松本楓湖というと菊池容斎を師とする武者絵の作品がまず思い浮かびます。当方としては基本的に蒐集の対象外の画家なのですが、本作品は珍しい?美人画です。
松本楓湖がこのような作品を描いたという確証はありませんが、今まで本ブログで取り上げたこともない画家でもあり、実はちょっとした遊び心で入手してみた作品です。
小生が本ブログで紹介する作品で「氏素性の解らぬ」、「遊び心」や「伝」が冠されて紹介する作品は危うい作品としてご理解下さい。「氏素性の解らぬ」、「遊び心」や「伝」の言葉の違いには特別な意図はありません。
遊び心 楓下美人図 伝松本楓湖筆
紙本水墨着色軸装 軸先細工骨 合箱
全体サイズ:縦2015*横695 画サイズ:縦1153*横586
手前の大皿は平野庫太郎氏の作品です。箱などは一切なく、軸自体はとても大きな作品です。
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松本楓湖:(まつもと ふうこ)天保11年9月14日(1840年10月9日)~大正12年(1923年)6月22日)は幕末から大正時代の日本画家。
天保11年9月14日(1840年10月9日)、常陸国河内郡寺内村(のちの稲敷郡新利根町寺内、現・茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の三男として生まれる。名は敬忠。通称藤吉郎。
父宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたという。楓湖は幼い頃から絵を好み、一般に人物を描くのに右向きの顔ばかりで左向きの顔は容易に描けないものですが、楓湖は左右どちらも自在に描けたという。最初息子が絵師になるのを反対していた父もこれを見て画人になるのを許し、数え12歳の楓湖を連れ嘉永4年(1851年)秋に江戸に出て、浮世絵師の歌川国貞への弟子入りを頼みましたが、断られて帰郷しています。
2年後の嘉永6年(1853年)再び江戸へ出て、鳥取藩の御用絵師・沖一峨に学んでいます。一峨は狩野派や琳派、南蘋派に学んで濃彩華麗な花鳥画を得意とした絵師であり、楓湖も一峨から華やかな色彩感覚を学んだようです。安政2年(1855年)16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画「天人図」などを描いています。
一峨が亡くなった翌年安政3年(1856年)17歳で、谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師である佐竹永海の画塾に入り、画号を永峨と改めています。5年後には塾頭となりましたが、文久2年(1861年)前後から尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られました。自身も剣術を修め、水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らと交わり勤王党を援助しています。元治元年(1864年)天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居となりました。
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師となった佐竹永海、菊池容斎は本ブログでも紹介されておりますが、とくに菊池容斎の同門には本ブログでおなじみの渡辺省亭がいます。
*表具は痛んでいた作品を再表具したようです。当方は松本楓湖については門外漢のため落款・印章は未確認であり、作風からも「伝」とせざる得ません。
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翌慶応元年(1865年)江戸に戻り、再び画道に専心しています。明治元年(1868年)、歴史人物画の画題を『前賢故実』に依っていた楓湖は、永海の許しを得て菊池容斎に入門、画号を楓湖に改めました。画号の由来は、郷里が霞ヶ浦に近く、その一入江が通称「カエデ湖」と呼ばれていたことに因んでいます。その一方で、生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いています。
明治15年(1882年)、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、大庭学仙、竹本石亭、月岡芳年、五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、全7巻62図の挿絵を描き一躍名を轟かせました。明治20年(1887年)には、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当しています。なお、楓湖はこのころまで断髪せず、丁髷姿で通したそうです。
明治31年(1898年)、日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(明治27年(1894年))、第1回文展に「静女舞」(明治40年(1907年))などを発表、大正8年(1919年)、帝国美術院会員となった。大正12年(1923年)6月22日歿。東京谷中初音町の全生庵に葬られた。
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『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当・・・、美人画を描いている?
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楓湖は師である容斎の歴史画を継承し、それを次代へ橋渡ししたと評価される一方で、容斎の枠から大きく出なかった画家と言われています。しかし、楓湖が容斎の画風を墨守したのは、明治35年刊『日本美術画家列伝』の楓湖の項目によると容斎の意向が大きく、楓湖も師恩に報いようとしたと考えられます。
また、依頼画は当時需要が高かった容斎風を堅持する一方、展覧会出品作は容斎の図様に基づきながらも、写実を取り込んだ独自性を打ち出そうとした意欲が認められます。また初期の宮内庁からの公的な仕事では、一峨から学んだ濃彩の作品が目立ちます。また、旧派の画家と見做されがちですが、保守的な日本美術協会には反対しています。
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門下生には速水御舟、今村紫紅、小茂田青樹という近代日本画壇を担った逸材がおり、島崎柳塢、高橋廣湖、岩井昇山、田中以知庵、木本大果など本ブログに投稿されている画家も多いです。
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明治10年代に浅草栄久町の自宅に「安雅堂画塾」という私塾を開き、約300人とも言われる門下生を輩出しました。本人は不干渉の放任主義で投げやり教育と言っていましたが、特に初心者には親切で温情に富んだ指導をしたといいます。また、楓湖や容斎が模写した古名画の粉本模写を奨励し、モデルを用いた人物写生も行ったようです。
主な門下生に村岡応東、中島光村、今村紫紅、牛田鷄村、速水御舟、島崎柳塢、鴨下晁湖、高橋廣湖、前田錦楓、小茂田青樹、村上鳳湖、岩井昇山、松本凌湖(楓湖の四男)、椿桜湖、木本大果、中島清之、高橋松亭(甥)、富取風堂、上原古年、田中以知庵、永峰秀湖、坂巻耕漁、大久保楓閣、森作湖仙などがいます。
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さらに本ブログで投稿されている今村紫紅、島崎柳塢、小茂田青樹、岩井昇山、木本大果、田中以知庵らがいるようですね。
今一度、見直されてよい画家のひとりでしょう。
松本楓湖がこのような作品を描いたという確証はありませんが、今まで本ブログで取り上げたこともない画家でもあり、実はちょっとした遊び心で入手してみた作品です。
小生が本ブログで紹介する作品で「氏素性の解らぬ」、「遊び心」や「伝」が冠されて紹介する作品は危うい作品としてご理解下さい。「氏素性の解らぬ」、「遊び心」や「伝」の言葉の違いには特別な意図はありません。
遊び心 楓下美人図 伝松本楓湖筆
紙本水墨着色軸装 軸先細工骨 合箱
全体サイズ:縦2015*横695 画サイズ:縦1153*横586
手前の大皿は平野庫太郎氏の作品です。箱などは一切なく、軸自体はとても大きな作品です。
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松本楓湖:(まつもと ふうこ)天保11年9月14日(1840年10月9日)~大正12年(1923年)6月22日)は幕末から大正時代の日本画家。
天保11年9月14日(1840年10月9日)、常陸国河内郡寺内村(のちの稲敷郡新利根町寺内、現・茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の三男として生まれる。名は敬忠。通称藤吉郎。
父宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたという。楓湖は幼い頃から絵を好み、一般に人物を描くのに右向きの顔ばかりで左向きの顔は容易に描けないものですが、楓湖は左右どちらも自在に描けたという。最初息子が絵師になるのを反対していた父もこれを見て画人になるのを許し、数え12歳の楓湖を連れ嘉永4年(1851年)秋に江戸に出て、浮世絵師の歌川国貞への弟子入りを頼みましたが、断られて帰郷しています。
2年後の嘉永6年(1853年)再び江戸へ出て、鳥取藩の御用絵師・沖一峨に学んでいます。一峨は狩野派や琳派、南蘋派に学んで濃彩華麗な花鳥画を得意とした絵師であり、楓湖も一峨から華やかな色彩感覚を学んだようです。安政2年(1855年)16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画「天人図」などを描いています。
一峨が亡くなった翌年安政3年(1856年)17歳で、谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師である佐竹永海の画塾に入り、画号を永峨と改めています。5年後には塾頭となりましたが、文久2年(1861年)前後から尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られました。自身も剣術を修め、水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らと交わり勤王党を援助しています。元治元年(1864年)天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居となりました。
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師となった佐竹永海、菊池容斎は本ブログでも紹介されておりますが、とくに菊池容斎の同門には本ブログでおなじみの渡辺省亭がいます。
*表具は痛んでいた作品を再表具したようです。当方は松本楓湖については門外漢のため落款・印章は未確認であり、作風からも「伝」とせざる得ません。
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翌慶応元年(1865年)江戸に戻り、再び画道に専心しています。明治元年(1868年)、歴史人物画の画題を『前賢故実』に依っていた楓湖は、永海の許しを得て菊池容斎に入門、画号を楓湖に改めました。画号の由来は、郷里が霞ヶ浦に近く、その一入江が通称「カエデ湖」と呼ばれていたことに因んでいます。その一方で、生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いています。
明治15年(1882年)、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、大庭学仙、竹本石亭、月岡芳年、五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、全7巻62図の挿絵を描き一躍名を轟かせました。明治20年(1887年)には、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当しています。なお、楓湖はこのころまで断髪せず、丁髷姿で通したそうです。
明治31年(1898年)、日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(明治27年(1894年))、第1回文展に「静女舞」(明治40年(1907年))などを発表、大正8年(1919年)、帝国美術院会員となった。大正12年(1923年)6月22日歿。東京谷中初音町の全生庵に葬られた。
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『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当・・・、美人画を描いている?
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楓湖は師である容斎の歴史画を継承し、それを次代へ橋渡ししたと評価される一方で、容斎の枠から大きく出なかった画家と言われています。しかし、楓湖が容斎の画風を墨守したのは、明治35年刊『日本美術画家列伝』の楓湖の項目によると容斎の意向が大きく、楓湖も師恩に報いようとしたと考えられます。
また、依頼画は当時需要が高かった容斎風を堅持する一方、展覧会出品作は容斎の図様に基づきながらも、写実を取り込んだ独自性を打ち出そうとした意欲が認められます。また初期の宮内庁からの公的な仕事では、一峨から学んだ濃彩の作品が目立ちます。また、旧派の画家と見做されがちですが、保守的な日本美術協会には反対しています。
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門下生には速水御舟、今村紫紅、小茂田青樹という近代日本画壇を担った逸材がおり、島崎柳塢、高橋廣湖、岩井昇山、田中以知庵、木本大果など本ブログに投稿されている画家も多いです。
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明治10年代に浅草栄久町の自宅に「安雅堂画塾」という私塾を開き、約300人とも言われる門下生を輩出しました。本人は不干渉の放任主義で投げやり教育と言っていましたが、特に初心者には親切で温情に富んだ指導をしたといいます。また、楓湖や容斎が模写した古名画の粉本模写を奨励し、モデルを用いた人物写生も行ったようです。
主な門下生に村岡応東、中島光村、今村紫紅、牛田鷄村、速水御舟、島崎柳塢、鴨下晁湖、高橋廣湖、前田錦楓、小茂田青樹、村上鳳湖、岩井昇山、松本凌湖(楓湖の四男)、椿桜湖、木本大果、中島清之、高橋松亭(甥)、富取風堂、上原古年、田中以知庵、永峰秀湖、坂巻耕漁、大久保楓閣、森作湖仙などがいます。
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さらに本ブログで投稿されている今村紫紅、島崎柳塢、小茂田青樹、岩井昇山、木本大果、田中以知庵らがいるようですね。
今一度、見直されてよい画家のひとりでしょう。