本日の紹介は、因幡派の鯉の作品と同じようにときおり触手を伸ばしている小泉檀山の鮎の作品の紹介です。本日の作品で5作品目となります。
*上記写真は改装後の状態です。
入手時は非常に痛みのひどい作品で、インターネットオークションにて5000円で即決の作品でした。状態の良い作品はインターネットオークションでも10万円から20万円はしますので、勉強代金としては安いのかな? 状態のよい作品はなかなかありませんが、当方と同じく改装してる方もおられるようです。
群鮎之図 伝小泉檀山筆 その5 1822年(天保3年)
絹本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1760*横485 画サイズ:縦1030*横430
洗い(染み抜き)改装が必要
お値段のほかにこの作品を入手した理由は描いた年代が明記されていたことです。
賛には「天保癸酉冬日寫 檀森齋中 檀山老人小泉斐 押印」とあり、1833年(天保3年)、小泉斐が63歳の作と推定されます。なお「檀森齋中」の「檀森齋」は小泉斐の別号としてあります。
*なお巻き止めにある「雅集堂主人蔵」については不明です。
印章(下記写真左)はやけがひどく非常に不鮮明です。当方の他の所蔵作品の「群鮎之図 小泉檀山筆 その4 1813年(文化10年)」の印章(下記写真右)と比較していますが、なんとも判断がつきませんね。
いずれにしても洗い(染み抜き)、改装が必要なようですが、そうなると勉強代金が高くつく・・。
この時期の「小泉斐(あやる)の作品の特徴」には下記のものがあります。
・鮎が一匹だけ跳ねている
・上ひれが大きく一匹だけ描かれる
・色彩が直接書き込まれ、ひれに色が二重に書き込まれる
というものですが、若書きのものや一匹だけで描かれる場合は適用されません。
背面は高齢になるほど簡略化されているようです。
小泉檀山作品の説明では繰り返しになりますが、小泉檀山の画歴は下記のとおりです。
*****************************
小泉檀山:小泉 斐(こいずみ あやる)とも称される。明和7年3月(1770年)~ 嘉永7年7月5日(1854年7月29日))。江戸時代後期の画家。殊に鮎と猫は真に迫るといわれた。本姓は木村。幼名を勝、諱は光定、字を桑甫・子章とし、檀山・青鸞・檀森斎・非文道人などと号した。
下野国の人。下野国芳賀郡益子(現在の栃木県芳賀郡益子町)に生まれる。父は鹿島神社神官の木村一正、母は片岡氏。幼少より絵を好み、11歳で高田敬輔の門人島崎雲圃に入門。唐美人図・鮎図などを習う。師との関係から近江に頻繁に出向き、日野祭の山車の見送幕の製作などをしている。画を円山應挙に、漢学を皆川淇園に学んだとされる。
30歳頃、那須郡両郷村(現在の栃木県那須郡黒羽町)温泉神社の小泉光秀の養子となり同社の神官を継いだ。立原翠軒に就いて経学や詩文を修め、その子立原杏所に画を教えた。また和歌、音楽を嗜んだともいう。
享和元年(1801年)に、甲斐守に任ぜられ従五位に叙される。50歳の時に黒羽藩主大関増業より城北の鎮国社宮司職を与えられ、その後は旺盛に画の創作を行った。
画は唐の王維を敬慕した。各地から門弟が雲集し30年もの間、画技を伝えたという。「小泉檀山門人録」には100名もの人名が記され島崎玉淵・宇佐美太奇などが育つ。高久靄厓も画技を受けたひとりという。
斐は殊に鮎を描くに巧みであった。よく向町の高岩に行って、河中の鮎の生態を観察して写生したと言われている。鮎図に猫が飛びついたというエピソードが伝わる。
斐は立原翠軒の従者として寛政7年(1795年)に藤田幽谷などと吉原口から富士登山に成功している。このときを元に製作した「富嶽写真」(版画)は富岡鉄斎が富士図製作に携わるとき大いに参考にした。この富岳の版木(四度ずり)一組小泉家に保存されている。又諸国を巡り歩き奇石、名石数十点を写生し、自ら瓦版を創作して刷り石譜をつくった。交遊の亀田鵬斎、立原翠軒、村瀬栲亭、頼山陽の諸大家がこれに序文を書いて、その刷り方の奇と写生の妙とを賞揚して世に広めた。小泉家に残っている石譜の埴板に当時の有名人の讃と名が刻んであるのを見ても交遊の広さがわかる。
藩主増業は、室の八島考を著し、領内の那須野に、室ノ井、逃室、数室、大野室、薄室、柏室、岡室、板室と呼ぶ地所のあるのは、即ち下野の歌の名所として世に聞こえた所であって、下都賀郡の栃木地方にあったのではないと言う文章を綴り、以上八ケ所の鳥瞰図を斐に描かせ、文章と絵を二枚一組の瓦版として世に広めた。斐は尺に余る美髯をたくわえ、その脱け毛を集めて自ら画筆を作り画を描いた。一風変った趣があり「斐のひげ筆」として請うものが多かった。このような斐にも孫娘が御殿勤めをし、藩主よりカステラを頂いて来た時の喜びを描くと言った温のある一面があった。その画中に孫國女十一歳嘉寿天良頂戴図、檀山老人斐筆とある。
嘉永七年(一八五四)七月五日歿した。年八十九歳と言われているが、小泉家の木主によると、前面に前大宮司従五位下小泉甲斐守、藤原朝臣光定神霊、裏面に甲斐守画名斐字子章檀山人止号嘉永七年甲寅七月五日神去齢八十五寿重祝而八十九云故有也とある。
広凌観瀾図、黒羽周辺景観図、黒羽城絵図 揚柳観音図、その他多くの名作が残されている。
*****************************
改装された後の写真は下記のとおりです。
*後日、まとめて染み抜き、改装した作品らを紹介します。
改装、染み抜きは数万円で可能です。通常の作品で染み抜き改装が数十万円とふっかけられたらほかの腕の良い良心的な表具師さんをあたることですね。