沖縄の壺屋焼の人間国宝となっている金城次郎氏の作品には銘のないもの、銘はあっても共箱のない作品は数多くあります。おそらく共箱を誂えるようになったのは人間国宝となってからのように当方では勝手に推察していますし、銘が刻まれるようになったのもその直前からではないかと推測しています。
金城次郎氏の共箱は伝え聞くのは実にいい加減で、自分で箱書していなかったものも多々あったようです。資料によると「本来、箱書きなど不要と考えていたのか、箱書きの文字が統一されていない。箱書や銘は他人に任せていた可能性がある。」と記されています。
民芸作品として製作していた頃は他の民芸陶芸家と同じように無銘で多くの佳作を作り出していたと思われ、体が不自由でなかったこの頃の作品は大皿などの優品が数多く作り出されたと思われます。
壺屋焼 刷毛目白化粧地呉須線彫魚海老文大壺 その3 金城次郎作
誂箱
口径*最大胴径220*高台径*高さ300
本作品もまた共箱を誂えていない作品ですが、作りは盛期の金城次郎の作行です。
*金城次郎の大ぶりな壺や大皿なら口径や高さが30センチを超えるものを蒐集するようにしています。この大きさは盛期に作った可能性が高く、優品が多いと推定しているからです。どうもこの大きさを超えないと金城次郎の良さが感じられないように思われます。
金城次郎の作品は白泥を化粧がけし、そこを釘で彫って文様を描き、茶色や青を塗っています。一気に魚を描いており、その躍動感が醍醐味となります。沖縄の釉薬は流れやすいため、釘で線を彫って釉薬で埋めましたが、一部の釉薬が流れ、それが意外な効果を生み金城次郎独特の作風が生まれました。このことが無銘な頃の金城次郎の作品のっ魅力となっています。
徐々に年数を減るに従い、釉薬の滲みは少なくなりが、それでも呉須や飴釉が滲んでいる景色が魅力となっています。また底の周囲が分厚く作られている部分が力強さを増しています。
本作品は白化粧土を全面に施されているのではなく、筋目上に白化粧土を刷毛目状にかきとって、その上に透明釉(透明釉にはモミの灰に珪石、石灰質の補填ではサンゴを用いています。これらの原料は全て沖縄で手に入るものです。)を掛け、その上から釘彫りで文様を描いています。線彫りの深めのみぞが釉薬の濃淡を生み出しています。これはイッチンでも同様で、器面の凹凸で呉須の青や、真鍮(しんちゅう)の緑釉の色が微細な濃淡をみせています。
他の作品に見られる青が濃すぎないのは黒釉を混ぜているためです。この黒釉は黄土と灰を混ぜたもので飴釉にも蕎麦釉にもなります。
*通常は銘と共箱がなければ金城次郎の作とは認められないのが一般的です。(壷屋で作陶していた頃の作品はほとんどが「次」銘が入っていませんが、推測では1980年以降は銘が入ります。本作品は人間国宝に認定される以前の1980年代の作と推察しています。)
呉須と飴釉で色付けられた上下の文様の間に、大迫力のウロコ文様の魚文が、見事に線彫りされ、飛び跳ねております。また呉須と飴釉で緻密に色付けられたウロコが、魚文に立体感を与えております。見れば見るほど味わい深い魚文です。口部の縁は、茶褐色と一部水色に、その下部は、モスグリーンと一部水色に発色しているのもきれいです。
この作品より後には全体的にも釉薬の剥がれの殆ど無いきれいな焼き上がりになっていきますが、きれいな仕上がりの作品とよしとするのか、それ以前の作品を好むかは意見の分かれるところでしょう。
金城次郎は1978年(昭和53)高血圧で倒れ入院後はリハビジに励みながら作陶し、その後の1985年(昭和60)4月13日、人間国宝に認定、沖縄県功労章受章しています。そして1997年(平成9) 高齢を理由に引退していますが、この昭和53年から平成9年までの作品より、それ以前の作品が当方の蒐集対象としています。
金城次郎は1946年(昭和21)那覇市壺屋に築窯。濱田庄司、河井寛次郎らの指導の元で壺屋焼を守り発展に努めます(無銘時代)。そして1972年(昭和47)沖縄本土復帰。読谷村に移住していますが、当方では共箱や銘の有無より、無銘(人間国宝となる前)の壺屋時代の作品を蒐集対象としています。サイズは壺は高さ30センチを超えるもの、大皿は径40センチを超えるものに魅力があると思っています。
1972年に那覇市内で薪を使う登り窯の使用が不可能になりますと、金城次郎はガス窯では自分の焼物が作れないとして、登り窯が焚ける場所を求めて読谷村に移住しています。ガス窯では自分の焼物が作れないとしたのは、ガス窯による器面上の`つや'を気にしていたようです。
読谷村に移住し、改良を加えることで釉薬の流れを少なくなり、きれいな仕上がりとなりましたが、移住後の6年後に高血圧で倒れて入院してリハビリ後かからは大きな作品はほぼ作っていないかもしれません。
さらに金城次郎は高台部に傷がついたもの、あるいは焼成中にゆがみが生じたものも、注文主に渡したり、一般に販売したりしていています。琉球王府時代に窯業関係を所管した行政組織、瓦奉行所には多くの職人たちの中に「洩壺修補細工」という職人が配属されており、焼成で生じた傷・ひびを補修して市場に出すことは一般的であったとされます。
近代期でも壺屋の製品は、通常は東町の焼物市場で売買されていましたが、歪みや傷が生じた製品は別の専門の市場で売買されていたようです。金城次郎にとつて、焼成による失敗品でも売寅することに、抵抗感はなかったのでしょう。むしろ窯の中で生じる変化に、積極的意義を見出そうとしているかのように思われ、そのような壺屋時代の作品はとても魅力的ですね。
河井寛次郎や浜田庄司も含めて、民芸作品はこれといった統一見解は少なく、作品そのものに魅力を感じるかどうかがキーポイントですね。ただ思うに最近の工芸作品はなんとなくおとなしく、魅力を感じる作品が少ないと思います。手先だけの熟練の足りない作品ばかりで、戦後まもない頃の野性味溢れる作品や、「俺の工夫だ!」という気概のある作品は影を潜めているように感じますね。それを理解するのも知識ばかりではない、そういう経験を積んだ感性が必要なのだと思います。
陶磁器は箱に入れてしまっておけばいいと思っていたら大間違いで、とくに湿気は保存箱がやられます。きちんとして環境で保管するのは掛け軸類と同じようです。大きな作品は保管する場所もたいへんですね。