すっかり寒くなってきたので、幼魚や稚魚の段階のメダカは玄関内に水槽を移動しました。一方である程度大きい幼魚と成魚は外での越冬に挑戦です。
本日は知人から頂いた作品からすっかりファンになった小杉放庵の作品の紹介です。
松下釣人 小杉放庵筆 その7
紙本着色絹装軸共箱二重箱入
全体サイズ:横662*縦1478 画サイズ:横513*縦435
この作品は小杉放庵の作品の中でも傑作のひとつと言えるのでしょう。
小杉放庵の略歴は下記のとおりです。
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小杉放庵:栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に1881(明治14)年、二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。本名を国太郎といい、父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。しかしこれに馴染めず、肺尖カタルをも患ったため帰郷。再び五百城の元に戻る。1900年(明治33年)に今度は許可を得て再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門し、滝野川村(当時)の田端で下宿生活を始めた。1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品する。
なお、1903年(明治36年)からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。1904年から始まった日露戦争には、『近事画報』誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。1904年11月に反戦詩集『陣中詩篇』を刊行した。また、同1905年には美術雑誌『平旦』を石井柏亭、鹿子木孟郎らと創刊した。
1908年(明治41年)に美術誌『方寸』の同人に加わり、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。また、同年に田端で新居を構え、「田端文士村」の一員となった。1913年(大正2年)にフランスに留学するが、当地で池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒。翌年の帰国後は墨絵も描き始めるようになる。横山大観と親しくなったことから、1914(大正3)年の日本美術院再興時にも、同人として加わり、洋画部を牽引していきました。また、二科会にも同時に籍を置いていた。その後、絵に対する考え方の違いから1917年(大正6年)に二科会を、1920年(大正9年)には日本美術院を脱退し、1922年(大正11年)に森田恒友、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎らとともに春陽会を創立する。1924年(大正13年)頃に号を「放庵」(1933年末から「放菴」)と改めたが、これは親友である倉田白羊が一時期使っていた「放居」という雅号から「放」の字を貰って付けたものである。
*本作品は昭和11年(1936年)の作であり号は「放菴」となります。
1925年(大正14年)、東京大学安田講堂の壁画を手がける。1927年(昭和2年)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手がけた。
1929年(昭和4年)に中国へ旅行。1933年(昭和8年)12月に自身初の歌集『放菴歌集』を竹村書店から刊行した際、初めて「放菴」の号を用いた。
1935年(昭和10年)に帝国美術院の改革が進められる中で、官選という形で会員に選出されたが、同年末に洋画壇と帝国美術院との対立構造の中で会員を辞任した。 第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移し、滝野川区となっていた東京・田端の自宅が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らす。ここで、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。
1958年(昭和33年)、日光市名誉市民となる。同年に日本芸術院会員を辞任。1964年(昭和39年)、肺炎のため死去。墓所は日光市所野字丸美。
没後は長男の小杉一雄を中心として放菴の紹介や顕彰が続けられ、1980年(昭和55年)に文集『放庵画談』(小杉一雄ほか編、中央公論美術出版)が刊行。1992年(平成4年)には一雄から1459点の美術関連資料が「(仮称)小杉放菴記念日光美術館整備構想」を進めていた日光市へ寄贈された。これを元に、一雄が存命中の1997年10月に「小杉放菴記念日光美術館」が開館し、放菴や関連画家の作品が通年で展示されるようになった。この美術館の公式サイトでは、出生から逝去までの放菴の経歴が詳細に紹介されている。
絵画:文典に入選した初期の画は、東洋的ロマン主義の傾向を示す。未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えている。安田講堂壁画は、フランス画、特にピエール・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させ、日本的な志向もあらわしている。フランス帰国後から東洋趣味に傾き、油絵をやめ墨画が多くなる。こうした洋画からの転向は「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」という認識に支えられていた。
代表作は『山幸彦』(1917年)、『老子出関』(1919年)、『炎帝神農採薬図』(1924年)など多数。晩年には『放庵画集』(藤本韶三編、三彩社、1960年)、『奥のほそみち画冊』(龍星閣、1962年)が刊行した。
画文集『絵本 新訳西遊記』(左久良書房、1910年/新版・中公文庫、1993年)、また画担当した田山花袋『耶馬溪紀行』(図書出版のぶ工房、2018年)が改訂刊行されている。
スポーツ、その他:テニス・野球・空手など趣味が多彩であり、「ポプラ倶楽部」という芸術家の社交団体を主催してテニスを多く行ったほか、押川春浪が中心である社交団体「天狗倶楽部」にも所属しており、ここでも野球などを多く行っている。なお、押川とは『冒険世界』など押川が主筆を務めた雑誌の表紙を小杉が描いていたことがあって関係が深かった。また、テニスプレーヤーとして、東日トーナメント(現・毎日テニス選手権)ベテラン男子の部において、日本庭球協会の理事ともなった針重敬喜とのダブルスで3回の優勝を記録している。1945年には小杉放菴からの申し出により次男の二郎と針重の次女である千鶴子が結婚し、小杉家と針重家は姻戚関係になった。
作品としてスポーツを題材とすることもあり、2022年(令和4年)10月から11月まで開催の「華厳社 下野の画人たち」展では水墨画でラグビーを描いた「闘球図」が展示され、地元紙の下野新聞では「(スポーツを描くのは)水墨画では珍しい」と評された。
歌人としても知られ、略伝内の『放菴歌集』の他、『故郷』などの歌集がある。画論の古典「芥子園画伝」の注解(公田連太郎と)を行い、『帰去来』などの随筆、唐詩人についての著作(新版は創拓社 全2冊)がある。
1928年(昭和3年)1月28日に、富山県八尾町(現 富山市八尾町)の、初代越中八尾民謡おわら保存会(現 富山県民謡越中八尾民謡おわら保存会)初代会長川崎順二に招かれ、当時のおわら節を聴いて、「曲はいいのだが唄には下品なものも多く、このままではおわらは廃れる」と進言、そこで川崎順二が放庵に頼み作詞したのが「八尾四季」で、八尾の春夏秋冬を詠んだ4首で構成され、これ以後新しく作られたものを新作おわらとしており、現在もこの唄に合わせ、舞踏家若柳吉三郎が振付けした、女子の「四季踊り」と共に唄い踊り継がれている。放庵は翌年2月10日夜付けの手紙でこの八尾四季を川崎に送っており、約10日の間に詠んでいる。なお、この手紙は現在、八尾町東町の「八尾おわら資料館」にて展示されている。また「八尾八景」8首も作詞しており、二人の交友はこの後30数年に及んだ
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賛には「煙波三千洲 清風一釣竿 昭和十一春二月 放庵 印」(朱文白方印「□□山客」)とあります。
煙波:もやの立ちこめた水面。また、水面が煙るように波立っているようす。
*なお箱書は「昭和十一夏」となっています。
作品中の落款と印章は下記の写真のとおりです。
共箱となっており、書付は下記の写真ととおりです。
落款と印章の検証は下記の資料によります。検証については全く違和感はありせん。
巻止めには
「山岡憲一君恵存(お手元に保存していただければ幸いの意で、自分の著書などを贈るときに、相手の名のわきや下に書き添える語) 昭和二十九年正月 小杉放庵画 松下釣人
煙波三千洲識 佐藤功一博士内務?次官就任祝」とあります。
この書付は上下2段なのでしょう。下段は建築家佐藤功一に関わるもの、上段は実業家山岡憲一に関わる作品かと推定されます。
ミシンのJUKI株式会社の実質創業者「山岡憲一」、及び早稲田大学のシンボルである大隈講堂の設計者である「佐藤功一」などの当時の知名人らの所蔵となり、この作品がいかの珍重されいたかを思わせるものです。
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山岡 憲一:(やまおか けんいち、1899年(明治32年)3月23日 - 1995年(平成7年)11月27日)は、日本の実業家。JUKI株式会社の実質創業者。広島県安佐郡高陽町狩留家(現在の広島市安佐北区)出身。
経歴:15歳の時渡米、1919年、ガーフィールドサブリメンタリースクール(パサデナ)卒。
帰国後広島県庁に勤務。北支臨時政府顧問秘書官などを経て1938年(昭和13年)退職。東京府知事の要請により、東京府の機械業者900人が500万円を出資して作った東京重機工業(現・JUKI)の前身・東京重機製造工業組合の設立に参画、理事に就任。陸軍に納入するそれまでの三八式歩兵銃に代わり、九九式小銃など陸海軍の兵器製造に従事した。
総務部長、理事、常務を経て終戦後の1946年(昭和21年)、社長に就任。軍需産業は復活禁止され、重要な機械は進駐軍に破壊され工場の半分を占拠された。2700名いた従業員の当面の飢餓を凌ぐため食器、下駄、玩具などの製造の他、ドングリの実でコッペパンの製造などもした。また田辺茂一や舟橋聖一、坂口安吾、草野心平らと、終戦直後数少ない活版印刷をした同人雑誌「月刊文藝時代」を編集し全国の書店で販売した。残った設備を転嫁できる機械産業に携わることを図り進駐軍と度々接触、民需転換の許可を受け、戦禍により焼失で需要が見込まれるミシンの製造に乗り出した。山岡は「機関銃も小銃もアナ空けが技術の基礎。これを応用出来るのがミシン」と考えた。戦後はミシン一筋に賭ける。他に1949年(昭和24年)には東京都と京王閣競輪場を建設した。最初は簡単な家庭用ミシンを手掛け、回転天秤の発明を機に1953年(昭和28年)から工業用ミシンの開発に力を注ぐ。その後、服飾に関係の深い家庭用編機、電子計算機周辺機器の製造販売に事業を拡大し同社をミシン業界トップに押し上げた。自身が山間僻地の生まれのため、「戦後の地方の衰退を憂い、地方の人に一人でも多く郷里にとどまってもらいたい」と故郷への回帰を唱え、早くから工場の地方分散政策を実践した。山岡は、"その地域に生かされ、その地域を生かす"という「農工一体の経営」の思想を持ち、農村青年のまじめさ、忍耐力、そして誠実さにJUKI製品のものづくりを託した。郷里・広島県を始め島根県、栃木県、福島県、秋田県、宮崎県などの過疎地を中心に廃校となった小中学校を改造するなどして工場を建設、地方農工業のモデルをつくりあげた。現在も主力の栃木県大田原工場は、過疎地施策とは違い農村地域の農工一体施策であったが、若き日の渡辺美智雄の尽力もあって進出を決めたもの。また頼まれて地方の関連工場の再建にも力を尽くした。これらは後年、地方の時代が叫ばれた時、その先覚者として評価された。1956年(昭和31年)に国慶節に周恩来首相から招きで中国を訪問する等、ソ連など当時の共産諸国にも早くから進出、その他欧米にも販路を拡げ現在売上の約50%超を占める海外部門の礎を築き1976年(昭和51年)会長に退いた。1963年(昭和38年)、藍綬褒章。1970年(昭和45年)勲三等旭日中綬章受章、1976年(昭和51年)勲二等瑞宝章受章。他に女子社員が多いため、ハンドボール部の強化に力を注ぎ、同社女子ハンドボール部は、1970年代に何度も全国優勝するなど強豪として知られる。
佐藤功一:(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2日 - 1941年(昭和16年)6月22日[1])は、日本の建築家。早稲田大学理工科の建築学科の創始者として知られる。早大建築学科主任に就任してからは、同大の建築教育の基礎を築いた。以後は早大において評議員なども歴任した。作品としては関東大震災以降のものが多く、日比谷公会堂の設計、大学関連では早稲田大学のシンボルである大隈講堂や、武蔵大学、津田塾大学に作品を39年間で233件残している。また東京女子高等師範学校、日本女子大学校などで教え、女性に対する住教育の草分けでもあった。
他に当方の所蔵作品で同時期に描いたと推定される作品には下記の作品があります。
啄木 小杉放庵筆
紙本着色絹装軸共箱二重箱入
全体サイズ:横662*縦1478 画サイズ:横513*縦435
蒐集を始めたた頃に知人から頂いた作品です。
今では少し人気が下火になった小杉放庵ですが、まだまだ愛好家は多いようです。
これまで調べた資料は集約されて作品と共に収納され、電子データでは本ブログに、アナログではファイルに保管されてます。
蒐集にはデジタル化とアナログが並行して必要であり、このことはデジタル化、IT化偏重の状況下で他のものごとにも大いに共通するでしょう。とくにモノづくりではIT化偏重は技術やノウハウの喪失に直結しているように思われ、危機感を募らせています。