寒くなってきたので、食堂にはヒーター入りのカーペットをひきました。祖母と息子は互いに別のテレビを見ながら、仲良く寝転がっていました。
本日は南蛮焼の紹介に次いで、一輪挿しの定番、越前焼のお歯黒壺の紹介です。この手の作品はそこら中に転がっていると表現していいほどたくさんありますね。
質のよい、姿のよいものを厳選するのがいいのでしょう。いくつもは要りませんね。当方では「その2」となります。
越前焼 双耳お歯黒壺 その2
誂箱
作品サイズ:口径68*最大胴径120*高さ106*底径
お歯黒は日本特有の興味深い風習です。そのはじまりは古墳時代に遡り、人骨やはにわに、すでにお歯黒の痕跡が残っています。その後、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国そして江戸時代から明治初期頃までとお歯黒の習慣は続きました。実に、1200年以上の歴史があることになります。
その過程で男女のものであったお歯黒は女性だけの習慣になり、上流階級だけのものだったのが、一般庶民に浸透しています。お歯黒をする女性は口元がやわらいで美人に見えたと言われ、江戸時代には既婚の女性の習慣として全国に広がりました。
さて、お歯黒のための液を入れた小壺をお歯黒壺と呼び、越前のものが名高く、片口で知られています。茶席では花入に転用されるなどし、一般的に鉄漿壺とも呼びます。
お歯黒壺の見どころは基本的に片口であり、双耳が完全であること、釉薬や形に見どころがある点、底などから時代があることがうかがえることが挙げられる。また共同窯であったことから、時代の古い作品はヘラ傷などで製作元を解るようにしてある点も挙げられる。
文献によると下記の記事があります。
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越前焼のお歯黒壺:越前焼きの小さな壺の総称である。江戸時代以前、結婚した女性はその印として歯を黒く染めた(公家は男性でも染めた)。小壷に古釘などを入れ、お茶を入れて反応させた。黒く酸化した鉄の液は四酸化鉄だったのかもしれない。その小壷をお歯黒壺と呼んでいた。どの家庭でも必需品だったお歯黒壺が越前焼の物が多く見られるのは頑丈だった証拠でしょう。
信楽焼では「蹲る」と呼び、人が蹲っている様子を例えた呼称で名高い。
越前焼は壺・甕・擂鉢(すりばち)を主とし,初期には三筋壺や水注などを焼いていますが,碗・皿類は基本的にありません。室町時代中~後期には古越前特有の双耳壺が数多く焼かれており,片口小壺は室町末から桃山時代にかけて肩に両耳をもつものが量産され,その作品は越前おはぐろ壺の名で親しまれています。
古越前の商圏は北海道までの日本海沿岸と近畿の一部に及んでいますが,近世に入ると瀬戸・美濃・唐津・有田のすぐれた陶磁器の流入によって,一地方窯に転落し,農村・漁村を対象とした雑器生産に低迷します。
製作は轆轤で挽く場合も多いですが、たいていは轆轤の上に粘土の粉を敷き、その上に壺の底になる土を置いて、紐を積む技法です。それを板で上に伸ばします。見た目よりも重くて、壺の内側には鉄片がこびりついて「こ汚い」というイメージが強いものです。
越前窯の補足:越前焼は、日本六古窯の一つに数えられ、瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前と並び、日本を代表する、歴史が古い焼物のひとつに数えられています。平安時代末期から焼かれ、現在約200基の古窯が発見されており、大規模な古窯では、かめ、つぼ、すりばち、舟徳利、おはぐろつぼなど、日用雑器が焼かれていたことが確認されており、当時の隆盛がしのばれます。越前の土は、石英などのガラス質を多く含むため、焼き固めた際に土の粒子の間にガラス質が流れ込み隙間を埋めることで、硬く緻密に仕上がります。また、越前の土ならではの独特の成分比率により、強い粘りがあるため、繊細な成形を可能にしています。
旧宮崎村の中央をながれる天王川の西部丘陵のみに分布すると考えられていましたが、昭和40年代後半になって、平安時代後期の須恵器窯が多く分布する天王川東部丘陵に越前窯で最も古い丹生郡越前町小曽原の土屋古窯跡群・上長佐古窯跡群、越前市の奥蛇谷古窯跡群が相次いで発見され、越前焼の発生について新しい資料を提供することとなりました。これらの古窯跡群は、いずれも平安時代末期に生産を始めており、中でも上長佐3号窯跡の発掘調査中に出土した三筋壺の形態から、越前窯は東海地方の瓷器系の技術を導入して成立したことが判明しました。
越前の主な生産器種は、中世全般を通じて大型の甕と擂鉢が圧倒的に多く、三筋壺・瓶子・水注・片口小壺などそれぞれの時代の要求品を僅かながら焼成しています。焼成は、山の斜面をトンネル状に掘った長さ約15m、幅約2.5m(鎌倉時代の場合)の穴窯(あながま)を使った還元炎焼成酸化冷却法で茶褐色に焼き締まっています。鎌倉時代中期から後期になると窯は西部丘陵へ移つり、全体の約半数がこの時代に集中しています。このように平安時代末期から鎌倉時代後期に中世窯が全国各地に発生した理由には、農業を中心とした諸産業の飛躍的進歩があげられます。
二毛作の普及による発芽の促進と地力の回復には、種壺と肥え甕が必要でした。農業以外では、宗教用具と蓄銭容器への利用が上げられます。平安時代後期から盛んになった経塚造営に伴う経筒外容器や火葬の普及による蔵骨器として数多くの壺や甕が使われました。また、甕に銭をためることが鎌倉・室町時代に流行したらしく、一つの甕から数十万枚の銅銭が発見されることも珍しくありません。
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双耳お歯黒壺・・・、古くからある生活雑器が現代の生活でもいかされているようです。