこの作品は房に付いた紐があったものと推測されます。そのために菊の文様部分に穴があいており、蓋が中央部が少しへこんでいます。

そこでとりあえずあり合わせの房紐を誂えてみました。紫色を選択しましたが、もう少し贅沢な房紐のほうがよかったかな?

ま~、一応このようなもので使ったのではないでしょうか?

張り紙類はそのままに、とりあえずは保管箱に収めておきます。

正真の古清水かな?? なんとなく雰囲気はあり、当方のお気に入りの作品のひとつとなっています。
さて冒頭の息子とのツーショット、家内は「好きもの(数寄者?)と未来」だね。」だとさ・・・。帰宅後には息子は気に入った刀剣(来国俊)を日記に書いていました

さて本日紹介する作品は本ブログにてときおり紹介されている「古清水」に分類されると思われる作品ですが、「古清水」という名称自体は、制作年代が京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また江戸後期であっても磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。

一般的には野々村仁清以後 から奥田穎川(1753~1811年)以前のものとされています。具体的には仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって本格的な磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。
さらに京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。
京焼に詳しい方は理解できるでしょうが、一般的には解ったようでよく解らない分類ですね。
お気に入りの作品 古清水焼 七宝菊流透手箱菓子器
修理痕有 合箱入
幅105*奥行160*高さ105

野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造しましたが、その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世にて「古清水」と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されたとされています。

分類で紛らわしいのは脈々と現代まで続いている京焼の色絵があり、その近現代の作品と「古清水」の作品が混同されている点です。見分け方は陶器と磁器の違いのほかは、近現代の釉薬は大変透明感が強くさらさらしており、文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えているという特徴があります。古いものはそのようなことはなく、釉薬にねっとりとした不透明で盛り上がり感があります。最大の特徴は赤の釉薬で、「古清水」の古い赤は近現代の釉薬よりもっとどす黒さに近い濃い赤とされます。
また近現代の胎土は硬くてすべすべしていますが、本来古清水の胎土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするものとされています。解りやすいのは基本的に「古清水」は高台の裏などに窯印はありません。窯印のあるものは一部を除き、基本的に古清水焼より若い物と区別しています。

粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(生没年未詳)によって大きく開花しましたが、仁清は粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。それによって当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品が後に「古清水」と呼ばれるようになりました。

それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。

江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。
そんな状況下の京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(1753~1811)です。頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,その後の幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。

幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(1824~84)によって制作された「京薩摩」が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛など多くの陶芸家を輩出しました。第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。
以上が京焼の大まかな陶歴ですが、幕末・明治の変革期以降の近代の京焼についてはなんとなく当方では食指が動く作品は少なくなったように思っています。

箱書には「御姫様頂戴之品也」とありますが、来歴は不明ですので参考程度・・。

所蔵に関する貼紙もありますが、こちらも詳細は不明です。

補修跡が僅かにありますが、繊細な作りの古清水焼は破損しやすくどんどん完品の作品は少なくなっているように思います。

なおこの作品は房に付いた紐があったものと推測されます。そのために菊の文様部分に穴があいており、蓋が中央部が少しへこんでいます。

そこでとりあえずあり合わせの房紐を誂えてみました。紫色を選択しましたが、もう少し贅沢な房紐のほうがよかったかな?

ま~、一応このようなもので使ったのではないでしょうか?

張り紙類はそのままに、とりあえずは保管箱に収めておきます。

正真の古清水かな?? なんとなく雰囲気はあり、当方のお気に入りの作品のひとつとなっています。
さて冒頭の息子とのツーショット、家内は「好きもの(数寄者?)と未来」だね。」だとさ・・・。帰宅後には息子は気に入った刀剣(来国俊)を日記に書いていました
