
江戸時代以前に描かれた虎は実に面白い。実物を見ていないで描かれているのでユニークな作品を多くあり、本ブログでの数多く紹介しています。本日は虎の絵で著名な岸派の第4代、岸竹堂が描いた作品を紹介します。

岸派の最後の画家 虎図 岸竹堂筆
絹本着色軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:横530*縦1950 画サイズ:横410*縦1130


日本画に詳しい方なら多くの方がご存じなのが江戸期から明治期まで続いた岸派の画家達です。ざっと岸派の画家を羅列して、と本ブログにて紹介している作品をアップしてみました。
初代岸駒
各流派を折衷し、表現性の高い写生画で知られた岸派でもっと有名な画家です。門下に岸良がいます。
竹下岩上猛虎図 佐伯岸駒筆
絹本水墨淡彩 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1850*横500 画サイズ:縦1008*横372
絹本水墨淡彩 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1850*横500 画サイズ:縦1008*横372

孔雀図 佐伯岸良筆
絹本水墨着色軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1915*横600 画サイズ:縦1110*横475

二代岸岱
岸駒の実子で岸派の絵画を発展させており、その実子に、岸慶、岸礼、岸誠という画家がいます。
月下虎之図 佐伯岸岱筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱 佐竹侯爵家旧蔵
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱 佐竹侯爵家旧蔵
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345

虎図 佐伯岸礼筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 杉箱
全体サイズ:横610*縦1880 画サイズ:横470*縦1305
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 杉箱
全体サイズ:横610*縦1880 画サイズ:横470*縦1305

三代岸連山
岸岱の弟子となり、後に岸駒の養子として京都の伝統画派四条派の画風を加味して癖の強い画風を変容させた画家です。その実子に岸九岳がいます。
*残念ながら岸連山の作品は手放しています。
四代岸竹堂
本日紹介している画家ですが、連山の弟子で後に連山の養子(娘婿)となる森寛斎、幸野楳嶺らと並ぶ明治草創期の近代京都画壇に重鎮となり、岸派の伝統である虎や鳥獣だけでなく、洋画の陰影や遠近法を取り入れ写実的な風景画なども描きました。しかし、岸派はこの竹堂をもって実質的な終焉を迎えます。
*本日紹介しているのが、この「四代岸竹堂」の作品です。
**なお望月派の派祖の望月玉蟾は岸駒に学び、四条派と岸派を融合させた一派を築きました。

本日紹介する岸竹堂の画歴は下記のとおりです。
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岸 竹堂:(きし ちくどう)、文政9年4月22日(1826年5月28日)~ 明治30年(1897年)7月27日)。日本の幕末から明治時代に活躍した日本画家。幼名は米吉、名は昌禄、字は子和、通称は八郎。竹堂は号で、他に残夢、真月、虎林、如花など。岸派の4代目で、明治期の京都画壇で、森寛斎、幸野楳嶺とともに3巨頭の1人に数えられた画家です。
補足:彦根藩(現彦根市)代官役・寺居孫二郎重信の三男として彦根城下に生まれています。
天保7年(1836年)数え11歳で地元の絵師で彦根藩士中島安泰に狩野派の手ほどきを受けます。
天保13年(1842年)17歳の時、京狩野9代目の狩野永岳(ブログに作品紹介済み)に入門しますが、粉本主義の狩野派の指導法に疑問を感じ、翌年四条派の流れを組む岸派の岸連山に師事します。
安政元年(1854年)29歳で連山の娘素子と結婚し、岸家の養子となります。この前後、二条城本丸御殿や御所造営に際して障壁画を描いています。
安政4年(1857年)有栖川宮に出仕し、
安政6年(1859年)11月には連山の子・岸九岳が未だ幼少なため岸家を継ぎ、竹堂の歩みは順風でした。画風も円山派の長沢芦雪に私淑し、その構図法を学び一段と飛躍を見せます。
ところが幕末の混乱期には、絵師としての生活が成り立たず困窮します。師連山も亡くなり、禁門の変で家を焼かれ、書き溜めた写生や模写の画稿も焼失してしまいます。この時に丹後岩滝の廻船問屋山家屋小室家を頼ります。
慶応元年(1865年)から足掛け3年丹後に滞在し、この地に多くの作品を残しています。なお、丹後には後の作品も複数残っており、竹堂と丹後の関係は続いていたとも考えられます。生活のため旅亭を営んだり、蚊帳屋、蝋燭屋などを始めるも、どれもうまくいきませんでした。
明治6年(1873年)千總の西村總左衛門と出会い、京友禅の下絵を描いて糊口をしのぎます。竹堂の流麗な意匠により、千總の友禅は一世を風靡したとされます。この成功で生活が安定した竹堂は、新たに大作にも取り組み始めます。
明治13年(1880年)6月、新たに設置された京都府画学校に教員に着任。
明治17年(1884年)第二回内国絵画共進会に「晩桜図」を出品し3等銅賞、また同年の大阪絵画品評会に「池辺に菊図」で2等賞を受けます。
翌年、髙島屋常設画工室が設置されると、田中一華らとこれを担当しています。
明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会では「猛虎図」六曲一双で二等銀杯を受賞、各展覧会の審査員になるなど京都画壇の指導的画家として活躍しました。
参考作品 滋賀県立博物館蔵
虎
1891年(明治24年) 絹本著色 画サイス:縦1593*横716

しかし、サーカスで見た実物の虎に衝撃を受け(それまでは実物の虎を日本で絵師が直接見ることはなかったため、日本画の虎図は大型の猫のような風貌をしていた)、画風が一変します。

毛並みを緻密に描くのは、虎で有名な画家の特徴です。円山応挙や片山楊谷が江戸期において「虎」を描いて著名な画家ですが、明治期以降では大橋翠石がいます。

明治25年(1892年)6月には、「虎図」に執念を燃やして打ち込むあまりに「虎が睨んでいる」と発狂し、一時永観堂の癲狂院に入院する一幕もあったようですが、この仔虎を抱いた母虎の虎図はシカゴ万国博覧会で銅牌を受賞しました。

この作品は絹本に描かれていますが、表具は粗末な紙表具です。

なんでも鑑定団に岸竹堂の虎の屏風絵が出品されています。
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参考作品
なんでも鑑定団出品作 2013年8月20日放送

評価金額:300万円
評:正面向きの虎が描かれ、非常に迫力がある。このような虎は江戸時代で言うと円山応挙がよく描いているが、猫を参考に描かれたといわれる応挙の作に比べると岸竹堂の虎がいかにリアルかよくわかる。まさに岸派の虎の完成形といってもよい。落款を見ると竹堂70歳、明治28年くらいのもので、晩年の作品でこれだけ大きなものは非常に珍しい。やや状態に難があるのが残念。
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岸竹堂は明治29年(1896年)6月30日には帝室技芸員となりますが、翌年慢性胃炎のため72歳で没しました。墓は京都上京区の本禅寺。墓碑銘は竹堂の死を悼んだ富岡鉄斎が誌しています。
西洋絵画の陰影法や遠近法を採り入れた鋭い写生技術を持ち、粉本に頼ることがなかったようです。動物画・風景画、特に虎と桜を得意とし、弟子に西村五雲、加藤英舟、藤島清漣、浅江柳喬、吉谷清聲、吉岡華堂などがいます。
画中の落款と印章は下記写真のとおりです。遊印?のようなものが作品の左下に押印されています。作品の出来などから明治20年頃の真作と推定されます。


この虎の作品が、大橋翠石の虎の作品に繋がっていったと当方では推察しています。「なんでも鑑定団」の出品作より出来は良く、状態も非常に良いので、きちんとした表具に誂えて大切に保管していこうと思っています。