近所の方から頂いたメダカ。今回で2回目で前回は2年半まで生きていました。さて今回は・・、と思いながら飼っていたのですが、どうも卵がかえったらしい。稚魚が数匹泳いでいるのを発見。卵らしきものは水槽を別にしておき、あまり期待しないでいたのですが・・、あまりまた増えても困る 世話するのは小生・・・。
*水槽(甕)は色絵の陶磁器・・。
天啓赤絵に分類される作品は本来は非常に数が少なく貴重なものですが、時として南京赤絵と混同されたり、後世の清朝期の五彩の作品が天啓赤絵とされていたり、はたまた日本で天啓赤絵に倣って作られた作品を見誤ったりしているような作品があるようです。
本日の作品のような火入において「天啓赤絵」と称している作品がたびたび見受けられますが、ちょっと違和感がありますので、この度珍しい対のそのような作品を入手したので紹介します。
*古そうな木箱の収まり「唐物赤絵 火入一對」と記されています。「唐物赤絵」・・言い得て妙な表現ですね。
当方では一応「五彩唐物」としておきましょう。
五彩唐絵文火入 一対 清朝
合杉古箱
口径104*高台径*高さ88
本来の天啓赤絵は基本的に天啓赤絵は古染付の上に色釉を施したものです。
天啓赤絵はわりと斬新で大らかな絵柄が多く、絵付けは粗いものの、朱色・緑色・黄色・青色などが使われています。土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用いて絵付を行っています。
天啓赤絵が作られたのは、厳密には明末の天啓年間(1621‐27)から清初にかけてのわずか7年間であり、この時期に製作された作品だけを俗に「天啓赤絵」と称しています。日本では江戸初期頃のことです。
萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施している作品です。その特徴は古染付とほぼ同様ですが、清朝まで続いた古染付と比してその生産量はかなり少ないものです。また天啓赤絵は中国にはほとんど遺品がなく、日本にしかみられないことから、日本からの注文品とみなされています。
天啓赤絵にds火入れがないことはないでしょうが、この作品で違和感のあるのは「虫喰いのないこと」、「顕著な砂付高台ではないこと」、「南京赤絵のように口縁には鉄砂で口紅が施されていること」という点ですね。
それではいつの時代の作品か? (古)伊万里か中国の南京赤絵以降の色絵作品というのが一般的な推察となるでしょう。
南京赤絵の生地の多くは従来の青味が強い白ではなく乳白色を帯びていて、これは色彩を一層際立たせる効果があります。また南京赤絵には基本的に虫喰い、砂付高台が原則となります。そしてなにより基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色され、その色数も初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放な作りとなります。
南京赤絵は色釉だけで彩画した赤絵で有ると分類されていますが、例外は勿論有る様です。南京赤絵の染付は銘など一部に限られており、南京赤絵は華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものもあります。
この作品は天啓赤絵を倣ったように、(古)染付の上に色釉を施しています。つまり基本的には南京赤絵にも属さない作品といえるでしょう。
ただし南京赤絵はその後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化しています。当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多いのですが、日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多いとされます。デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になっています。これは基本的に南京赤絵の手法を生かしたものです。
これらの作品を総称して五彩と分類することがあるようです。五彩とは、高温で焼き上げた白磁に上絵具で絵付けをし、もう一度小型の窯へいれ焼き付ける技法を用いて作られた陶器のこと全般を言います。この技法は釉上着彩画法と言い、釉薬では色を付けず、絵具でなければいけません。五彩と呼ばれますが、五色のみを使っているわけではなく、単に同じ技法で焼かれているものであれば、二色でも六色でも五彩と呼ぶようです。
伊万里ではなく、唐物とするなら南京赤絵以降の五彩手の色絵作品でしょうし、もっと時代が下がると天啓赤絵を倣った近代作と言えるでしょう。この手の火入れは数多くあり、よく解りませんが日本で作られた作品の可能性が高いかもしれません。
上記写真は天啓赤絵(もしくは南京赤絵初期)の作品との比較。
五彩の技法が日本に伝わり、色絵として姿を変え作られました。17世紀初頭、九州の肥前有田に白磁の技術が伝わり、中頃に五彩の技術が導入されたのです。初期の色絵の図柄は、中国から学びを受け、中国産の絵具を使って作られていました。17世紀後半ごろから生産を加速させ、日本独自の穏やかな様式を取り入れ完成させたものが、有田焼(古伊万里)として有名になったのです。初期赤絵やさらには古九谷にも影響を与えたとされます。
上記の写真は天啓赤絵の作品との比較ですが、このような作品群は厳密にはどのようなジャンルに分類されるかは慎重を期すように思えます。
いずれにしろ呉須赤絵、天啓赤絵、古染付、南京赤絵は日本の初期の色絵には大きな影響を与えています。
ともかく骨董として蒐集する者や骨董店では、古染付、天啓赤絵、南京赤絵とすぐに崇めたくなりますが、基本はその作品の趣向の面白さが評価のポイントになるのでしょう。古染付、天啓赤絵、南京赤絵でたとえあっても駄作が多いので、作品の評価は伊万里であろうと古染付、天啓赤絵、南京赤絵であろうと絵が稚拙なのか、面白いのか、その趣向による判断だと当方では考えています。その点では本作品は線香立てなどの普段使いには面白い作品となるでしょうね
*水槽(甕)は色絵の陶磁器・・。
天啓赤絵に分類される作品は本来は非常に数が少なく貴重なものですが、時として南京赤絵と混同されたり、後世の清朝期の五彩の作品が天啓赤絵とされていたり、はたまた日本で天啓赤絵に倣って作られた作品を見誤ったりしているような作品があるようです。
本日の作品のような火入において「天啓赤絵」と称している作品がたびたび見受けられますが、ちょっと違和感がありますので、この度珍しい対のそのような作品を入手したので紹介します。
*古そうな木箱の収まり「唐物赤絵 火入一對」と記されています。「唐物赤絵」・・言い得て妙な表現ですね。
当方では一応「五彩唐物」としておきましょう。
五彩唐絵文火入 一対 清朝
合杉古箱
口径104*高台径*高さ88
本来の天啓赤絵は基本的に天啓赤絵は古染付の上に色釉を施したものです。
天啓赤絵はわりと斬新で大らかな絵柄が多く、絵付けは粗いものの、朱色・緑色・黄色・青色などが使われています。土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用いて絵付を行っています。
天啓赤絵が作られたのは、厳密には明末の天啓年間(1621‐27)から清初にかけてのわずか7年間であり、この時期に製作された作品だけを俗に「天啓赤絵」と称しています。日本では江戸初期頃のことです。
萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施している作品です。その特徴は古染付とほぼ同様ですが、清朝まで続いた古染付と比してその生産量はかなり少ないものです。また天啓赤絵は中国にはほとんど遺品がなく、日本にしかみられないことから、日本からの注文品とみなされています。
天啓赤絵にds火入れがないことはないでしょうが、この作品で違和感のあるのは「虫喰いのないこと」、「顕著な砂付高台ではないこと」、「南京赤絵のように口縁には鉄砂で口紅が施されていること」という点ですね。
それではいつの時代の作品か? (古)伊万里か中国の南京赤絵以降の色絵作品というのが一般的な推察となるでしょう。
南京赤絵の生地の多くは従来の青味が強い白ではなく乳白色を帯びていて、これは色彩を一層際立たせる効果があります。また南京赤絵には基本的に虫喰い、砂付高台が原則となります。そしてなにより基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色され、その色数も初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放な作りとなります。
南京赤絵は色釉だけで彩画した赤絵で有ると分類されていますが、例外は勿論有る様です。南京赤絵の染付は銘など一部に限られており、南京赤絵は華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものもあります。
この作品は天啓赤絵を倣ったように、(古)染付の上に色釉を施しています。つまり基本的には南京赤絵にも属さない作品といえるでしょう。
ただし南京赤絵はその後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化しています。当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多いのですが、日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多いとされます。デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になっています。これは基本的に南京赤絵の手法を生かしたものです。
これらの作品を総称して五彩と分類することがあるようです。五彩とは、高温で焼き上げた白磁に上絵具で絵付けをし、もう一度小型の窯へいれ焼き付ける技法を用いて作られた陶器のこと全般を言います。この技法は釉上着彩画法と言い、釉薬では色を付けず、絵具でなければいけません。五彩と呼ばれますが、五色のみを使っているわけではなく、単に同じ技法で焼かれているものであれば、二色でも六色でも五彩と呼ぶようです。
伊万里ではなく、唐物とするなら南京赤絵以降の五彩手の色絵作品でしょうし、もっと時代が下がると天啓赤絵を倣った近代作と言えるでしょう。この手の火入れは数多くあり、よく解りませんが日本で作られた作品の可能性が高いかもしれません。
上記写真は天啓赤絵(もしくは南京赤絵初期)の作品との比較。
五彩の技法が日本に伝わり、色絵として姿を変え作られました。17世紀初頭、九州の肥前有田に白磁の技術が伝わり、中頃に五彩の技術が導入されたのです。初期の色絵の図柄は、中国から学びを受け、中国産の絵具を使って作られていました。17世紀後半ごろから生産を加速させ、日本独自の穏やかな様式を取り入れ完成させたものが、有田焼(古伊万里)として有名になったのです。初期赤絵やさらには古九谷にも影響を与えたとされます。
上記の写真は天啓赤絵の作品との比較ですが、このような作品群は厳密にはどのようなジャンルに分類されるかは慎重を期すように思えます。
いずれにしろ呉須赤絵、天啓赤絵、古染付、南京赤絵は日本の初期の色絵には大きな影響を与えています。
ともかく骨董として蒐集する者や骨董店では、古染付、天啓赤絵、南京赤絵とすぐに崇めたくなりますが、基本はその作品の趣向の面白さが評価のポイントになるのでしょう。古染付、天啓赤絵、南京赤絵でたとえあっても駄作が多いので、作品の評価は伊万里であろうと古染付、天啓赤絵、南京赤絵であろうと絵が稚拙なのか、面白いのか、その趣向による判断だと当方では考えています。その点では本作品は線香立てなどの普段使いには面白い作品となるでしょうね