はてさて、まだ残暑が厳しい折、体力を無くさないように体調管理に気を配る毎日です。
昨日は仕事で客先に前でプレゼンテーションを実施・・、私は冒頭の挨拶のみでしたが、説明内容の評価はなかなか良かったようです。担当者は皆、がんばりましたから・・。
コストだけでなくこのように提案の内容や我々の真摯な姿勢を評価していただき、一緒にものづくりを出来るパートナーを選ぶお得意様が増えて欲しいものです。そのためには我々も日々、自己研鑽が必要です。
本日は田能村竹田の作品です。ひさしぶりに出かけた出光美術館で「文人画」という展覧会の時に出版された画集を見つけ、その中に田能村竹田の「果蔬草虫図巻」の作品があり、思わず本作品を思い出しました。
田能村竹田の絵は本当に贋作が多いです。中にはプロでも全く判断がつかない作品まであるようです。帆足杏雨という弟子が描いた作品に落款を細工して「竹田」の銘を入れてたら、解らないと聞いています。
以前に投稿した田能村竹田の作品は下記のものがあります。
その1
畢風飲中易図 伝田能村竹田筆絹装軸水墨紙本箱入 田能村直入鑑題
その2
蒲池勇魚漁図 伝田能村竹田筆絹装軸水墨紙本箱入 画サイズ:411*276
以上の2作品を投稿しましたが、もう一作品ありました。一時期、田能村竹田の作品を探したことがあり、いくつかを購入しましたが、今では判別は諦め、贋作と判断したものは処分しました。以上の3作品のみ手元においてあります。
初めて購入した南画が田能村竹田の養子にあたる田能村直入の作品であったことから思い入れが強かったと思っています。
そこから青木木米や高橋草坪への収集がつながっています。迷路に迷い込んだようなところがありますが、今では非常に勉強になっています。
本作品を手元に残した理由は表具の補修跡にあります。掛け軸の裏側を見てみると折れの補修の跡がたくさんあります。今ではここまで補修してくれる表具屋さんがいるかどうか・・。
」
透かして見るとよくわかります。よく骨董店で掛け軸を透かして見る人がいますが、このようなことはお店のご主人によく理由を説明してから行わないと失礼にあたります。
秋果実 田能村竹田筆
絹装軸水墨紙本箱入
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横
おっと、寸法はまた計測し忘れました。
賛には「壬午初秋写□竹田荘□居 田憲」とあり文政5年(1822年)、田能村竹田が45歳頃の作品ということになります。
今も竹田市の街並みを見下ろす高台に残る竹田荘(ちくでんそう)は、1790年(寛政2年)、竹田が画業に専念するために建てた物です。
田能村竹田:安永6年から天保6年(1777年~1835年)。名は孝憲、字は君彜。号は竹田・九畳仙史・藍水・狂客。豊後の直入郡竹田村に岡田藩の侍医硯庵の次子に生まれ、渡辺逢島などに画を学んで享和元年(1801年)に江戸に出て谷文晃について帰郷して同藩に仕えたが文化9年(1812年)に辞して京阪の間を往来して大阪で没した。一般の南画家とは異色のある画風で、明清風を翻案した独特の技法による着色の花鳥山水画に特色がある。学問書画に通じて当時の典型的な文人の性格と生活者であったので、その指導影響力が大きく、絵画と供にそこに彼の盛名があった。「山中人饒舌」や「竹田荘師友画録」の著は文人画論中の代表作である。
1784年(天明4) 父・けん庵手医師に進む。
1777年(安永6) 竹田で田能村家の七代目としてうまれる。
1787年(天明7) 磯吉(竹田)、藩校由学館に入学する。(11歳)
1788年(天明8) 磯吉,玄乗(竹田)と改名する。父・けん庵に変わり、医師に進む。(12歳)
1795年(寛政7) 玄乗(竹田)、嫡子となる。(17歳)
1798年(寛政10) 玄乗(竹田)、由学館出勤を命じられる。(22歳)
唐橋君山に「豊後国志」編纂の命が下り、玄乗(竹田)が御用掛を命じられる。
1800年(寛政12) 玄乗を行蔵(竹田)と改名する。
唐橋君山没す。(65歳)
1801年(享和1) 「豊後国志」編纂の最終作業のため江戸へ行く。
1803年(享和3) 父・けん庵没す。行蔵(竹田)、家督を相続する。26歳
1804年(文化1) 4月「填詞図譜」自序成る。
7月「豊後国志」を藩主が内覧。8月幕府に納本する。
1805年(文化2) 京都遊学が許可される。
1806年(文化3) 1月「填詞図譜」小令の部2冊が刊行される。 3月村瀬こう亭に入門。
1808年(文化5) 1月臼杵藩士安東吉太夫妹・さだと結婚する。行蔵(竹田)32歳
2月竹田荘に茶室をつくり、庭に池、損亭を築く。
12月太一郎生まれる。
1811年(文化8) 岡藩に百姓一揆起こる。二度目の京遊に出発する。 大阪・持明院で頼山陽と会う。
1812年(文化9) 恵良村・衛藤賢需、田能村家の養子と、なり、田能村賢需となることを了承する。
1813年(文化10) 行蔵(竹田)の隠居が聴許される。
1814年(文化11) 京都遊学が許可される。
太一郎が行蔵(竹田)養子「賢需」の順養子を聴許される。
1818年(文政1) 養子「賢需」隠居し、太一郎の家督相続が許可される。太一郎、太一と改名。
頼山陽来竹し、竹田荘に宿す。7日滞在し、「卜夜快話」をつくる。
1819年(文政2) 洗竹荘茶会
1820年(文政3) 雲華訪れる。
1822年(文政5) 伊藤鏡河宅で詩会。
衛藤賢需没す。(59歳)
1829年(文政12) 竹田荘茶説を作る。伊藤鏡河没す。(78歳)
1832年(天保3) 末広雲華来訪。印譜を作る。頼山陽没す。
1833年(天保4)) 竹田荘師友画録を作る。
1834年(天保5)) 大塩平八郎に会う。
1835年(天保6) 「山中人饒舌」刊行、田能村行蔵(竹田)没す。(59歳)
古いものを後世に伝えるためにはいくつかの技術、知恵が必要です。修復、保存など古くから伝わる知恵、新しい技術、そういうものもまたものづくりの技術と言えるのでしょう。
昨日は仕事で客先に前でプレゼンテーションを実施・・、私は冒頭の挨拶のみでしたが、説明内容の評価はなかなか良かったようです。担当者は皆、がんばりましたから・・。
コストだけでなくこのように提案の内容や我々の真摯な姿勢を評価していただき、一緒にものづくりを出来るパートナーを選ぶお得意様が増えて欲しいものです。そのためには我々も日々、自己研鑽が必要です。
本日は田能村竹田の作品です。ひさしぶりに出かけた出光美術館で「文人画」という展覧会の時に出版された画集を見つけ、その中に田能村竹田の「果蔬草虫図巻」の作品があり、思わず本作品を思い出しました。
田能村竹田の絵は本当に贋作が多いです。中にはプロでも全く判断がつかない作品まであるようです。帆足杏雨という弟子が描いた作品に落款を細工して「竹田」の銘を入れてたら、解らないと聞いています。
以前に投稿した田能村竹田の作品は下記のものがあります。
その1
畢風飲中易図 伝田能村竹田筆絹装軸水墨紙本箱入 田能村直入鑑題
その2
蒲池勇魚漁図 伝田能村竹田筆絹装軸水墨紙本箱入 画サイズ:411*276
以上の2作品を投稿しましたが、もう一作品ありました。一時期、田能村竹田の作品を探したことがあり、いくつかを購入しましたが、今では判別は諦め、贋作と判断したものは処分しました。以上の3作品のみ手元においてあります。
初めて購入した南画が田能村竹田の養子にあたる田能村直入の作品であったことから思い入れが強かったと思っています。
そこから青木木米や高橋草坪への収集がつながっています。迷路に迷い込んだようなところがありますが、今では非常に勉強になっています。
本作品を手元に残した理由は表具の補修跡にあります。掛け軸の裏側を見てみると折れの補修の跡がたくさんあります。今ではここまで補修してくれる表具屋さんがいるかどうか・・。
」
透かして見るとよくわかります。よく骨董店で掛け軸を透かして見る人がいますが、このようなことはお店のご主人によく理由を説明してから行わないと失礼にあたります。
秋果実 田能村竹田筆
絹装軸水墨紙本箱入
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横
おっと、寸法はまた計測し忘れました。
賛には「壬午初秋写□竹田荘□居 田憲」とあり文政5年(1822年)、田能村竹田が45歳頃の作品ということになります。
今も竹田市の街並みを見下ろす高台に残る竹田荘(ちくでんそう)は、1790年(寛政2年)、竹田が画業に専念するために建てた物です。
田能村竹田:安永6年から天保6年(1777年~1835年)。名は孝憲、字は君彜。号は竹田・九畳仙史・藍水・狂客。豊後の直入郡竹田村に岡田藩の侍医硯庵の次子に生まれ、渡辺逢島などに画を学んで享和元年(1801年)に江戸に出て谷文晃について帰郷して同藩に仕えたが文化9年(1812年)に辞して京阪の間を往来して大阪で没した。一般の南画家とは異色のある画風で、明清風を翻案した独特の技法による着色の花鳥山水画に特色がある。学問書画に通じて当時の典型的な文人の性格と生活者であったので、その指導影響力が大きく、絵画と供にそこに彼の盛名があった。「山中人饒舌」や「竹田荘師友画録」の著は文人画論中の代表作である。
1784年(天明4) 父・けん庵手医師に進む。
1777年(安永6) 竹田で田能村家の七代目としてうまれる。
1787年(天明7) 磯吉(竹田)、藩校由学館に入学する。(11歳)
1788年(天明8) 磯吉,玄乗(竹田)と改名する。父・けん庵に変わり、医師に進む。(12歳)
1795年(寛政7) 玄乗(竹田)、嫡子となる。(17歳)
1798年(寛政10) 玄乗(竹田)、由学館出勤を命じられる。(22歳)
唐橋君山に「豊後国志」編纂の命が下り、玄乗(竹田)が御用掛を命じられる。
1800年(寛政12) 玄乗を行蔵(竹田)と改名する。
唐橋君山没す。(65歳)
1801年(享和1) 「豊後国志」編纂の最終作業のため江戸へ行く。
1803年(享和3) 父・けん庵没す。行蔵(竹田)、家督を相続する。26歳
1804年(文化1) 4月「填詞図譜」自序成る。
7月「豊後国志」を藩主が内覧。8月幕府に納本する。
1805年(文化2) 京都遊学が許可される。
1806年(文化3) 1月「填詞図譜」小令の部2冊が刊行される。 3月村瀬こう亭に入門。
1808年(文化5) 1月臼杵藩士安東吉太夫妹・さだと結婚する。行蔵(竹田)32歳
2月竹田荘に茶室をつくり、庭に池、損亭を築く。
12月太一郎生まれる。
1811年(文化8) 岡藩に百姓一揆起こる。二度目の京遊に出発する。 大阪・持明院で頼山陽と会う。
1812年(文化9) 恵良村・衛藤賢需、田能村家の養子と、なり、田能村賢需となることを了承する。
1813年(文化10) 行蔵(竹田)の隠居が聴許される。
1814年(文化11) 京都遊学が許可される。
太一郎が行蔵(竹田)養子「賢需」の順養子を聴許される。
1818年(文政1) 養子「賢需」隠居し、太一郎の家督相続が許可される。太一郎、太一と改名。
頼山陽来竹し、竹田荘に宿す。7日滞在し、「卜夜快話」をつくる。
1819年(文政2) 洗竹荘茶会
1820年(文政3) 雲華訪れる。
1822年(文政5) 伊藤鏡河宅で詩会。
衛藤賢需没す。(59歳)
1829年(文政12) 竹田荘茶説を作る。伊藤鏡河没す。(78歳)
1832年(天保3) 末広雲華来訪。印譜を作る。頼山陽没す。
1833年(天保4)) 竹田荘師友画録を作る。
1834年(天保5)) 大塩平八郎に会う。
1835年(天保6) 「山中人饒舌」刊行、田能村行蔵(竹田)没す。(59歳)
古いものを後世に伝えるためにはいくつかの技術、知恵が必要です。修復、保存など古くから伝わる知恵、新しい技術、そういうものもまたものづくりの技術と言えるのでしょう。