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本日、紹介する作品は山名文夫による広告の原画とされている作品ですが、真偽のほどは不明です。山名文夫は元多摩美術大学教授で日本のグラフィックデザインの草分けの一人とされます。1897年(明治30年)7月17日、広島県広島市に生まれ、1980年(享年82歳)に没しています。
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資生堂デザイン画 山名文夫筆
紙本着色額装
画サイズ:縦340*横455
入手時には額がなかったので、サイズの合う(P8号)額をインターネットオークションで入手して誂えています。
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山名文夫は資生堂との関りの深いデザイナーとして有名ですね。
2007年(平成19年)、世田谷美術館に山名文夫の成城時代のアトリエが再現され、会期を終え解体された有名な資生堂の「花椿マーク」は、意匠部を創設した福原信三が原案を起こし、山名が最終的に完成させたものとされます。
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山名文夫が資生堂在職中はもちろん、資生堂退社後も、顧問や宣伝部制作室長として、資生堂の一連の仕事を行い、繊細な女性美を表現しています。資生堂のイメージアップに貢献し「資生堂スタイル」のデザインを確立しています。
1974年(昭和49年)には、主要な漢字と、ひらがな・カタカナ、欧文アルファベットの書体(タイプフェイス いわゆる、資生堂書体)の手引書を作成していています。資生堂の新入社員のデザイナーは現在も、この手引書をもとに、必ず先輩の指導で、1年間手書き練習して身につけるとされます。
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山名文夫は少年期から竹久夢二や北野恒富、オーブリー・ビアズリーに憧れ、模写に没頭。
旧制・和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)後、1916年(大正5年)、大阪へ出て、赤松麟作が主宰する「赤松麟作洋画研究所」第2期生となり、絵画を学んでいます。同研究所の第1期生にはなんと佐伯祐三がいました。
20歳になる1917年(大正6年)、同人誌『Chocolate』(チョコレート)に加わり、夢二や北野、ビアズリーらの絵に影響を受けた作品や詩を発表しています。
1923年(大正12年)、「クラブ化粧品」で知られる大阪の化粧品会社・中山太陽堂が併設する出版社「プラトン社」に入社し、図案家として雑誌『女性』や『苦楽』の表紙装丁やカットなどに腕をふるっています。同期入社のデザイナーには山六郎、編集者にはのちに小説家となる直木三十五(当時「直木三十二」)、川口松太郎の2人がいたそうです。
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1928年(昭和3年)、プラトン社を退社、翌1929年(昭和4年)、東京・新橋の化粧品会社・資生堂の意匠部に入社します。プラトン社で培われた実力がここで花開き、アール・デコ調の「モダン・ガール」を資生堂広告紙上で完成させてゆきます。西洋のものまねや技術の習得に終始していた修練を終え、大正期の日本に、女性をめぐって起こりつつあった新風俗や新文化にいち早く呼応して、それを目に見えるかたちに置き換えます。
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1931年(昭和6年)、34歳になるころ資生堂を退社し、「東京広告美術協会」を設立。
1933年(昭和9年)、写真家の土門拳、藤本四八、グラフィックデザイナーの河野鷹思、亀倉雄策らとともに、写真家の名取洋之助の第2次「日本工房」に参加し、雑誌『NIPPON』のレイアウトなどを行う。このころ、熊田五郎が山名に師事し、ともに『NIPPON』のデザイン等に従事しています。
1936年(昭和11年)、「日本工房」を退社して資生堂に戻り、
1939年(昭和14年)、東京市世田谷区成城町392番地(現在の東京都同区成城6丁目)に自宅兼アトリエを開きます。資生堂には1943年(昭和18年)まで在籍しています。
その後、森永製菓の新井静一郎らとともに「報道技術研究会」(報研)にも参加。戦意高揚を図る国策宣伝のデザインに携わり、戦争遂行に協力することになっていったようです。
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1945年(昭和20年)、48歳で第二次世界大戦の終戦を迎え、
1947年(昭和22年)から1967年(昭和42年)まで、多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)の図案科教授を務めた。
1948年(昭和23年)、三度目の資生堂への復帰。
1951年(昭和26年)、亀倉雄策、早川良雄らと「日本宣伝美術会」(日宣美)を設立、初代委員長に就任した。
1965年(昭和40年)には、日本デザイナー学院を設立し、初代学院長を務めた。同年12月、世田谷区成城の自宅兼アトリエを閉じ、終生の住まいとなる多摩市桜ヶ丘に転居。
1967年(昭和42年)、勲四等瑞宝章を受章。
1969年(昭和44年)、72歳のとき、資生堂の宣伝部制作室長を辞任しています。
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資生堂の「花椿マーク」(原型は福原信三)や「de Luxe」(ドルックス)の唐草模様のほか、スーパーマーケットの「紀ノ国屋」のロゴ(1953年)、新潮社の「新潮文庫」の葡萄マーク(1950年)のデザインも手がけています。
1980年(昭和55年)1月14日、死去する。82歳没。
山名は愛煙家で、缶ピースを好んだそうです。亡くなるまで資生堂とかかわり、現役デザイナーとして活躍しました。没後、日本宣伝賞委員会(日本宣伝クラブ)が、その年業界の隆盛に功績のあったクリエーターに贈る「日本宣伝賞山名賞」を創設しています。
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遡ると、大阪にあるプラトン社の社主、中山豊三というユニークな経営者が、大正11(1922)年に中山太陽堂のクラブ化粧品宣伝の母体として月刊婦人雑誌『女性』を創刊しており、山名文夫は新聞でプラトン社の図案家募集広告を見て応募し、洋画仲間の井上敏行の紹介で山六郎に絵をみてもらい、入社がきまったとされます。
山名の入社の翌年、大正12(1923) 年9月に起きた関東大震災は日本の文芸界に大きな異変をもたらします。東京主体の文芸誌が一時壊滅状態になり、谷崎潤一郎をはじめとする数多くの新人作家がこぞって寄稿したため、関西の『女性』は一時文芸界の中心的存在となったことです。
山名文夫は『女性』では扉絵・カット・広告ページなどを主に担当しましたが、この頃の作品であろうと推察されます。プラトン社は大正15(1926)年12月、東京へ移って、丸の内ビル4階に本社を置きましたが、昭和3(1928)年には、プラトン社の経営がうまくいかなくなり、会社を辞任(解散)します。その後に山名は資生堂社長福原信三の説得に応じて、昭和4(1929)年東京に戻り資生堂に入社することになります。
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過酸化水素キューカンバー:資生堂の美白化粧品の歴史は、白粉(おしろい)で肌を白く見せる行為が大半だった大正6年、肌そのものに働きかける「過酸化水素キューカンバー」の発売からはじまりました。
参考作品解説(上記作品と同時にネットオークションに出品)
資生堂デザイン画 山名文夫筆
「大正12年」額裏書あり 紙本着色額装
画サイズ:縦370*横370
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(拭き取り化粧水の)オイデルミン:発売は1897年(明治30年)、資生堂初の化粧水。
この作品も山名文夫が『女性』は扉絵・カット・広告ページなどを主に担当していた頃に描いた作品ではないかと推測しています。
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インターネットオークションで見つけた額に入れた額装が仕上がってきました。
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額もリサイクル・・・・・
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