夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

千代女 岡本大更筆 昭和6年 その10

2025-02-15 00:01:00 | 掛け軸
とある御仁に小生が掛け軸をメインに蒐集していると話したら、「そんな黴臭いもの」と評されてしまいました。たしかに掛け軸は人気がないし、痛みやすく扱いづらいのは事実なので、当方は苦笑いするのみ・・・。



本日はそのような黴臭い作品・・。保存状態が悪かったのでしょうか、作品全体にシミが発生している作品です。

千代女 岡本大更筆 昭和6年 その10
絹本着色軸装 軸先陶器 共箱(辛未初夏) 
全体サイズ:縦2110*横480 画サイズ:縦1230*横360

 
 
作者である岡本大更についての画歴は下記のとおりです。なんどか本ブログでも紹介している画家のひとりですね。

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岡本大更(たいこう):日本画家。三重県生。名は直道。明治12年(1879)9月14日、名張郡滝之原村(現・名張市滝之原)で、父・多吉、母・まさの二男として生まれた。明治12年三重県名張市滝大更8歳の時、一家を上げて上京。若い頃は貧しさのため特定の師につかず、独学にて画業に専心しています。神童とうたわれた大更の美人画の境地をきりひらいた作風は「近代的な浮世絵」と激賞され、明治40年(1907年)には大阪物産博覧会で三等銅賞を受賞しています。その後、独学にて文部省美術展覧会などで入選を重ね、美人画の大家になります。北野恒富や野田九浦らと活動し「更彩画塾」を開き、歴史画や風俗画とともに多くの美人画を描いています。大更は、若くして名張の地を離れたため、伊賀地方では全く忘れ去られた存在となった。第八・九回文展、第一回院展に入選。人物画を得意とする。また音楽・演劇を好む。戦争が激しくなった昭和19年(1944)、後妻の郷里、香川県豊島に疎開。翌20年12月、疎開先で死去、満66歳でした。主に大阪に住していました。

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*美人画で顔の部分にシミがあるのは致命傷ですね。



題材となっている「加賀千代女」については下記のとおりです。いくどかこちらも本ブログにて取り上げています。

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加賀千代女(かが の ちよじょ、1703年(元禄16年)~ 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれています。

朝顔を多く歌っていることから、出身地の松任市(現白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。 白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。幼い頃から一般の庶民にもかかわらず、この頃から俳諧をたしなんでいたという。12歳の頃岸弥左衛門の弟子となる。17歳の頃、諸国行脚をしていた人に(各務支考:かがみしこう)が諸国行脚してちょうどここに来ているというのを聞き、各務支考がいる宿で弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠む様求められる。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に各務支考に才能を認められる。その事から名を一気に全国に広めることになった。1720年(享保5年)18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽福岡弥八に嫁ぐ。このとき、「しぶかろかしらねど柿の初ちぎり」という句を残す。

20歳の時夫に死別し松任の実家に帰った。30の時京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時蕪村の玉藻集の序文を書く。1775年(安永4年)73歳で没。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれている。

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説明文中の「各務支考」と「中川乙由」、「五十嵐浚明」については下記のとおりです。

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各務支考:(かがみ しこう、寛文5年(1665年) - 享保16年2月7日(1731年3月14日))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。村瀬吉三郎の子。別号に東華房、西華房、獅子庵などがある。美濃国山県郡北野村西山(現在の岐阜市)出身。
幼少より俳才を発揮し、元禄のころに松尾芭蕉の門下に入る。森川許六とともに論客と知られたが、性格は利己主義的だとして悪評もあった。後年、美濃派の育成に努めた。著書は『笈日記』・『俳諧十論』・『葛の松原』など多数。

幼少の頃父を失い、禅刹大智寺に入るが、19歳頃に下山して還俗し、次姉の嫁ぎ先の各務宗三郎方に入籍する。以後、京都や伊勢山田にいたか。元禄3年(1690年)3月、近江で松尾芭蕉に対面入門し、翌年芭蕉に従って江戸に下向する。元禄5年(1692年)陸奥行脚を行い、処女作の俳論書『葛の松原』を発表する。元禄7年(1694年)、伊賀から大坂へ向かう芭蕉の旅に同行し、芭蕉の臨終を看取る。このとき芭蕉の遺書を代筆している。
芭蕉没後、伊賀・伊勢・近江・江戸などを巡り、諸国行脚と追善興行を繰り返した。この間、芭蕉の遺吟・遺文を集めて『笈日記』を著している。正徳元年(1711年)に佯死し、以後自らを先師と呼び、蓮二坊・渡辺ノ狂などの変名を名乗る。この頃、伊勢山田に草庵(十一庵)を結び拠点としている。『伊勢新百韻』を刊行したころから支考独自の作風が確立された。その後、九州・中国・四国・北陸など各地を精力的に旅し、句集や俳論などを盛んに出版。また多くの弟子を育成していく。享保4年(1719年)に加賀千代女を訪問し、美婦で「あたまからふしぎの名人」と喧伝した。
享保9年(1724年)以降、郷里の美濃山県に定住し、蘆元坊里紅に道統を譲り、獅子庵で没した。享年67。死の直前まで執筆を続けており、『論語先後鈔』が絶筆となる。大智寺に生前、自ら建てた墓に葬られた。墓碑銘は「梅花佛」。蘆元坊によって支考の追善集『文星観』が刊行されている。
各務支考から蘆元坊に伝えられた道統は美濃派、または獅子門と称する。獅子門は、現在第四十一世道統に引き継がれ綿々と活動が続けられている。晩年の住まいだった獅子庵は岐阜県の史跡に指定されている。

中川乙由(なかがわ おつゆう、延宝3年(1675年)- 元文4年8月18日(1739年9月20日))は、江戸時代の俳人。通称、利右衛門宗勝。別号、梅我・麦林舎。法名は麦林舎乙由翁宗勝。伊勢国船江の新屋と号する豪商だったが、風雅遊興を好んだため、一代で家業を傾けた

14歳の頃、伊勢神宮に参詣した松尾芭蕉と接し、涼菟(新風館三世)に師事する。やがて、伊勢に結庵した各務支考に兄事し、蕉門俳人として地位を確立する。元禄11年(1698年)、涼菟・支考らとの七吟百韻一巻を収めた『伊勢新百韻』を井筒屋章兵衛から刊行する。元禄16年(1703年)、涼菟の加賀越前方面への旅行に随行し、旅中の作品集である『山中集』に名を連ねる。宝永元年(1704年)、各務支考が編集した『三疋猿』に「かの新百韻の役者を催して、こゝに三日三夜の舞曲ぞつくしける」とあり、涼菟・支考・乙由のグループが形成され、乙由が重要な位置を占めていたと分かる。享保2年(1717年)、涼菟が没すると、伊勢俳壇の中心人物となり、その勢力は伊勢派と呼ばれるまでに成長した。

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五十嵐 浚明(いからし しゅんめい、元禄13年(1700年)~天明元年8月10日(1781年9月27日))。江戸時代中期の新潟の絵師、漢詩人。本姓は藤原、修姓は呉。諱は安信、後に浚明。字は方篤、後に方徳。号は思明、孤峰、穆翁、竹軒[2]。江戸で狩野良信栄信に狩野派、京都で竹内式部に経学を学び、宇野明霞・片山北海・池大雅等と親交した。

 元禄13年(1700年)越後国新潟に佐野義直の子として生まれた。幼くして両親を失い、五十嵐五郎兵衛に養育され、佐野家の存続を助けられた。後にその恩義に報いるため、自ら五十嵐姓を名乗った。4歳の時から絵を好み、家業の農業に従事しながら、僧可存に手解きを受けた。
享保15年(1730年)頃江戸に出て、根岸御行松家狩野良信栄信に師事したが、満足できず帰郷した。また、江戸では室鳩巣に学問を学び、後に自ら多くの生徒を教えたという。
次いで京都に出て、同郷竹内式部に経学を学び、宇野明霞等と親交し、同郷片山北海を明霞に入門させた。梁楷の「八仙人図」、李公麟の横軸、張平山の人物画、狩野雅楽亮の「朱梅図」等を手本に狩野派・土佐派・南宋画・北宋画・大和絵等諸派の技法を吸収した。
在京中法橋に叙され、延享元年(1744年)法眼に進み、同年帰郷した。帰郷の際、式部から「送五十嵐浚明君還越後」、明霞から「送法橋嵐君帰還越後」、池大雅から「渭城柳色図」(敦井美術館所蔵)、近衛家から呉絹、徳大寺家から紋綸子を贈られた。
帰郷後、自宅に楼閣を建て、画業専念を決意して篭ったものの、数十日後類焼し、再建されるまで蔵で生活した。村民の窮状を聞くと始めて門を出て、役人に蔵米を開放させたという。宝暦7年(1757年)4月信濃川・阿賀野川の決壊等により飢饉が発生すると、家財を売却して被災者に衣食を供与した。
宝暦9年(1759年)芝山重豊に呉姓を賜ったが、明和6年(1769年)五十嵐姓に復した。宝暦12年(1762年)7月京都で知り合った高砂豪商三浦迂斎の訪問を受け、『逆旅勧盃一大冊子』を贈呈した。

帰郷後もしばしば上方に上り、明和2年(1765年)大坂で明霞門下大典顕常に詩を贈られ、安永2年(1773年)には京都で北海同人服部永錫の『縮地玅詮帖』に「寿老人図」を寄せている。安永6年(1777年)上京して後桃園天皇に松鶴・寿老人等の絵三幅を献上し、歌所山科中納言を通じて油小路隆前・冷泉為泰・中院通古・藤谷為敦・甘露寺篤長による五色の和歌を賜り、長岡藩からも白銀五枚を賜った。
70代以降、三晩続けて夢に富士山を見たことに因み、孤峰と号した。
天明元年(1781年)3月白山神社、両親の墓に詣でて死期を告げ、親戚に別れの挨拶を述べた。7月食欲が減退するも、薬を飲まず、8月10日死去し、15日善導寺に葬られた。法名は孤峰院俊明義大居士。

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作品中や共箱の落款、印章は下記写真のとおりです。



 

昭和6年、岡本大更が53歳の頃の作品です。染み抜きは可能でしょうが、対費用効果から再表具するか否か判断に迷うところですね。











 







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