今週初めには息子は小学校に無事入学となりました。コロナウイルスの影響で簡略化された入学式でしたが、担任の先生や幼稚園が一緒だった友達もいて当方もひと安心・・・・。
近所の公立の学校ですので、通学も歩いていけますし、何と言っても校庭が広いのがいい!
さて本日紹介する作品は風外本高らしき作品・・、風外本高の作品は仙厓の作品とともに当方では蒐集は避けてきたように思います。洋画でいうと鈴木信太郎みたいなもの・・。どこがいいのか分からない・・・。しかも贋作が多い・・・。逆にこのような作品を直感で購入するようになったということは我ながら進歩したのかもしれません?
浅絳山水図 伝風外本高筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1950*横420 画サイズ:縦1320*横298
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風外本高:(ふうがい ほんこう)俗名:東泰二、安永8年(1779年)~弘化4年6月22日(1847年8月2日))。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶。
安永8年(1779年)に伊勢国度会穂原村押渕(現在の三重県南伊勢町)に、東孝助の次男として生まれる。幼名は泰二。別号、好幽。
天明6年(1786年)に地元の圓珠院で安山泰穏につき出家し、ついで松坂にある薬師寺の大愚霊智に学ぶ。19歳のとき峻烈な禅風で「狼玄楼」として名高い但馬国龍満寺の玄樓奥龍に師事して、その法嗣となる。風外本高の名前も、この時市から与えられた。
興聖寺(宇治市)にも従って移動。 34歳で出雲国徳林寺開山となり、文政元年(1819年)に摂津国圓通院も開き、次いで54歳のとき三河国香積寺25世となった。諸岳奕堂、原坦山、環溪密雲など、洞門の俊英を輩出した。後に摂津国烏鵲楼に引退した。
一方で画を月僊、池大雅に学び、画僧としても知られ、池大雅の書画に私淑し、落款が蛸に似ていたため「たこ風外」と呼ばれた。弘化4年(1847年)6月22日に遷化。安永8年(1779)~弘化4年(1847) 著作に「碧巌録耳林鈔」など。
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風外和尚は説法が上手だったことで人々から慕われたようですが、歴史的にはむしろ画僧としての評価のほうが名高いのはご存知の通りです。
仏画を描くことで、仏に込められた想い、言葉では表現できない想いを人々に伝えたいとの願いがあったとも言われています。
風外本高の説法にひとつに下記の著名なものがあります。
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説法のひとつ:虻と障子の話
風外和尚がまだ大阪に住していたころ、寺院はだいぶ荒廃が進んでいた。障子もところどころ破れており、すきま風が入ってくるような状況だった。そんなある日、部屋のなかに一匹の虻が迷い込んできた。虻は外に出ようと障子へ頭をぶつけるのだが、なかなか障子を通り抜けることができない。すぐ隣に破れた箇所がいくつもあるのだが、よりによって破れていないところばかりに頭をぶつけて外に出られないでいる。
風外和尚はしばらくその虻を眺めた。そして思った。ちょっと身を引いて、一歩後ろに下がって、広い眼で辺りを見渡してみれば、外へ出る道をすぐに見つけることができるにも関わらず、虻にはそれができない。自分の目の前のことしか見えておらず、視野が極端に狭いのだと。何度も障子に頭をぶつけ続けて、出口がわからずにひたすらもがいている。
これは何も虻に限った話ではない。人間だって同じだ。怒りで頭に血が上っているときや、思い込みで視野が狭まっているときなど、人もこの虻と同じように出口を見つけることができずにもがくことがある。 一歩だけでいいから下がって、冷静に辺りを見渡すだけでいいのに。それから風外和尚は、悩み事を相談されたときや喧嘩の仲裁に入ったときなど、様々な場でこの虻と障子の話を例えに解決の道を示した。
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自分のことしか考えない御仁は 一歩下がって、冷静に辺りを見渡すことができないようです。よくいますね、最近も会いました。上から目線の御仁・・・、こういう御仁は相手にしないことです。
風外本高は例え話によって当人が、自分で自分の過ちと正しい道とに気付けるよう、そっと導いてきたのでしょう。
資料の印章や落款には下記の写真があります。簡単な印章や落款ですが、一致していると判断していいでしょう。
ま~、ともかく美術館や画集以外では初めてお目にかかる画家の作品です。ともかく勉強、勉強・・・。
近所の公立の学校ですので、通学も歩いていけますし、何と言っても校庭が広いのがいい!
さて本日紹介する作品は風外本高らしき作品・・、風外本高の作品は仙厓の作品とともに当方では蒐集は避けてきたように思います。洋画でいうと鈴木信太郎みたいなもの・・。どこがいいのか分からない・・・。しかも贋作が多い・・・。逆にこのような作品を直感で購入するようになったということは我ながら進歩したのかもしれません?
浅絳山水図 伝風外本高筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1950*横420 画サイズ:縦1320*横298
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風外本高:(ふうがい ほんこう)俗名:東泰二、安永8年(1779年)~弘化4年6月22日(1847年8月2日))。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶。
安永8年(1779年)に伊勢国度会穂原村押渕(現在の三重県南伊勢町)に、東孝助の次男として生まれる。幼名は泰二。別号、好幽。
天明6年(1786年)に地元の圓珠院で安山泰穏につき出家し、ついで松坂にある薬師寺の大愚霊智に学ぶ。19歳のとき峻烈な禅風で「狼玄楼」として名高い但馬国龍満寺の玄樓奥龍に師事して、その法嗣となる。風外本高の名前も、この時市から与えられた。
興聖寺(宇治市)にも従って移動。 34歳で出雲国徳林寺開山となり、文政元年(1819年)に摂津国圓通院も開き、次いで54歳のとき三河国香積寺25世となった。諸岳奕堂、原坦山、環溪密雲など、洞門の俊英を輩出した。後に摂津国烏鵲楼に引退した。
一方で画を月僊、池大雅に学び、画僧としても知られ、池大雅の書画に私淑し、落款が蛸に似ていたため「たこ風外」と呼ばれた。弘化4年(1847年)6月22日に遷化。安永8年(1779)~弘化4年(1847) 著作に「碧巌録耳林鈔」など。
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風外和尚は説法が上手だったことで人々から慕われたようですが、歴史的にはむしろ画僧としての評価のほうが名高いのはご存知の通りです。
仏画を描くことで、仏に込められた想い、言葉では表現できない想いを人々に伝えたいとの願いがあったとも言われています。
風外本高の説法にひとつに下記の著名なものがあります。
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説法のひとつ:虻と障子の話
風外和尚がまだ大阪に住していたころ、寺院はだいぶ荒廃が進んでいた。障子もところどころ破れており、すきま風が入ってくるような状況だった。そんなある日、部屋のなかに一匹の虻が迷い込んできた。虻は外に出ようと障子へ頭をぶつけるのだが、なかなか障子を通り抜けることができない。すぐ隣に破れた箇所がいくつもあるのだが、よりによって破れていないところばかりに頭をぶつけて外に出られないでいる。
風外和尚はしばらくその虻を眺めた。そして思った。ちょっと身を引いて、一歩後ろに下がって、広い眼で辺りを見渡してみれば、外へ出る道をすぐに見つけることができるにも関わらず、虻にはそれができない。自分の目の前のことしか見えておらず、視野が極端に狭いのだと。何度も障子に頭をぶつけ続けて、出口がわからずにひたすらもがいている。
これは何も虻に限った話ではない。人間だって同じだ。怒りで頭に血が上っているときや、思い込みで視野が狭まっているときなど、人もこの虻と同じように出口を見つけることができずにもがくことがある。 一歩だけでいいから下がって、冷静に辺りを見渡すだけでいいのに。それから風外和尚は、悩み事を相談されたときや喧嘩の仲裁に入ったときなど、様々な場でこの虻と障子の話を例えに解決の道を示した。
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自分のことしか考えない御仁は 一歩下がって、冷静に辺りを見渡すことができないようです。よくいますね、最近も会いました。上から目線の御仁・・・、こういう御仁は相手にしないことです。
風外本高は例え話によって当人が、自分で自分の過ちと正しい道とに気付けるよう、そっと導いてきたのでしょう。
資料の印章や落款には下記の写真があります。簡単な印章や落款ですが、一致していると判断していいでしょう。
ま~、ともかく美術館や画集以外では初めてお目にかかる画家の作品です。ともかく勉強、勉強・・・。