週末には近くの公園でどんど焼き。
焼いている火で団子を焼きます。皆さん団子を串刺し? 竹に指して準備・・・。
熱いね~、と火には近寄らない。「君子危うきに近寄らず。」
週末は雪が降りそうだったので除雪の準備も・・。
ついでに自転車の練習・・。
小生に似て何事にも慎重派。幼稚園で出合った母親達に早速あだ名されたのが、「学級委員長」・・、筋は通すが慎重らしい
そもそも慎重派は学級委員長は受けない、小生しかり・・。
色絵草花文三足水注
合箱入
幅185*奥行145*高さ180
上部に補修跡があります。
箱書の書付には「紀州御庭焼 水指」とありますが、本作品との関連性は不詳です。
また箱の底には「安永元壬辰(みずのえたつ、じんしん)年(1772年 明和9年、安永元年11月16日 ~)霜月(11月)十一日 橋村也吉 年賀・・・」こちらも当作品との関連性は不明です。
粟田口焼の錦光山の古い作品ではないかとも推察していますが・・・・。
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錦光山:粟田陶工の旧家のひとつで慶長年間(1596~1615)よりすでに製陶に従ったという。正保年間(1644~8)に初代小林徳右衛門が粟田口に窯を築き鍵屋と号した。二代もまた徳右衛門という。元禄(1688~1704)に三代茂兵衛が粟田青蓮院の宮の御用を仰せ付けられて錦光山の名を賜った。
また当時の将軍家日用の茶碗は粟田口焼の蛋白色のものを用い、三文字屋の専業で三文字屋は御茶碗師と称していたが、延享年間(1744~8)に至って資産が窮乏して幕府の用品を製造することができず、幕府もこれを補助したがついに堪えることができなかったので1755年粟田陶工を簡択して錦光山・岩倉山の両人に製造を命じた。錦光山は御用茶碗を焼くほかに天目茶碗・御鷹野茶碗などを作った。
四代・五代共に喜兵衛と称し御用陶工であった。オランダ写しあるいは御室仁清風のものをつくり、マル宗ともいった。六代宗兵衛の頃から姓を錦光山と改め青木木米に師事して磁器の製法を伝習し維新の頃製品を改良して貿易を始めた。京都磁器海外輸出の最初であっただろう。七代宗兵衛はますます貿易に励み、欧米を視察して製品の改革を図り斯業に大いに貢献した。緑綬褒章受賞。1928年2月61歳で没。
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つい最近紹介しました「伝古清水焼(堆朱手) 色絵草花文三足香炉」らの作品と共通した作品群のように思われます。
道筋が間違っていようが、調べているうちに、実物にて確認していくと類は友を呼ぶように同じような作品が蒐集されてきます。なにしろ名うての慎重派ですから・・・。
ものはどうあれ、この水注は堂々としており、非常に気に入っています。手持ちを何にしようかとあれこれ考えるのも愉しいものです。
これで湯呑みが揃うと面白い道具になります。
焼いている火で団子を焼きます。皆さん団子を串刺し? 竹に指して準備・・・。
熱いね~、と火には近寄らない。「君子危うきに近寄らず。」
週末は雪が降りそうだったので除雪の準備も・・。
ついでに自転車の練習・・。
小生に似て何事にも慎重派。幼稚園で出合った母親達に早速あだ名されたのが、「学級委員長」・・、筋は通すが慎重らしい
そもそも慎重派は学級委員長は受けない、小生しかり・・。
色絵草花文三足水注
合箱入
幅185*奥行145*高さ180
上部に補修跡があります。
箱書の書付には「紀州御庭焼 水指」とありますが、本作品との関連性は不詳です。
また箱の底には「安永元壬辰(みずのえたつ、じんしん)年(1772年 明和9年、安永元年11月16日 ~)霜月(11月)十一日 橋村也吉 年賀・・・」こちらも当作品との関連性は不明です。
粟田口焼の錦光山の古い作品ではないかとも推察していますが・・・・。
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錦光山:粟田陶工の旧家のひとつで慶長年間(1596~1615)よりすでに製陶に従ったという。正保年間(1644~8)に初代小林徳右衛門が粟田口に窯を築き鍵屋と号した。二代もまた徳右衛門という。元禄(1688~1704)に三代茂兵衛が粟田青蓮院の宮の御用を仰せ付けられて錦光山の名を賜った。
また当時の将軍家日用の茶碗は粟田口焼の蛋白色のものを用い、三文字屋の専業で三文字屋は御茶碗師と称していたが、延享年間(1744~8)に至って資産が窮乏して幕府の用品を製造することができず、幕府もこれを補助したがついに堪えることができなかったので1755年粟田陶工を簡択して錦光山・岩倉山の両人に製造を命じた。錦光山は御用茶碗を焼くほかに天目茶碗・御鷹野茶碗などを作った。
四代・五代共に喜兵衛と称し御用陶工であった。オランダ写しあるいは御室仁清風のものをつくり、マル宗ともいった。六代宗兵衛の頃から姓を錦光山と改め青木木米に師事して磁器の製法を伝習し維新の頃製品を改良して貿易を始めた。京都磁器海外輸出の最初であっただろう。七代宗兵衛はますます貿易に励み、欧米を視察して製品の改革を図り斯業に大いに貢献した。緑綬褒章受賞。1928年2月61歳で没。
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つい最近紹介しました「伝古清水焼(堆朱手) 色絵草花文三足香炉」らの作品と共通した作品群のように思われます。
道筋が間違っていようが、調べているうちに、実物にて確認していくと類は友を呼ぶように同じような作品が蒐集されてきます。なにしろ名うての慎重派ですから・・・。
ものはどうあれ、この水注は堂々としており、非常に気に入っています。手持ちを何にしようかとあれこれ考えるのも愉しいものです。
これで湯呑みが揃うと面白い道具になります。