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書斎の書類置き場や離れの布団置き場?に困り、家内を説得し、とうとうクローゼット拡大計画を実行中。「書斎の書類置き場や離れの布団置き場?に困り」というのは建前で、明らかに当方の蒐集品の置き場にも苦慮しての処置
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まずは壁のボードを剥がして屋根裏の探索・・・。
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なんとかスペースはありそうだが、思いのほか屋根を支える方杖の部材が邪魔になり一坪半くらいのスペースしか確保できそうにないようです。
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さらに対処が必要なのは、梁との高さの違いから床をどうやって作るか・・、ここからはアイデア勝負。一度寝室側には増築しているので、当方には基本的な経験値はあるもののどうも反対側は構造的にちょっと違うようです。断熱、換気、照明、そして既存構造を損しないようにと工夫と判断が必要なようです。
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さて本日紹介する最初の作品は再興九谷の最後の窯といっていい松山窯の作品と判断しています。再興九谷「松山窯」の中では非常に出来の良い作品と思われ、制作年代はおよそ1848~1860年代と推測しています。
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*上記右の写真は松山窯と同じく時期の再興九谷の窯とされる宮本窯の作品です。
代々、古九谷の再現に努めてきた人間国宝である三代徳田八十吉も、「松山窯の作品を見ると古九谷の色に限りなく近く、松山窯によって古九谷写しは完成した。」と述べています。それほど出来は青手古九谷に遜色なく、吉田屋の青手さえ超えている作品が数多くあります。古九谷、再興された吉田屋窯ばかりが注目される中で、再興九谷の松山窯の作品は残念ながらさほどポピュラーではないようですが・・・。
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松山窯には後述しますが「藩窯と民窯で極端な出来不出来もあった。」ようで、本日のような作品は古九谷ほどではなくても、「もっと評価されても良い作品」であろうと思います。
再興九谷 松山窯 青手山水図大皿
合杉古箱
口径337*高台径*高さ65
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松山窯の陶歴については本ブログの他の記事にも記述しており、重複すると思いますが概略は下記のとおりです。
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松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に興した窯です。大聖寺藩は、赤絵が加賀一帯で江戸の後期から末期にかけて大いに隆盛となる中(本ブログ「宮本窯」の作品の記事参照)、次第に青手古九谷や吉田屋窯の青手のような青色系の磁器が焼かれなくなってきたため、青九谷を再現させようとしたことから始まりました。
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松山窯ではまじめで出来の良い作品を数多く生み出したのですが、その背景には明治政府によって藩の組織が解体されるまでの間は、後の時代に活躍する職人を育てながら、松山窯において古九谷の復興に取り組んだことによります。
陶工としては、その前年から小松の蓮代寺窯で青手古九谷の再現の取り組んでいた松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らがこの窯に招かれました。
素地は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石土を使って作られたもので、その素地は「鼠素地と呼ばれる薄いグレー味を帯びた素地」を特長とします。主として藩の贈答品として古九谷青手系の作品が作られました。そのため松山窯は青手古九谷のおける再興九谷のひとつとされています。「藩の贈答品」として作られた作品ですから、鍋島藩の鍋島焼ほど厳選されたかどうかは不明ですが、それ相応の出来の作品であったことは想像できます。
*九谷諸窯の年代歴は下記の表のとおりです。
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昭和54~55年の窯跡の発掘調査では、登窯2基・平窯1基・色絵窯1基とその基礎と焼土・工房跡1棟・工房内の轆轤心石3基、そして、ものはら2箇所が発掘されました。江戸時代のものはらからは、染付・白磁・青磁などの磁器と色絵、陶器・素焼などが出土しています。
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この窯の作品は青手古九谷や吉田屋窯の作風を踏襲した「赤を使用しない四彩の青手が主」です。
特筆されるのが紺青の絵の具で、これまでに九谷焼には使われたことのなかった合成の絵の具である「花紺青」です。この花紺青は不透明であり、古九谷以来の透明感の和絵の具とは違った趣を見せています。庄三が西洋絵の具を多く使って多彩な表現をしたのと同じ発想であったと考えられます。ほかにも、緑は黄味がかっていて、紫はやや赤味がかっているのも、それまでの青九谷系にない色合いです。また釉薬は光の反射で虹色に見える虹彩が見られます。本作品も写真では解りにくいですが虹彩を放っています。
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加えて、藩の支援がなくなり民営の窯として存続していた時期に、九谷本窯との契約が切れて山代に残っていた永楽和全が作陶したことから、その影響を受けた作品も残っています。特色としては、松山窯の図案にはより意匠化されたものが多く、青九谷系の作品は意匠構成が優れており、どちらかといえば青手古九谷の様式に近く、絵画的に斬新な趣を呈したものもあります。その作品は、古九谷や吉田屋窯と異なり、遠景、中景、近景という3段階に分ける描法をとっています。
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*藩窯時代の松山窯には古九谷の青手と見間違うような青手古九谷の再興作品があります。
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青手九谷と称される古九谷、吉田屋窯、そして松山窯の特徴は下記のとおりとされます。
1.古九谷:描かれた山水風景画はいわゆる中国でいう北宋画といわれる、岩も切り立ち、険しい風景画が多い。
2.吉田屋窯:、文化文政時代の文人に好まれた南画の画風に倣って柔らかいタッチで描かれています。
それに対して、幕末のころになると、絵画に写実的な描法が取り入れるようになる状況下での松山窯は下記の特徴があります。
3.松山窯:山水画にも遠景、中景、近景を表現して実景に近づこうとする描写がうかがわれます。この窯の作品を見ると、絵画を勉強した絵師(菊三郎かその指導を受けた者か)がいて、同じような山水画を描くにあたってもその時代の風潮とか傾向とか好みとかいうものをきっちと嗅ぎ分けて、確実に作品の中に表わしていることがわかります。別の特色として、鉢、徳利、盃、杯洗などのたくさんの小物にも様々な図案が描かれていることです。
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大聖寺藩が興した窯であるため、当時、松山村の人はこの窯を「松山の御上窯」(藩公直営の窯の意味)と呼んだといわれます。しかしながら、源右衛門が文久3年(1863年)に歿し、菊三郎が蓮代寺窯の経営に傾注せざるをなくなり、また、大聖寺藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯で、永楽窯ともいわれた)に財政的支援を集中するため、松山窯の保護を止めてしまいました。こうしたことから、松山窯は民営に移り、その後は木下直明らによって明治5年(1872)頃まで続けられたといわれます。
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主な陶工としては、粟生屋源右衛・松屋菊三郎・永楽和全・中野忠次、そのほか明治以降に活躍した名工や窯元となる者を多く輩出しています。大蔵窯の大蔵寿楽、浜坂清五郎、西出吉平、栄谷窯の北出宇与門、勅使窯の山本庄右衛門、東野惣次郎などは、皆この松山窯で修業した陶工です。
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藩窯時代の作品には、文人たちや上級武士たちが人を招いて宴席を開いたとき、ある程度教養の高い人たちには分かる図案や文様が描かれています。徳利では、面取りされた表面に山水、枇杷がなど描かれたものが多くあります。また、高杯の台のような杯洗の中には龍が描かれ、水を張ったとき、まさに水神を想起させて目を楽しませる着想力の豊かさを感じさせます。ほかにも、杯洗の中に描かれた鴛鴦からは、揺れる水面越しに水鳥が見えるという、非常に美しい情景を思い起こさせくれます。このように、用途に合わせた図柄を選んでいることも特色の一つです。大鉢、中皿、小皿の気付かない隠れたところに手の込んだ図案が描かれていて、絵心を感じさせてくれます。
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普通、青手の裏面は緑で塗り埋めて、渦雲、唐草、木の葉などで充填したものが多い中、枇杷などを描いて、家運隆盛を願う思いがこめられた作品があります。
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まだ完成度の低い初期の頃の作品での裏絵は、表絵の繊細さとは真逆の大変力強い豪放な風格を備えています。
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この表と裏のギャップも、大きな魅力となっています。釉薬は光の反射で虹色に見える虹彩が見られます。また初期の裏面には数箇所にクッツキ跡(焼成時のもの)があります。
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虹色が解るように写真を撮ってみました。
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下記の杉箱に収まっています。「杉の古箱は要注意」という常套句が骨董にはありますが、要はいいもの、大切にされてきた作品が収まっているという意味のようです。
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古箱にはカバーを付けて保管しています。
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さて次の作品ですが、この作品が再興九谷とされる「松山窯」とされる確証はまったくありませんが、この手の作品の多くが松山窯と称して市場に出回っています。出来からすると松山窯が民営となった頃の明治期の九谷とも思われますが、当方では一応、松山窯末期(明治初年頃)ではないかと推測しています。
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本来は再興九谷と言えども、松山窯の作品には本家の古九谷に迫る青手の作品がありますが、それは藩の庇護を受けていた頃で、その後民営になってからは量産が主体となり、絵が非常に稚拙になったのではないかと思っています。
*私見ですが、この作品は稚拙なともいえるところに捨てがたいものという趣向もありそうです。
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再興九谷 松山窯 山水楼閣図大皿
誂箱
口径370*高台径*高さ65
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松山からもさらに時代が下がり、九谷(本窯?)の可能性もありますね。
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残念ながら割れた跡の補修として、金繕いと朱で補修された跡が2カ所あります。そのせいかどうかは知りませんが、入手金額は5000円程度です。打ち捨てるべき作品かもしれませんが、なぜかしら捨て難い・・・。
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家内共々「おいおい、これが太鼓石・・??、これが楼閣・・??? もっと描き方があるだろうに・・。」という評価・・。
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明治期になって大量に陶磁器の生産が伊万里や九谷で行われるようになり、絵付けも凝らなくなったのかもしれません。
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その稚拙さがいい・・?? 明末の赤絵と同じで、官窯から民窯に移った時の理由と全く同じように思います。
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骨董には「緻密だからいい」とか「稚拙だからいい」という尺度に加えて、作る側の状況を鑑みると鑑賞の幅が広がるように思います。はてさて古九谷など資金的にも、数的(出来の良い作品が数が少ない)にも蒐集では手の届かない昨今ですので、こうして再興九谷の亜流?を愉しむのもいいものです。
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本日の2作品を比べるとどうも同じ窯の作品には見えないようにも思えます。
繰り返すと左写真の作品は松山窯前期(御用窯時代)、右の写真の作品は明治期に入ってからの九谷焼(民営の松山窯を含む)かな・・?? 古九谷、出来の良い再興九谷(古九谷の再興を目指した窯)とはやはり一線を画しておくべきでしょうね。
所感:右のような作品でも数多くの作品が「古九谷」と称するのはいかがなものでしょうか? 再興九谷としてもかなり出来の良くない部類(古九谷を基準として)でしょう。出来の良いものだけ厳選して蒐集するためには、このように比較してみるという経験が必要なようですが、売りに出す側も古九谷、再興九谷と称するなら厳選していただきたいものですね
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まずは壁のボードを剥がして屋根裏の探索・・・。
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なんとかスペースはありそうだが、思いのほか屋根を支える方杖の部材が邪魔になり一坪半くらいのスペースしか確保できそうにないようです。
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さらに対処が必要なのは、梁との高さの違いから床をどうやって作るか・・、ここからはアイデア勝負。一度寝室側には増築しているので、当方には基本的な経験値はあるもののどうも反対側は構造的にちょっと違うようです。断熱、換気、照明、そして既存構造を損しないようにと工夫と判断が必要なようです。
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さて本日紹介する最初の作品は再興九谷の最後の窯といっていい松山窯の作品と判断しています。再興九谷「松山窯」の中では非常に出来の良い作品と思われ、制作年代はおよそ1848~1860年代と推測しています。
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*上記右の写真は松山窯と同じく時期の再興九谷の窯とされる宮本窯の作品です。
代々、古九谷の再現に努めてきた人間国宝である三代徳田八十吉も、「松山窯の作品を見ると古九谷の色に限りなく近く、松山窯によって古九谷写しは完成した。」と述べています。それほど出来は青手古九谷に遜色なく、吉田屋の青手さえ超えている作品が数多くあります。古九谷、再興された吉田屋窯ばかりが注目される中で、再興九谷の松山窯の作品は残念ながらさほどポピュラーではないようですが・・・。
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松山窯には後述しますが「藩窯と民窯で極端な出来不出来もあった。」ようで、本日のような作品は古九谷ほどではなくても、「もっと評価されても良い作品」であろうと思います。
再興九谷 松山窯 青手山水図大皿
合杉古箱
口径337*高台径*高さ65
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松山窯の陶歴については本ブログの他の記事にも記述しており、重複すると思いますが概略は下記のとおりです。
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松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に興した窯です。大聖寺藩は、赤絵が加賀一帯で江戸の後期から末期にかけて大いに隆盛となる中(本ブログ「宮本窯」の作品の記事参照)、次第に青手古九谷や吉田屋窯の青手のような青色系の磁器が焼かれなくなってきたため、青九谷を再現させようとしたことから始まりました。
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松山窯ではまじめで出来の良い作品を数多く生み出したのですが、その背景には明治政府によって藩の組織が解体されるまでの間は、後の時代に活躍する職人を育てながら、松山窯において古九谷の復興に取り組んだことによります。
陶工としては、その前年から小松の蓮代寺窯で青手古九谷の再現の取り組んでいた松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らがこの窯に招かれました。
素地は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石土を使って作られたもので、その素地は「鼠素地と呼ばれる薄いグレー味を帯びた素地」を特長とします。主として藩の贈答品として古九谷青手系の作品が作られました。そのため松山窯は青手古九谷のおける再興九谷のひとつとされています。「藩の贈答品」として作られた作品ですから、鍋島藩の鍋島焼ほど厳選されたかどうかは不明ですが、それ相応の出来の作品であったことは想像できます。
*九谷諸窯の年代歴は下記の表のとおりです。
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昭和54~55年の窯跡の発掘調査では、登窯2基・平窯1基・色絵窯1基とその基礎と焼土・工房跡1棟・工房内の轆轤心石3基、そして、ものはら2箇所が発掘されました。江戸時代のものはらからは、染付・白磁・青磁などの磁器と色絵、陶器・素焼などが出土しています。
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この窯の作品は青手古九谷や吉田屋窯の作風を踏襲した「赤を使用しない四彩の青手が主」です。
特筆されるのが紺青の絵の具で、これまでに九谷焼には使われたことのなかった合成の絵の具である「花紺青」です。この花紺青は不透明であり、古九谷以来の透明感の和絵の具とは違った趣を見せています。庄三が西洋絵の具を多く使って多彩な表現をしたのと同じ発想であったと考えられます。ほかにも、緑は黄味がかっていて、紫はやや赤味がかっているのも、それまでの青九谷系にない色合いです。また釉薬は光の反射で虹色に見える虹彩が見られます。本作品も写真では解りにくいですが虹彩を放っています。
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加えて、藩の支援がなくなり民営の窯として存続していた時期に、九谷本窯との契約が切れて山代に残っていた永楽和全が作陶したことから、その影響を受けた作品も残っています。特色としては、松山窯の図案にはより意匠化されたものが多く、青九谷系の作品は意匠構成が優れており、どちらかといえば青手古九谷の様式に近く、絵画的に斬新な趣を呈したものもあります。その作品は、古九谷や吉田屋窯と異なり、遠景、中景、近景という3段階に分ける描法をとっています。
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*藩窯時代の松山窯には古九谷の青手と見間違うような青手古九谷の再興作品があります。
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青手九谷と称される古九谷、吉田屋窯、そして松山窯の特徴は下記のとおりとされます。
1.古九谷:描かれた山水風景画はいわゆる中国でいう北宋画といわれる、岩も切り立ち、険しい風景画が多い。
2.吉田屋窯:、文化文政時代の文人に好まれた南画の画風に倣って柔らかいタッチで描かれています。
それに対して、幕末のころになると、絵画に写実的な描法が取り入れるようになる状況下での松山窯は下記の特徴があります。
3.松山窯:山水画にも遠景、中景、近景を表現して実景に近づこうとする描写がうかがわれます。この窯の作品を見ると、絵画を勉強した絵師(菊三郎かその指導を受けた者か)がいて、同じような山水画を描くにあたってもその時代の風潮とか傾向とか好みとかいうものをきっちと嗅ぎ分けて、確実に作品の中に表わしていることがわかります。別の特色として、鉢、徳利、盃、杯洗などのたくさんの小物にも様々な図案が描かれていることです。
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大聖寺藩が興した窯であるため、当時、松山村の人はこの窯を「松山の御上窯」(藩公直営の窯の意味)と呼んだといわれます。しかしながら、源右衛門が文久3年(1863年)に歿し、菊三郎が蓮代寺窯の経営に傾注せざるをなくなり、また、大聖寺藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯で、永楽窯ともいわれた)に財政的支援を集中するため、松山窯の保護を止めてしまいました。こうしたことから、松山窯は民営に移り、その後は木下直明らによって明治5年(1872)頃まで続けられたといわれます。
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主な陶工としては、粟生屋源右衛・松屋菊三郎・永楽和全・中野忠次、そのほか明治以降に活躍した名工や窯元となる者を多く輩出しています。大蔵窯の大蔵寿楽、浜坂清五郎、西出吉平、栄谷窯の北出宇与門、勅使窯の山本庄右衛門、東野惣次郎などは、皆この松山窯で修業した陶工です。
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藩窯時代の作品には、文人たちや上級武士たちが人を招いて宴席を開いたとき、ある程度教養の高い人たちには分かる図案や文様が描かれています。徳利では、面取りされた表面に山水、枇杷がなど描かれたものが多くあります。また、高杯の台のような杯洗の中には龍が描かれ、水を張ったとき、まさに水神を想起させて目を楽しませる着想力の豊かさを感じさせます。ほかにも、杯洗の中に描かれた鴛鴦からは、揺れる水面越しに水鳥が見えるという、非常に美しい情景を思い起こさせくれます。このように、用途に合わせた図柄を選んでいることも特色の一つです。大鉢、中皿、小皿の気付かない隠れたところに手の込んだ図案が描かれていて、絵心を感じさせてくれます。
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普通、青手の裏面は緑で塗り埋めて、渦雲、唐草、木の葉などで充填したものが多い中、枇杷などを描いて、家運隆盛を願う思いがこめられた作品があります。
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まだ完成度の低い初期の頃の作品での裏絵は、表絵の繊細さとは真逆の大変力強い豪放な風格を備えています。
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この表と裏のギャップも、大きな魅力となっています。釉薬は光の反射で虹色に見える虹彩が見られます。また初期の裏面には数箇所にクッツキ跡(焼成時のもの)があります。
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虹色が解るように写真を撮ってみました。
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下記の杉箱に収まっています。「杉の古箱は要注意」という常套句が骨董にはありますが、要はいいもの、大切にされてきた作品が収まっているという意味のようです。
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古箱にはカバーを付けて保管しています。
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さて次の作品ですが、この作品が再興九谷とされる「松山窯」とされる確証はまったくありませんが、この手の作品の多くが松山窯と称して市場に出回っています。出来からすると松山窯が民営となった頃の明治期の九谷とも思われますが、当方では一応、松山窯末期(明治初年頃)ではないかと推測しています。
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本来は再興九谷と言えども、松山窯の作品には本家の古九谷に迫る青手の作品がありますが、それは藩の庇護を受けていた頃で、その後民営になってからは量産が主体となり、絵が非常に稚拙になったのではないかと思っています。
*私見ですが、この作品は稚拙なともいえるところに捨てがたいものという趣向もありそうです。
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再興九谷 松山窯 山水楼閣図大皿
誂箱
口径370*高台径*高さ65
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松山からもさらに時代が下がり、九谷(本窯?)の可能性もありますね。
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残念ながら割れた跡の補修として、金繕いと朱で補修された跡が2カ所あります。そのせいかどうかは知りませんが、入手金額は5000円程度です。打ち捨てるべき作品かもしれませんが、なぜかしら捨て難い・・・。
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家内共々「おいおい、これが太鼓石・・??、これが楼閣・・??? もっと描き方があるだろうに・・。」という評価・・。
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明治期になって大量に陶磁器の生産が伊万里や九谷で行われるようになり、絵付けも凝らなくなったのかもしれません。
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その稚拙さがいい・・?? 明末の赤絵と同じで、官窯から民窯に移った時の理由と全く同じように思います。
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骨董には「緻密だからいい」とか「稚拙だからいい」という尺度に加えて、作る側の状況を鑑みると鑑賞の幅が広がるように思います。はてさて古九谷など資金的にも、数的(出来の良い作品が数が少ない)にも蒐集では手の届かない昨今ですので、こうして再興九谷の亜流?を愉しむのもいいものです。
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本日の2作品を比べるとどうも同じ窯の作品には見えないようにも思えます。
繰り返すと左写真の作品は松山窯前期(御用窯時代)、右の写真の作品は明治期に入ってからの九谷焼(民営の松山窯を含む)かな・・?? 古九谷、出来の良い再興九谷(古九谷の再興を目指した窯)とはやはり一線を画しておくべきでしょうね。
所感:右のような作品でも数多くの作品が「古九谷」と称するのはいかがなものでしょうか? 再興九谷としてもかなり出来の良くない部類(古九谷を基準として)でしょう。出来の良いものだけ厳選して蒐集するためには、このように比較してみるという経験が必要なようですが、売りに出す側も古九谷、再興九谷と称するなら厳選していただきたいものですね
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