男の隠れ家で懐かしい作品を見つけました。秋田の保戸野窯で作った初めての抹茶茶碗です。
なんともへたくそな絵付けに削りすぎて歪んだボデイ・・、当時は割って捨てようと思ったのですが、保戸野窯の平野先生に「最初に作ったものはいつか大切に思う時がくるからとっておいたほうがいいよ。」と言われてとっておいたものです。
実用性はともかく無心で作っていたあの頃が懐かしくなります。難しい仕事の取り組んでおり、気がめいるときに打ち込んだ陶芸は面白かったものです。当時の手の跡が残る茶碗・・・。「初心忘れるべからず」か
さて本日は幻の画家と称される岩井昇山の作品の紹介です。
本ブログにて「岩井昇山」が登場したのは、当方の蒐集対象の画家である「渡辺省亭」の巻き止めに鑑定書があったことによります。ただし下記の記事に「晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。」とありますように、渡辺省亭との関連性は明確なものではないようです。落款や印章の資料が当方には乏しいことから、この鑑定が岩井昇山のものかどうかは定かではありません。ただ、信憑性が高く、渡辺省亭と岩井昇山の関連性を裏付ける作品になるかもしれません。
雪景燈籠ニ蛙図 渡辺省亭筆 その10
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 昇山鑑定 合箱
全体サイズ:縦1930*横640 画サイズ:縦1230*横500
本作品はもともと三幅対の作品であったものが双幅とて遺っている作品です。このようなことはよくあることで対の作品を単品で売買されてり、一幅だけ飾っていたりして、箱と離れてしまったりすることなどの理由によるもののようです。
松上鶴・梅下亀双幅 岩井昇山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製(梨地塗) 共箱(三幅対のうち双幅)
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1286*横294
もともと寿老図(竹が背景にあったものを推察されます。)が加わった三幅対の作品の中の双幅の作品です。
表具を新たにしており、その際に軸全体が太くなり、共箱に納まらなくなり、中央の軸だけ箱に収まらなくなったと推測されます。古い表具は厚みが薄いのでよくあることです。
このような場合は、箱の書付部分を新たな箱に組み込むのですが、そこまで費用をかけるほどの作品ではないと判断したのでしょう。作品の保存にはとても残念なことです。
共箱には「大正5年丙辰(ひのえたつ)冬日」とあり、大正5年(1916年)、岩井昇山が45歳の作。東京都下谷区(現台東区)に在住の頃の作品で、埼玉県寄居町に移り住む前の作品となり、この頃の作品が遺っているのは希少と思われます。
岩井昇山についてはご存知の方が少ないと思われますので、下記のインターネット上の記事を参考にしてください。
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岩井 昇山:(いわい しょうざん)旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)~ 昭和28年(1953年1月11日)は、明治から昭和期の日本画家。
旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)、太政官府の役人・岩井秀一の次男として、東京麹町に生まれる。本名は小五郎。成童のころ北派(文晁系)の画家・吉澤雪庵に学び、次いで容斎派の松本楓湖の安雅堂画塾の門人となる(楓湖の浅草栄久町時代、明治10〜25年の弟子)。晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。
日本画会、明治画会、帝国絵画協会、巽画会などに所属するものの、画家としての活動記録はほとんど見られず、展覧会出品の記録も明治35(1902)年の第12回「日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会」、大正2(1913)年の「表装競技会」など極めてわずかで、人嫌い、変人、果ては楓湖門破門説などに結びつけられ、“幻の画家”と称される由縁となっている。
大正終わりから昭和始めころには、東京都下谷区(現台東区)から埼玉県寄居町に移り、山水を中心に清澄で透明感のある独自の画風を確立したが、ついに画壇の寵児となることなく、昭和28(1953)年1月11日、同地で没した。享年81。
2006年8月25日号の美術誌『Bien(美庵)』Vol.40(藝術出版社)にて、巻頭特集「幻の画家・岩井昇山』として紹介されるや、一躍脚光を浴び、『埼玉新聞』2006年9月14日付でも「謎多き孤高の画家」として大きく紙面を割いて報道した。その後も地元・寄居周辺を中心に展覧会の動きもあり、盛り上がりを見せている。
昇山の名が上がるにつれて、ネットオークションや埼玉など地方において悪質な贋作が出回っているようだ。
見つかっている贋作類は、
A.熱で圧着させたシールのような落款を用いている→落款をよく見ると、サインや印章の周囲に不自然な光沢がある等の特徴から判別できる。
B.直接インクを転写するやりかたでサインや落款を入れている→Aのように不自然な光沢は周囲にないが、サインならば墨の色が絵中の墨色と違ったりする(薄かったり青かったり、異質な感がある)ことから判別できる。
近年は、上記A・B2点のような判別が困難な、巧妙な落款を施した贋作が確認されている。
*昇山の名が上がるにつれて、不当な値付けで儲けようとする業者が出て来ているようです。現在の昇山の価格相場では、共箱付の掛け軸であったとしても、3万〜5万が相場とのこと。
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インターネット上の他の記事を纏めると下記のようになります。
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岩井昇山は寄居町桜沢本村に住し、妻(くに)と共に身寄りとてなく暮らしていた。糊口をしのぐため、遠近の僅か訪うひとの求めに応じ、祝い絵の蓬莱山などを書きながら、古武士そのものの枯淡の日々をすごしていたという。名は小五郎といい、号は昇山、明治三年東京に生まれる。父祖は京都伏見の甲冑師、岩井平次郎秀一師で、蜂須賀阿波守の家臣。明治維新の際、旗本八万旗の版籍奉還と共に零落したという。幼くして松本楓湖、吉沢雪山に歴史画を学ぶ。世に無名ではあるが、その絵画たるや実に清澄透徹、澄みて鏡の如しで、一種独特なる風格を持った作品を描く。
岩井小五郎の父は明治天皇が幼少のときより武士として傍につかえ、岩倉具視や桂小五郎とともに活動した勤皇の志士であった。京都では桂小五郎を幕府の手のものからかくまい、その縁故で息子を小五郎と名づけた。小五郎の父は 維新後、明治天皇から御徒町の地に広大な土地を賜ったが、江戸に溢れる浪人たちに次々と自分の財産を分け与え、最後はたいへん質素な暮らしをしていた。葬式には、その恩を偲ぶ人たちが長蛇の列をなした。
岩井昇山は夜中あちこち歩き回り絵を創作していたため、「こうもりの画家」とあだ名された。ただ生活スタイルの厳格さは武士そのものであった。 何事においても無欲な人で、金銭のために絵を描くという気持ちはもっていなかった。
小五郎の妹「すえ」の夫、江間平吉は妻と子供4人を連れ、第一次大戦後の中国に移り住み石炭事業を起こしましたが失敗し、失意のうちに中国で亡くなりました。夫なき後4人の子供をかかえ、東京にもどったすえが頼れる身内は寄居町に住む兄岩井小五郎しかいなかった。小五郎は妹すえの求められるままに次々と猛烈なスピードで絵を描いていき、すえ一家の生活を支えた。
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ニ幅しかなくそれほど抜きん出た作品ではありませんが、幻の画家と称されていることと当方の蒐集対象の渡辺省亭との関連性から保存しておくことにするつもりです。
表具も丁寧になされており、いつか「寿老図」と縁があるかもしれませんね。
なんともへたくそな絵付けに削りすぎて歪んだボデイ・・、当時は割って捨てようと思ったのですが、保戸野窯の平野先生に「最初に作ったものはいつか大切に思う時がくるからとっておいたほうがいいよ。」と言われてとっておいたものです。
実用性はともかく無心で作っていたあの頃が懐かしくなります。難しい仕事の取り組んでおり、気がめいるときに打ち込んだ陶芸は面白かったものです。当時の手の跡が残る茶碗・・・。「初心忘れるべからず」か
さて本日は幻の画家と称される岩井昇山の作品の紹介です。
本ブログにて「岩井昇山」が登場したのは、当方の蒐集対象の画家である「渡辺省亭」の巻き止めに鑑定書があったことによります。ただし下記の記事に「晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。」とありますように、渡辺省亭との関連性は明確なものではないようです。落款や印章の資料が当方には乏しいことから、この鑑定が岩井昇山のものかどうかは定かではありません。ただ、信憑性が高く、渡辺省亭と岩井昇山の関連性を裏付ける作品になるかもしれません。
雪景燈籠ニ蛙図 渡辺省亭筆 その10
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 昇山鑑定 合箱
全体サイズ:縦1930*横640 画サイズ:縦1230*横500
本作品はもともと三幅対の作品であったものが双幅とて遺っている作品です。このようなことはよくあることで対の作品を単品で売買されてり、一幅だけ飾っていたりして、箱と離れてしまったりすることなどの理由によるもののようです。
松上鶴・梅下亀双幅 岩井昇山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製(梨地塗) 共箱(三幅対のうち双幅)
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1286*横294
もともと寿老図(竹が背景にあったものを推察されます。)が加わった三幅対の作品の中の双幅の作品です。
表具を新たにしており、その際に軸全体が太くなり、共箱に納まらなくなり、中央の軸だけ箱に収まらなくなったと推測されます。古い表具は厚みが薄いのでよくあることです。
このような場合は、箱の書付部分を新たな箱に組み込むのですが、そこまで費用をかけるほどの作品ではないと判断したのでしょう。作品の保存にはとても残念なことです。
共箱には「大正5年丙辰(ひのえたつ)冬日」とあり、大正5年(1916年)、岩井昇山が45歳の作。東京都下谷区(現台東区)に在住の頃の作品で、埼玉県寄居町に移り住む前の作品となり、この頃の作品が遺っているのは希少と思われます。
岩井昇山についてはご存知の方が少ないと思われますので、下記のインターネット上の記事を参考にしてください。
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岩井 昇山:(いわい しょうざん)旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)~ 昭和28年(1953年1月11日)は、明治から昭和期の日本画家。
旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)、太政官府の役人・岩井秀一の次男として、東京麹町に生まれる。本名は小五郎。成童のころ北派(文晁系)の画家・吉澤雪庵に学び、次いで容斎派の松本楓湖の安雅堂画塾の門人となる(楓湖の浅草栄久町時代、明治10〜25年の弟子)。晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。
日本画会、明治画会、帝国絵画協会、巽画会などに所属するものの、画家としての活動記録はほとんど見られず、展覧会出品の記録も明治35(1902)年の第12回「日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会」、大正2(1913)年の「表装競技会」など極めてわずかで、人嫌い、変人、果ては楓湖門破門説などに結びつけられ、“幻の画家”と称される由縁となっている。
大正終わりから昭和始めころには、東京都下谷区(現台東区)から埼玉県寄居町に移り、山水を中心に清澄で透明感のある独自の画風を確立したが、ついに画壇の寵児となることなく、昭和28(1953)年1月11日、同地で没した。享年81。
2006年8月25日号の美術誌『Bien(美庵)』Vol.40(藝術出版社)にて、巻頭特集「幻の画家・岩井昇山』として紹介されるや、一躍脚光を浴び、『埼玉新聞』2006年9月14日付でも「謎多き孤高の画家」として大きく紙面を割いて報道した。その後も地元・寄居周辺を中心に展覧会の動きもあり、盛り上がりを見せている。
昇山の名が上がるにつれて、ネットオークションや埼玉など地方において悪質な贋作が出回っているようだ。
見つかっている贋作類は、
A.熱で圧着させたシールのような落款を用いている→落款をよく見ると、サインや印章の周囲に不自然な光沢がある等の特徴から判別できる。
B.直接インクを転写するやりかたでサインや落款を入れている→Aのように不自然な光沢は周囲にないが、サインならば墨の色が絵中の墨色と違ったりする(薄かったり青かったり、異質な感がある)ことから判別できる。
近年は、上記A・B2点のような判別が困難な、巧妙な落款を施した贋作が確認されている。
*昇山の名が上がるにつれて、不当な値付けで儲けようとする業者が出て来ているようです。現在の昇山の価格相場では、共箱付の掛け軸であったとしても、3万〜5万が相場とのこと。
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インターネット上の他の記事を纏めると下記のようになります。
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岩井昇山は寄居町桜沢本村に住し、妻(くに)と共に身寄りとてなく暮らしていた。糊口をしのぐため、遠近の僅か訪うひとの求めに応じ、祝い絵の蓬莱山などを書きながら、古武士そのものの枯淡の日々をすごしていたという。名は小五郎といい、号は昇山、明治三年東京に生まれる。父祖は京都伏見の甲冑師、岩井平次郎秀一師で、蜂須賀阿波守の家臣。明治維新の際、旗本八万旗の版籍奉還と共に零落したという。幼くして松本楓湖、吉沢雪山に歴史画を学ぶ。世に無名ではあるが、その絵画たるや実に清澄透徹、澄みて鏡の如しで、一種独特なる風格を持った作品を描く。
岩井小五郎の父は明治天皇が幼少のときより武士として傍につかえ、岩倉具視や桂小五郎とともに活動した勤皇の志士であった。京都では桂小五郎を幕府の手のものからかくまい、その縁故で息子を小五郎と名づけた。小五郎の父は 維新後、明治天皇から御徒町の地に広大な土地を賜ったが、江戸に溢れる浪人たちに次々と自分の財産を分け与え、最後はたいへん質素な暮らしをしていた。葬式には、その恩を偲ぶ人たちが長蛇の列をなした。
岩井昇山は夜中あちこち歩き回り絵を創作していたため、「こうもりの画家」とあだ名された。ただ生活スタイルの厳格さは武士そのものであった。 何事においても無欲な人で、金銭のために絵を描くという気持ちはもっていなかった。
小五郎の妹「すえ」の夫、江間平吉は妻と子供4人を連れ、第一次大戦後の中国に移り住み石炭事業を起こしましたが失敗し、失意のうちに中国で亡くなりました。夫なき後4人の子供をかかえ、東京にもどったすえが頼れる身内は寄居町に住む兄岩井小五郎しかいなかった。小五郎は妹すえの求められるままに次々と猛烈なスピードで絵を描いていき、すえ一家の生活を支えた。
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ニ幅しかなくそれほど抜きん出た作品ではありませんが、幻の画家と称されていることと当方の蒐集対象の渡辺省亭との関連性から保存しておくことにするつもりです。
表具も丁寧になされており、いつか「寿老図」と縁があるかもしれませんね。