箱根で家内と二人で美術館見学中に祖父母と入った足湯のつもりらしい・・。
この頃は祖父母と落花生の皮むき・・・、息子は手伝いが大好きなようです。
落花生は収穫からピーナッツにするまで至極、時間と手間のかかるものです。
さて本日の作品は本ブログで何度か取り上げている「寒山拾得」を題材とした作品です。描いたのは堅山南風のようですが、共箱もなく真偽のほどは断定できませんが、出来や作風から真作と思われます。
寒山拾得図 堅山南風筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:横530*縦1940 画サイズ:横390*縦1230
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堅山南風:明治20年生まれ、昭和55年没(1887年~1980年)、享年90歳。名は熊次。熊本生まれ。高橋広湖の門に入り、花鳥画を主とし、出世作「霜月頃」があり、爾来院展に出品し、魚類の妙技に長じ「あげ汐」「鱗光閃々」の作があり、豪放な筆法の中に面白さを示している。日本美術院同人の元老。芸術院会員。文化勲章受賞。
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作品中の落款と印章は下記のとおりです。シミの跡などがあり、ずいぶんと痛んでいた作品を改装したように思われます。共箱はなく、紙箱の状態であり、ずいぶんと手頃なお値段で入手しています。
寒山拾得は言うまでもなく、中国,唐代の隠者,詩人である寒山と拾得のことです。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。
ただ寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した人です。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残しています。拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と思われます。実在したのは寒山のみであり、拾得と豊干は想像上の人物ということらしいのですが・・・。
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寒山拾得(かんざん じっとく):中国,唐代の隠者,中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承詩人である寒山と拾得のこと。
9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることもある。寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残した。拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。
拾得は天台山国清寺こくせいじの食事係をしていたが、近くの寒巌(かんがん)に隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持を語っている。
寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身と言われることもあり、非常に風変わりなお坊さんだったようで、後年様々な絵画に描かれる。たいていは奇怪な風貌で、なんとなく汚らしい服装で描かれている。そして、怪しげな笑い顔で描かれることが多い。また拾得が箒を持っている作品が多い。
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ともかく有名な「寒山拾得」ではあり、その二人の意図するところは小生の推し量る域を越えるものですが、寒山の詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品だそうであり、強固な自己疎外者としての矜持を語っていると評されています。
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補足
唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がいた。風狂の化け物と称される。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われる。寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていた。寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていた。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。
寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせた。寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。
寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。
「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事。寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を描いています。
豊干(ぶかん):中国唐代の詩僧。天台山国清寺に住み,虎を連れた姿で知られ、寒山・拾得(じつとく)を養育した人と伝えられる。豊干を釈迦の化身に見立てるものもある。
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以下は森鴎外の「寒山拾得」からの文章の抜き出しです。
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「こゝは湯気ゆげが一ぱい籠こもつてゐて、遽にはかに這入はひつて見みると、しかと物ものを見定みさだめることも出來できぬ位くらゐである。その灰色はひいろの中なかに大おほきい竈かまどが三つあつて、どれにも殘のこつた薪まきが眞赤まつかに燃もえてゐる。暫しばらく立たち止とまつて見みてゐるうちに、石いしの壁かべに沿そうて造つくり附つけてある卓つくゑの上うへで大勢おほぜいの僧そうが飯めしや菜さいや汁しるを鍋釜なべかまから移うつしてゐるのが見みえて來きた。
この時とき道翹だうげうが奧おくの方はうへ向むいて、「おい、拾得じつとく」と呼よび掛かけた。
閭(りよ)が其その視線しせんを辿たどつて、入口いりくちから一番ばん遠とほい竈かまどの前まへを見みると、そこに二人ふたりの僧そうの蹲うづくまつて火ひに當あたつてゐるのが見みえた。
一人ひとりは髮かみの二三寸ずん伸のびた頭あたまを剥むき出だして、足あしには草履ざうりを穿はいてゐる。今いま一人ひとりは木きの皮かはで編あんだ帽ばうを被かぶつて、足あしには木履ぽくりを穿はいてゐる。どちらも痩やせて身みすぼらしい小男こをとこで、豐干ぶかんのやうな大男おほをとこではない。
道翹だうげうが呼よび掛かけた時とき、頭あたまを剥むき出だした方はうは振ふり向むひてにやりと笑わらつたが、返事へんじはしなかつた。これが拾得じつとくだと見みえる。帽ばうを被かぶつた方はうは身動みうごきもしない。これが寒山かんざんなのであらう。
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まさしくこの光景を描いた作品であろうと推察されます。帽はかぶっていませんが・・。
森鴎外の文章を読みながら作品を鑑賞するのも一興かと思います。
息子と小生との会話もまた寒山拾得のようなもの、人生で一番大切なものは何かを常に諭させられる。
この頃は祖父母と落花生の皮むき・・・、息子は手伝いが大好きなようです。
落花生は収穫からピーナッツにするまで至極、時間と手間のかかるものです。
さて本日の作品は本ブログで何度か取り上げている「寒山拾得」を題材とした作品です。描いたのは堅山南風のようですが、共箱もなく真偽のほどは断定できませんが、出来や作風から真作と思われます。
寒山拾得図 堅山南風筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:横530*縦1940 画サイズ:横390*縦1230
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堅山南風:明治20年生まれ、昭和55年没(1887年~1980年)、享年90歳。名は熊次。熊本生まれ。高橋広湖の門に入り、花鳥画を主とし、出世作「霜月頃」があり、爾来院展に出品し、魚類の妙技に長じ「あげ汐」「鱗光閃々」の作があり、豪放な筆法の中に面白さを示している。日本美術院同人の元老。芸術院会員。文化勲章受賞。
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作品中の落款と印章は下記のとおりです。シミの跡などがあり、ずいぶんと痛んでいた作品を改装したように思われます。共箱はなく、紙箱の状態であり、ずいぶんと手頃なお値段で入手しています。
寒山拾得は言うまでもなく、中国,唐代の隠者,詩人である寒山と拾得のことです。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。
ただ寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した人です。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残しています。拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と思われます。実在したのは寒山のみであり、拾得と豊干は想像上の人物ということらしいのですが・・・。
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寒山拾得(かんざん じっとく):中国,唐代の隠者,中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承詩人である寒山と拾得のこと。
9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることもある。寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残した。拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。
拾得は天台山国清寺こくせいじの食事係をしていたが、近くの寒巌(かんがん)に隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持を語っている。
寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身と言われることもあり、非常に風変わりなお坊さんだったようで、後年様々な絵画に描かれる。たいていは奇怪な風貌で、なんとなく汚らしい服装で描かれている。そして、怪しげな笑い顔で描かれることが多い。また拾得が箒を持っている作品が多い。
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ともかく有名な「寒山拾得」ではあり、その二人の意図するところは小生の推し量る域を越えるものですが、寒山の詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品だそうであり、強固な自己疎外者としての矜持を語っていると評されています。
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補足
唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がいた。風狂の化け物と称される。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われる。寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていた。寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていた。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。
寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせた。寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。
寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。
「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事。寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を描いています。
豊干(ぶかん):中国唐代の詩僧。天台山国清寺に住み,虎を連れた姿で知られ、寒山・拾得(じつとく)を養育した人と伝えられる。豊干を釈迦の化身に見立てるものもある。
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以下は森鴎外の「寒山拾得」からの文章の抜き出しです。
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「こゝは湯気ゆげが一ぱい籠こもつてゐて、遽にはかに這入はひつて見みると、しかと物ものを見定みさだめることも出來できぬ位くらゐである。その灰色はひいろの中なかに大おほきい竈かまどが三つあつて、どれにも殘のこつた薪まきが眞赤まつかに燃もえてゐる。暫しばらく立たち止とまつて見みてゐるうちに、石いしの壁かべに沿そうて造つくり附つけてある卓つくゑの上うへで大勢おほぜいの僧そうが飯めしや菜さいや汁しるを鍋釜なべかまから移うつしてゐるのが見みえて來きた。
この時とき道翹だうげうが奧おくの方はうへ向むいて、「おい、拾得じつとく」と呼よび掛かけた。
閭(りよ)が其その視線しせんを辿たどつて、入口いりくちから一番ばん遠とほい竈かまどの前まへを見みると、そこに二人ふたりの僧そうの蹲うづくまつて火ひに當あたつてゐるのが見みえた。
一人ひとりは髮かみの二三寸ずん伸のびた頭あたまを剥むき出だして、足あしには草履ざうりを穿はいてゐる。今いま一人ひとりは木きの皮かはで編あんだ帽ばうを被かぶつて、足あしには木履ぽくりを穿はいてゐる。どちらも痩やせて身みすぼらしい小男こをとこで、豐干ぶかんのやうな大男おほをとこではない。
道翹だうげうが呼よび掛かけた時とき、頭あたまを剥むき出だした方はうは振ふり向むひてにやりと笑わらつたが、返事へんじはしなかつた。これが拾得じつとくだと見みえる。帽ばうを被かぶつた方はうは身動みうごきもしない。これが寒山かんざんなのであらう。
*******************************************
まさしくこの光景を描いた作品であろうと推察されます。帽はかぶっていませんが・・。
森鴎外の文章を読みながら作品を鑑賞するのも一興かと思います。
息子と小生との会話もまた寒山拾得のようなもの、人生で一番大切なものは何かを常に諭させられる。