掛け軸の修理は改装だけではありません。箱の修理や誂え、時には掛け紐の交換という小事のこともあります。こちらは箱を誂えて天龍道人の84歳の時の作品、今では貴重です。
掛け軸は表具、保存箱らが三位一体となった美術品と言えるでしょうが、本日紹介する作品もそのひとつと評価できる作品だと思います。
霜葉 堅山南風筆 その6
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横450*縦2120 画サイズ:横275*縦1285
本作品は長さは2メートルを優に超えます。通常の床の間では飾れないかもしれませんね。
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堅山南風の略歴
上京まで
1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。1898年、熊本市立壺川小学校卒業を経て高木高等小学校に入学、1年時に写生した「ざくろ」が図画教師に称賛された。この頃、地元で鯉を描く画家として著名であった雲林院蘇山に傾倒していた。
1904年、生家破産により家を閉じ、西子飼町の源空寺に居候した。同年9月には養育を受けていた祖父が死去している。翌1905年より図書館に通い木版印刷書籍口絵を模写するなどしていた。翌々年1906年より地元画家福島峰雲に師事。
1909年、同郷の山中神風に連れられて上京した。このとき、上京する電車の車中にて「南風」の画号を自ら選んだ。号は『十八史略・尭舜篇』のうち「南風之詩」から取ったものだった。上京後、神風の紹介により高橋広湖門下となった。
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登龍門 堅山南風筆
紙本着色額装 共シール
画サイズ:縦317*横407 全体サイズ:縦441*横536
鯉之瀧登 高橋廣湖筆
絹本水墨淡彩軸装箱入
画サイズ:横420*縦1050
*高橋広湖については本ブログでも作品が紹介されています。さらに堅山南風は花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた画家ですが、本ブログにて堅山南風(上記の上の写真)、高橋広湖が共に鯉(上記の下の写真)を描いた作品が紹介されていますので、興味にある方は本ブログから検索してみてください。
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文展初入選まで
高橋門下となって3年後の1911年まで第3回・第4回文展、第11回巽画会などに出品を続けるがいずれも落選し、生活困窮に陥っていた。これを見かねた師高橋が自身の職であった報知新聞連載小説「徳川栄華物語」の挿絵の画を代筆させたことで月額30円の手当を得ることとなった。またこの年、巽画会出品作「弓矢神」が三等銅牌受賞している。しかし高橋は翌1912年に急逝した。
師高橋死後の1913年にも巽画会、勧業展、日本画会展などに出品するが二等褒賞や落選を繰り返し、南風はスランプに陥っていた。この年に開催された第7回文展に出品した「霜月頃」が文展初入選、最高賞である二等賞を獲得、後に師事することとなる横山大観の激賞を受けた。また出品作「霜月頃」は旧熊本藩主、細川護立の買い上げとなったほか、南風自身も細川の庇護を受けた。
熊本県立美術館蔵 「霜月頃」
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上記の作品と本作品は似通った題ですね。描いた季節は同時期でしょう。作品中の落款と印章、共箱に題の書き付けは下記のとおりです。
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横山大観門下から関東大震災まで
1914年、前述の横山大観に師事した。この年日本美術院が再興されると文展出品を取りやめ、以後院展を作品出品先と定めた。翌1915年には妻を娶っている。
1915年に出品した第2回院展「作業」は労働者を群像を描いたものだったが、師横山により題材の品について叱責を受けた。
翌1916年11月25日より絵画修業を目的として荒井寛方のインド旅行に便乗、カルカッタ周辺で2か月間、翌1917年2月よりブッダガヤ、デリー、またこれらの帰路にボンベイに立ち寄って周辺写生を行った。特にボンベイではエレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘を受けた。しかし同年9月の第4回院展にインドの印象を作品として出品した「熱国の夕べ」は赤、緑など強い色彩を用いたことで色盲と酷評された。
1918年より健康を害し、また極度のスランプに陥っている。1920年には健康回復および気分転換のために弓道を開始した。またこの頃より花鳥画の制作を目的として東京近郊から山梨県にかけての写生旅行を行っている。これらのスランプ脱却活動は1922年第9回院展「桃と柘榴」にて横山に好評を受けるまで続いた。1923年9月1日、関東大震災発生。当日は院展開催日だった。このときの震災の様子を南風は1925年作の「大震災絵巻」3巻に描いた。
日本美術院同人から初個展開催まで
1924年、日本芸術院同人に推挙される。1926年には東京府美術院評議員に任命された。同年12月には巣鴨から小石川区(現文京区)の細川邸内の一画に居を移した。1927年頃より民謡踊りに熱中、同題材を求めて日本各地を旅行した。1928年には兄の借金返済のため郷里熊本にて画会を行うなどしている。
1929年9月、新築された日光東照宮朝陽閣の障壁画を揮毫するため、横山大観の推薦により中村岳陵、荒井寛方らと共に同年12月30日まで現地滞在し制作に携わった。 1930年4月にはイタリアのローマで開催された日本美術展覧会(ローマ展またはローマ日本美術展)に南風作「水温」「朝顔」「巣籠」が選ばれ出品された。 1931年には「美術新論」10月号に「苦難時代を語る」と題して寄稿している。また1936年頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社している。 1938年3月、東京と京都の画家広島晃甫、奥村土牛、小野竹喬、宇田荻邨、金島桂華、山口華楊、徳岡神泉などが集って結成された丼丼会に南風も結成メンバーとして参加、第1回展に出品した。同年9月より第2回文展に審査員として参加している。また1940年4月には自身初の個展を開催、自身の画塾「南風塾」を「翠風塾」と改称した。
日展出品時代
戦時中の1945年6月には横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開した。同年終戦後11月、南風の所属する帝国美術院が文部省主催の日本美術展覧会への参加要請を日本美術院が受諾したことで翌1946年3月開催の第1回日展に南風も作品を出品し、以降、日展と院展の双方に作品を出品するようになる。
日展出品は1957年まで続けられた。 1951年、日展運営会参事に就任。1954年7月には奥村土牛、酒井三良などと箱根旅行に赴いた。1955年第40回院展に出品した武者小路実篤をモデルとした「M先生」は代表作に数えられる。 1956年3月、南風門と郷倉千靭門の門下生合同による塾展旦生会が結成された。またこの年、熊本県文化功労者に推挙された。
横山大観死去から妻死去まで
1958年、長年師事した横山大観が死去。同年4月、伊東深水と共に日本芸術院会員に推挙。また5月には日本美術院が財団法人となり、南風は当初監事に就任、のち理事となった。
1962年2月23日に発刊されたアメリカ合衆国のニュース誌タイムの表紙に、同誌依嘱により制作した南風の「松下幸之助像」が使用された。1968年10月には文化功労者に選出されている。 1969年、同郷の俳人中村汀女をモデルとした「新涼の客」が完成、第54回院展出品。同年熊本市名誉市民。1971年、妻死去。翌1972年、静岡県韮山町(現伊豆の国市)に別荘を購入したが、手狭であったため田方郡に別荘を新築し以後こちらによく滞在するようになった。
米寿以降
1975年、米寿を迎え熊本で「堅山南風米寿記念展」が開催、「霜月頃」以下南風作品50点が展示された。この年ポリネシアのタヒチ島へ写生旅行に趣き、以降の作品は色彩が更に鮮明になった。 1978年1月4日より読売新聞紙上で自伝抄「思い出のままに」連載開始。
1980年12月30日、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去。
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さて下の写真のように共箱の題字カバーに「表具師岡村辰雄」とあります。これは意外に重要なことです。
岡村辰雄は額装店岡村多聞堂の創業者です。御存じの方は少ないかもしれませんが、掛け軸や額を扱う方には知っている方は多いと思います。
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岡村辰雄:額装店岡村多聞堂の創業者。全国額縁組合連合会初代会長。
明治37年10月31日長野県上田市に生まれる。大正元(1912)年、一家で上田から上京、深川門前仲町で時計屋を営むが、書画の売買を業としていた伯父の影響もあって表具師の仕事に惹かれていき、同6年伯父の仲介で表具店の原清廣堂に入門。
昭和5(1930)年5月、多門堂を港区南佐久間町に創業。同11年、表装について記した『表装備考』を上梓、これを機に多く聞くことの尊さを知り従来の堂号“多門堂”を“多聞堂”に改める。
同25年、表具の仕事を一切放棄し額装の製作に専念、とくに日本画額装の嚆矢となり、ステンレスなど新素材を積極的に取り入れ、建築様式の変化に対応した展示方法を開拓した。27年有限会社岡村多聞堂を設立。以後、東宮御所、新宮殿、吹上御所、国立劇場の装飾画の額装を手がける。
30年、額に関する記録をまとめた『額装の話』を出版し、同年にブリヂストン美術館で「多聞堂額装展覧会」を開催、また全国額縁組合を創立。同42年より法隆寺金堂壁画再現に従事。同57年、自らの回想を綴った『如是多聞』を出版。同63年、額縁研究と製作による建築、美術界に対する功績に対し、第13回吉田五十八賞特別賞を受賞した。
1997年没、享年92。
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本作品を鑑賞するには季節外れですが、虫干しを兼ねて展示しています。
本作品はあくまでも推定ですが、昭和10年頃に描かれた作品ではないかと推測しています。「表具師岡村辰雄」とあり、岡村辰雄が額装の製作に専念する以前のもの? 表具、作品共々、貴重な作品と言えるでしょう。三位一体・・・。このような作品を鑑賞できるにはありがたいことです。
掛け軸は表具、保存箱らが三位一体となった美術品と言えるでしょうが、本日紹介する作品もそのひとつと評価できる作品だと思います。
霜葉 堅山南風筆 その6
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横450*縦2120 画サイズ:横275*縦1285
本作品は長さは2メートルを優に超えます。通常の床の間では飾れないかもしれませんね。
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堅山南風の略歴
上京まで
1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。1898年、熊本市立壺川小学校卒業を経て高木高等小学校に入学、1年時に写生した「ざくろ」が図画教師に称賛された。この頃、地元で鯉を描く画家として著名であった雲林院蘇山に傾倒していた。
1904年、生家破産により家を閉じ、西子飼町の源空寺に居候した。同年9月には養育を受けていた祖父が死去している。翌1905年より図書館に通い木版印刷書籍口絵を模写するなどしていた。翌々年1906年より地元画家福島峰雲に師事。
1909年、同郷の山中神風に連れられて上京した。このとき、上京する電車の車中にて「南風」の画号を自ら選んだ。号は『十八史略・尭舜篇』のうち「南風之詩」から取ったものだった。上京後、神風の紹介により高橋広湖門下となった。
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登龍門 堅山南風筆
紙本着色額装 共シール
画サイズ:縦317*横407 全体サイズ:縦441*横536
鯉之瀧登 高橋廣湖筆
絹本水墨淡彩軸装箱入
画サイズ:横420*縦1050
*高橋広湖については本ブログでも作品が紹介されています。さらに堅山南風は花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた画家ですが、本ブログにて堅山南風(上記の上の写真)、高橋広湖が共に鯉(上記の下の写真)を描いた作品が紹介されていますので、興味にある方は本ブログから検索してみてください。
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文展初入選まで
高橋門下となって3年後の1911年まで第3回・第4回文展、第11回巽画会などに出品を続けるがいずれも落選し、生活困窮に陥っていた。これを見かねた師高橋が自身の職であった報知新聞連載小説「徳川栄華物語」の挿絵の画を代筆させたことで月額30円の手当を得ることとなった。またこの年、巽画会出品作「弓矢神」が三等銅牌受賞している。しかし高橋は翌1912年に急逝した。
師高橋死後の1913年にも巽画会、勧業展、日本画会展などに出品するが二等褒賞や落選を繰り返し、南風はスランプに陥っていた。この年に開催された第7回文展に出品した「霜月頃」が文展初入選、最高賞である二等賞を獲得、後に師事することとなる横山大観の激賞を受けた。また出品作「霜月頃」は旧熊本藩主、細川護立の買い上げとなったほか、南風自身も細川の庇護を受けた。
熊本県立美術館蔵 「霜月頃」
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上記の作品と本作品は似通った題ですね。描いた季節は同時期でしょう。作品中の落款と印章、共箱に題の書き付けは下記のとおりです。
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横山大観門下から関東大震災まで
1914年、前述の横山大観に師事した。この年日本美術院が再興されると文展出品を取りやめ、以後院展を作品出品先と定めた。翌1915年には妻を娶っている。
1915年に出品した第2回院展「作業」は労働者を群像を描いたものだったが、師横山により題材の品について叱責を受けた。
翌1916年11月25日より絵画修業を目的として荒井寛方のインド旅行に便乗、カルカッタ周辺で2か月間、翌1917年2月よりブッダガヤ、デリー、またこれらの帰路にボンベイに立ち寄って周辺写生を行った。特にボンベイではエレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘を受けた。しかし同年9月の第4回院展にインドの印象を作品として出品した「熱国の夕べ」は赤、緑など強い色彩を用いたことで色盲と酷評された。
1918年より健康を害し、また極度のスランプに陥っている。1920年には健康回復および気分転換のために弓道を開始した。またこの頃より花鳥画の制作を目的として東京近郊から山梨県にかけての写生旅行を行っている。これらのスランプ脱却活動は1922年第9回院展「桃と柘榴」にて横山に好評を受けるまで続いた。1923年9月1日、関東大震災発生。当日は院展開催日だった。このときの震災の様子を南風は1925年作の「大震災絵巻」3巻に描いた。
日本美術院同人から初個展開催まで
1924年、日本芸術院同人に推挙される。1926年には東京府美術院評議員に任命された。同年12月には巣鴨から小石川区(現文京区)の細川邸内の一画に居を移した。1927年頃より民謡踊りに熱中、同題材を求めて日本各地を旅行した。1928年には兄の借金返済のため郷里熊本にて画会を行うなどしている。
1929年9月、新築された日光東照宮朝陽閣の障壁画を揮毫するため、横山大観の推薦により中村岳陵、荒井寛方らと共に同年12月30日まで現地滞在し制作に携わった。 1930年4月にはイタリアのローマで開催された日本美術展覧会(ローマ展またはローマ日本美術展)に南風作「水温」「朝顔」「巣籠」が選ばれ出品された。 1931年には「美術新論」10月号に「苦難時代を語る」と題して寄稿している。また1936年頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社している。 1938年3月、東京と京都の画家広島晃甫、奥村土牛、小野竹喬、宇田荻邨、金島桂華、山口華楊、徳岡神泉などが集って結成された丼丼会に南風も結成メンバーとして参加、第1回展に出品した。同年9月より第2回文展に審査員として参加している。また1940年4月には自身初の個展を開催、自身の画塾「南風塾」を「翠風塾」と改称した。
日展出品時代
戦時中の1945年6月には横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開した。同年終戦後11月、南風の所属する帝国美術院が文部省主催の日本美術展覧会への参加要請を日本美術院が受諾したことで翌1946年3月開催の第1回日展に南風も作品を出品し、以降、日展と院展の双方に作品を出品するようになる。
日展出品は1957年まで続けられた。 1951年、日展運営会参事に就任。1954年7月には奥村土牛、酒井三良などと箱根旅行に赴いた。1955年第40回院展に出品した武者小路実篤をモデルとした「M先生」は代表作に数えられる。 1956年3月、南風門と郷倉千靭門の門下生合同による塾展旦生会が結成された。またこの年、熊本県文化功労者に推挙された。
横山大観死去から妻死去まで
1958年、長年師事した横山大観が死去。同年4月、伊東深水と共に日本芸術院会員に推挙。また5月には日本美術院が財団法人となり、南風は当初監事に就任、のち理事となった。
1962年2月23日に発刊されたアメリカ合衆国のニュース誌タイムの表紙に、同誌依嘱により制作した南風の「松下幸之助像」が使用された。1968年10月には文化功労者に選出されている。 1969年、同郷の俳人中村汀女をモデルとした「新涼の客」が完成、第54回院展出品。同年熊本市名誉市民。1971年、妻死去。翌1972年、静岡県韮山町(現伊豆の国市)に別荘を購入したが、手狭であったため田方郡に別荘を新築し以後こちらによく滞在するようになった。
米寿以降
1975年、米寿を迎え熊本で「堅山南風米寿記念展」が開催、「霜月頃」以下南風作品50点が展示された。この年ポリネシアのタヒチ島へ写生旅行に趣き、以降の作品は色彩が更に鮮明になった。 1978年1月4日より読売新聞紙上で自伝抄「思い出のままに」連載開始。
1980年12月30日、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去。
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さて下の写真のように共箱の題字カバーに「表具師岡村辰雄」とあります。これは意外に重要なことです。
岡村辰雄は額装店岡村多聞堂の創業者です。御存じの方は少ないかもしれませんが、掛け軸や額を扱う方には知っている方は多いと思います。
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岡村辰雄:額装店岡村多聞堂の創業者。全国額縁組合連合会初代会長。
明治37年10月31日長野県上田市に生まれる。大正元(1912)年、一家で上田から上京、深川門前仲町で時計屋を営むが、書画の売買を業としていた伯父の影響もあって表具師の仕事に惹かれていき、同6年伯父の仲介で表具店の原清廣堂に入門。
昭和5(1930)年5月、多門堂を港区南佐久間町に創業。同11年、表装について記した『表装備考』を上梓、これを機に多く聞くことの尊さを知り従来の堂号“多門堂”を“多聞堂”に改める。
同25年、表具の仕事を一切放棄し額装の製作に専念、とくに日本画額装の嚆矢となり、ステンレスなど新素材を積極的に取り入れ、建築様式の変化に対応した展示方法を開拓した。27年有限会社岡村多聞堂を設立。以後、東宮御所、新宮殿、吹上御所、国立劇場の装飾画の額装を手がける。
30年、額に関する記録をまとめた『額装の話』を出版し、同年にブリヂストン美術館で「多聞堂額装展覧会」を開催、また全国額縁組合を創立。同42年より法隆寺金堂壁画再現に従事。同57年、自らの回想を綴った『如是多聞』を出版。同63年、額縁研究と製作による建築、美術界に対する功績に対し、第13回吉田五十八賞特別賞を受賞した。
1997年没、享年92。
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本作品を鑑賞するには季節外れですが、虫干しを兼ねて展示しています。
本作品はあくまでも推定ですが、昭和10年頃に描かれた作品ではないかと推測しています。「表具師岡村辰雄」とあり、岡村辰雄が額装の製作に専念する以前のもの? 表具、作品共々、貴重な作品と言えるでしょう。三位一体・・・。このような作品を鑑賞できるにはありがたいことです。