夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

大津絵 その18 弁慶の立ち往生(長刀弁慶) 

2017-01-19 00:01:00 | 掛け軸
今週の初めの夜中に息子が急に具合が悪くなり嘔吐・・。その後下痢となり、家内共々寝不足。なにしろ具合が悪いときもママさんよりも「パパ!」という息子です。

出勤した後に家内からメール、息子曰く「もう大丈夫だから心配しないで」だと・・・

お昼近くには「お腹空いた、もう直った!」・・・・ いままでほとんど熱を出すこともなく、丈夫に育っているようでしたのでたしかにずいぶんと心配したのですが、大丈夫らしい。帰宅後にはいつもの息子になっていました。



軽度のノロウイルス??、ともかく部屋中を消毒しておきました。

仕事部屋の机は最近息子の遊び場と化しています。硝子の器や掛け軸のある机の上は糊でべとべと・・。「駄目です」とは滅多に言わないようにしています。叱るときは叱る時に・・・。



健康第一、安全第一は仕事も子育ても同じようです。また信頼関係も、互いを思いやる気持ちも・・。

さて、本日はひさしぶりに大津絵の紹介です。「身体強健」を護符とする「弁慶図」です。

大津絵 その18 弁慶の立ち往生(長刀弁慶) 
紙本着色軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横350*縦1355 画サイズ:横230*縦745



息子が具合が悪くなったので飾ることにしました。本来飾り物とは願いや祈りが込められるのが始まりですから・・。大津絵は仏図が始まりですから、仏様の近くに飾り、亀は北の守護、何事にも知識と基本をわきまえて。



大津絵の投稿は久方ぶりなので復習を兼ねて以前投稿した下記の説明を引用します。

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大津絵:滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624- 1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は信仰の一環として描かれたものであったが、やがて世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになった。



松尾芭蕉の俳句「大津絵の筆のはじめは何佛」には、仏画が多かった初期の大津絵の特徴が表れている。また、江戸時代初期のキリシタン弾圧に際して「自分は仏教徒である」という隠れ蓑的役割も有していたと言われる。江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられている。多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されている。



文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲(大津絵節)、大津絵節を元に踊る日本舞踊の一種(大津絵踊り)にも、「大津絵」の名がついている。前述のように江戸後期に絵種の十種に絞り、もっぱら護符として売られた時代がありましたが、文化・文政の頃から徐々に大津絵の主となり、幕末には他の図柄はほとんど描かれなくなってしまったようです。人気は依然高かったものの、初期の風格を失い、美術価値が低いとされることも多い時期です。

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大津絵の定番となっている10種をすべて江戸期の作品で揃えようとするとこれがなかなか難しいようです。ちなみに大津絵10種は下記の作品のことです。

鬼の念仏    小児の夜泣きを止め悪魔を祓う
藤娘      愛嬌加わり良縁を得る
雷公      雷避け
瓢箪鯰      諸事円満に解決し、水魚の交わりを結ぶ
座頭      倒れぬ符
槍持奴      一路平安道中安全
鷹匠      利益を収め、失せ物手に入る          未入手
弁慶      身体強健にして大金を持つ
矢の根五郎   目的貫徹、願い事叶う             未入手
長頭翁      長命を保ち、万事意のままになる 

大津絵に登場する弁慶の絵柄は下記の説明にもありますように牛若丸と出会う前の「釣鐘弁慶」の図と衣川(岩手)での弁慶最後の姿「弁慶の立ち往生」の2種類があります。




なお片手で三井寺の鐘を持ち上げる「釣鐘弁慶」は「身体強健にして大鐘を持つ」という願いが込められています。  


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大津絵の弁慶:大津絵に登場する弁慶には、牛若丸と出会う前の「釣鐘弁慶」の図と、この「弁慶の立ち往生」とがあります。立ち往生とは、衣川(岩手)での弁慶最後の姿で、「長刀(ナギナタ)弁慶」とも「弁慶の七つ道具」とも呼びます。江戸後期の大津絵十種にこそ「釣鐘弁慶」が選ばれましたが、現在ではこの「立ち往生」の図の方が人気があるようです。

長刀(なぎなた)・箙刀(えびらがたな)・首掻刀(くびかきがたな)・小反刃(こそりば)・熊手が本来の七つ道具ですが、大津絵は鉞(まさかり)・袖がらみ・槌・鋸・鎌・刺股と入れ替えています。形と筆運びを主眼としたからでしょう。 絵になれば故実を無視するところも大津絵のおおらかさです。



この絵にある道歌も「時にかなふ七つ道具は人の情むさしといふはわたくしでさふろ」とありますが、立ち死の気配を無視しています。

「武蔵坊慈悲さへあれば七つ道具長刀いらず国はおさまる」

身体壮健のお守りとされたこともあります。

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大津絵は古いものから新しいものまで様々で、古く見せた贋作もあります。廉価で入手できると思ったら大間違いで、江戸期の二枚綴りの作品は数十万します。ゆえにその当時に似せた贋作が数多く出回ることになったようです。



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大津絵の二枚綴

二枚綴(にまいつづり)は二枚継ぎとも呼ばれ、古典的な大津絵の特徴となっています。最も入手が容易で安価であった半紙を、絵を描きやすい大きさに継ぎ合わせたものです。

江戸初期から中期にかけての大津絵は、ほとんどがこの二枚綴の大きさでした。稀に三枚を継いだより大きなものもあったようです。

江戸後期は、逆に継ぐことをやめ、半紙(半紙のサイズ:縦24~26センチ、横32~35センチ)そのままのサイズで描くようになっていきます。現在では紙のサイズも自由に入手できるようになり、古紙を使うのでなければ特に継ぐ必要もないのですが、掛軸などでは大津絵の特徴として再現しています。

ちなみに江戸初~中期の大津絵として売られているもので、二枚綴・三枚綴以外のサイズであったり、継ぎが無いものは考えにくいので、古大津絵を入手するときには一つの判断ポイントになります。大津絵は昭和に入ってから贋作が作られるようになり、紙自体に茶などで古色をつけ、古く見せるために折っていく。そのため折り目が均等に入っているようなものは割に贋作が多いとのことです。

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痛んでいる状態での作品も多く、当時売られてままの表具のままの作品がベストですが、再表具されていてもそれほそれで評価に影響はありません。ただ仏画などのように手書き表装のような作品はそのままで存在するとかなりの評価となります。しかし大津絵の仏画はそうそうあるものではありませんが・・・。



丁寧に改装されていますが、残念ながら本作品はうぶなままではありません。

ともかくお土産の品であった大津絵ですが、高価なゆえに贋作もあり、「なめたらいけない、大津絵」です。それよりもなによりも健康祈願・・・。





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