夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

初挑戦 再興九谷 小野窯 青絵水注

2021-06-25 00:01:00 | 陶磁器
処分予定の作品を再度見直すことはよくあります。最近は新たな蒐集を控えていますので、見直す機会(作品)が増えていますが、下記の作品もそのひとつです。



五位鷺 伝荒木十畝筆
絹本着色 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦1212*横549 画サイズ:縦329*横407



この作品を投稿したブログには下記のコメントがありました。
「こちらのブログに掲載されている十畝の2作品(本作品とは別の作品で「白梅図」という作品と合わせて2作品→「白梅図」は贋作と当方でも判断)は、残念ながらどちらも贋作だと思います…。絵柄や落款は似せていますが、明らかに下手です。私はただの花鳥画好きでプロではありませんので断言はできませんが、信頼できる所で見てもらっては如何でしょうか?」(コメント名は「通りすがり」・・・一般的にですが、「通りすがり」というようなコメント名は失礼なクレームに多いようです。)



当方では基本的にこのような指摘のあるブログは意見を尊重して、「伝」という真贋不明の作品も含めてその作品の公開を中断し、作品を再度吟味することにしています。



他の方の意見というのは当方ではかなり尊重しており、そのような疑いのある作品は処分することが多くなります。本作品も処分予定でした。



なおこの作品の落款などは下記のとおりです。



今まで処分してしまうかどうかは保留にしている作品です。

  

はてさて・・・???? 四条派は近代でも流派の画家の数が多く、それ相応の力量を持った画家の贋作が多いので要注意ではありますね。なおこの後リベンジということではありませんが、荒木十畝の真作と判断される作品を2作品ほど入手しています。当方は意外にあきらめが悪いのかもしれません・・。

さて本日はなんとなく興味を惹かれて入手した陶磁器の作品の紹介です。調べていくと古九谷を再興した吉田窯や若杉窯の流れをくむ再興九谷の窯をさらに再興した?小野窯という窯の作品のようですが、正直なところ当方はその方面の陶磁器には至って知識が乏しく確かなことはよく分かりません。



少し調べてみましたので、作品を紹介しながら投稿させていただきます。



再興九谷 小野窯 青絵水注
谷口𠮷次郎鑑定箱
幅180*奥行*外口径*高台径*高さ200



よくある水注の形の作品ですが、色絵の水注では中国古陶磁器には優品があるのですが、日本の作品ではあまりいい作品はないというイメージがありますね。特に九谷の作品というと華奢で派手な赤絵というイメージですね。



この作品に惹かれたのは、その形のバランスの良さと絵付けの趣味の良さです。ちょっと変形していますが、古いこの手の形の作品はまったく変形しないで焼成するのは至難の業ですのでいたしかたないのでしょう。



この手の作品は箱書きのあるように「小野窯」というところで焼成された作品のようです。



「小野窯」・・?? 九谷焼に詳しくない小生には初めての作品の窯です。



箱に同封されて記事もありましたが、資料の記事を調べてみました。

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古九谷廃窯から約100年をへた文化4年(1807)、加賀藩は京都から名工・青木木米を招き、金沢の卯辰山山麓に春日山窯を開きます。その後、小松で後に加賀藩の支配下に置かれた若杉窯、郡奉行の援助を受けた小野窯、名陶工としてはせた源右衛門による粟生屋源右衛門窯、その源右衛門に師事した松屋菊三郎による蓮代寺窯が、さらに加賀では古九谷窯跡で開窯して後に山代に移った吉田屋窯、吉田屋窯を受継いだ宮本屋窯など、また金沢においても春日山窯の系譜を継ぐ民山窯と、数多くの名窯が開かれています。

小野窯:文政2年(1819)、本多貞吉の没後に再興古九谷の窯である若杉窯を辞してきた薮六右衛門が能美郡小野村(現小松市小野町)で始めた窯です。六右衛門は若杉窯で本多貞吉から陶法を学びました。近村の埴田・八幡・本江などの陶土を用いて製陶を始めましたが、良い素地を作ることができなかったといわれます。文政5年(1822)、郡奉行の援助を受けて徐々に事業も軌道に乗り、天保元年(1830)、同郡鍋谷村に良質の陶石を発見してから、素地の改良を図って良品を生産することができるようになりました。こうして、天保年間に、当時の名工を客分の主工として迎えいれ、最盛期を迎えました。再興九谷を再興した窯となります。



本多貞吉:青木木米が京に戻った後も、本多貞吉は春日山窯に残り作陶を続けながら、加賀で磁器生産の機運が広まるのを知って、自らの経験を活かし、磁器の大量生産に必要な豊富で良質の陶石を探し求めました。ついに、貞吉は、能見郡花坂村六兵衛山で見つけ、この場所から近いところで磁器を生産することになりました。貞吉は、若杉村で瓦を焼いていた林八兵衛からの招きを受け、そこに本窯を築くことになりました。

この若杉窯は、初めて加賀において磁器を量産化し、加賀藩の殖産興業の柱となった窯になり、また、花坂陶石は、今も九谷焼の素地作りのために使用される重要な原料となっています。この貞吉の功績は大きく、次々に諸窯を興すことになりました。おのずから、若杉窯では、大量生産に必要な陶工が藩の内外から集まようになり、木米ができなかった、加賀での色絵磁器の生産工場の実現を追い求めることになりました。ですから、作品には、染付のほかいろいろな作風の色絵磁器が見られます。

 また、吉田屋窯によく似た色絵磁器を制作することもできました。これは、貞吉が未だ十代後半であった粟生屋源右衛門の能力を見出し、釉薬の研究を源右衛門に任せるといった洞察力が貞吉にあったからといえます。

 さらに、この若杉窯で活躍した多くの陶工の中からは、若杉窯の後に続いた再興九谷の諸窯で活躍する陶工が輩出され、彼らはここで培った製陶の技能を持って各窯で活躍しました。小野窯を開いた薮六右衛門、佐野窯を開いた斉田伊三郎、蓮代寺窯を開いた松屋菊三郎、寺井で錦窯を開いた九谷庄三、埴田で窯元を創めた山元太吉などがそうでした。

薮六右衛門:若杉窯で本多貞吉から陶法を学び、粟生屋源右衛門とは兄弟弟子の間柄で、若杉窯では陶工として活躍しましたが、文政2年(1819)、貞吉が歿すると、小野村で窯を開きました。六右衛門自ら白瓷や青華瓷を作り、窯の経営の面では、九谷焼の窯としては初めて、自家使用以外の素地も生産販売し、また、源右衛門などを客分の主工として招いて優品を作るなど、、この窯の名声を高めることに経営手腕を発揮したといわれます。

粟生屋源右衛門:粟生屋源右衛門は、若杉窯において本多貞吉のもと製陶の技能を習得することに励み、若くして主工を務めるようになりましたが、貞吉の教えを受けながら、後に「青九谷」と呼ばれる九谷焼の様式を研究し続けました。貞吉の歿後も、古九谷の再興を目指し続け、父から受け継いだ楽焼の陶技、若杉窯で貞吉から指導を受けた色釉薬の調合技術や錦窯の焼成技術を磨き、遂に、古九谷の再興において大いに貢献をした陶工の一人となりました。そして、源右衛門の門下生の中から、九谷庄三、松屋菊三郎、北市屋平吉(金沢藩主前田家のお抱えの九谷焼絵師 号 北玉堂)、板屋甚三郎(小野窯の陶工となる)などの多くの名工が輩出され、彼らもまた九谷焼の発展に貢献しました。

本ブログにて作品が紹介されてる九谷庄三もまた関係しているようですね。

秋花紋様鉢 九谷庄三作
合箱
口径*高台径*高さ(未測定)



再興九谷は古九谷の技法を受継ぎながらも、それぞれの窯の指導者によって新しい作風がうち立てられています。青木木米は全面に赤をほどこし、人物を五彩で描く中国風を確立しています。吉田屋窯は赤を使わず、主文様に地文様を配して上絵具を塗り重ねた重厚さが特徴です。さらに、宮本屋窯は赤で綿密に人物を描き、周囲を小紋などで埋め尽くす飯田屋風、永楽窯は全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色する永楽風と、多彩な画風が生まれています。なかでも一挙に九谷焼の名を高めたのが、江戸時代末期に現れた九谷庄三の庄三風です。現在、九谷焼というと派手な庄三風を思い浮かべる人が多いことからもその影響力の大きさがうかがえますね。



九谷庄三:九谷庄三は、文化13年(1816)、能美郡寺井村(現、能美市寺井町)の農業茶屋の子として生まれました。幼名は庄七といい、庄三と改めたのは嘉永年間(1848ー1854)頃で、九谷姓を名のるようになったのは明治に入ってからといわれます。

庄三は、再興九谷の諸窯からの招きを受け、陶工として手腕を発揮しましたが、自ら窯元とならず、若くして着画を専業とする工房と錦窯を寺井村に開きました。その理由は、すでに肥前や瀬戸では素地作りと着画のそれぞれの専業化が大量の需要に対応できる生産方式として普及していることを知り、当時、加賀の他の地域に先駆けて能美で始まっていた分業化の時流に乗ったと考えられます。この方式は斉田伊三郎(道開)によっても行われ、隣の佐野村にも波及し、能美九谷の飛躍にとって大きな原動力となりました。

明治期に入り、着画を専業とする庄三の工房はますます多くの陶工を抱える工房となり、素地を大量生産する本窯と協業して、九谷焼による殖産興業を推進させました。庄三は実業家としてもその役割を大いに果たし、産業工芸としての九谷焼の産業基盤を築くことに大きく貢献しました。工房の作品は「庄三風」の精緻な上絵付が施され、明治九谷の中核をなすものとなりました。それらは貿易商人によって大量に輸出され、明治期の我が国貿易品として海外で大変好まれ、あわせて国内でも販路を拡げました。

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紹介された作品は上述の陶工の誰が作ったかは定かではないし、誰でもないかもしれませんが、赤絵ではなくどちらかというと吉田屋窯に近い作風ですね。



高台内には「福」という銘があります。



注ぎ口にはちょっとした補修の跡があります。



小野窯の作品は初期には吉田屋にならい、赤の絵の具は使用せず、後期は民山窯の絵師が指導にあたり赤絵細文の文様を描くようになったそうです。

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民山窯は、文政5年(1822)、加賀藩士 武田秀平が金沢に興した窯です。美術工芸品を愛でる秀平は、青木木米が京に戻ってのちも春日山窯が木米好みの呉須赤絵や日用雑器の染付を焼き続けいたものの、やがて閉じられたことを惜しみ、春日山窯を再興することを思い立ったといわれます。これより3年後に吉田屋伝右衛門が古九谷の伝世品を見て再興の思いに至ったのと同じように、一介の藩士が陶業を興したその情熱は相当のものであったといえます。

本窯は、春日山窯の本窯を復興したのか、春日山の秀平自身の持地に新築したのか定かでないのですが、錦窯は金沢の里見町の自邸に数基を築きました。秀平は器種を考えることを行い、多数の職工・徒弟を抱えて、天保年間(1830~1843)、大いに生産し、製品は広範囲にわたり販売されたようです。この窯の作品が江戸の加賀藩邸の遺物の中からも見つかっております。
 
しかしながら、弘化元年(1844)、秀平が没すると、窯は廃絶しました。

*特色は赤の細描にあり、一部に金彩や色絵の彩色を加え、小野窯を経て宮本屋窯に継承されたようです。

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どうも資料の記述が煩雑ですが、整理すると小野窯の赤絵の作品は春日山窯→民山窯→小野窯→宮本屋窯という系統らしい・・。ともかく九谷の江戸末期以降の窯の歴史は面倒なようです。



本作品に惹かれたひとつがこの青絵ですね。古清水焼の釉薬に似ています。



吉田屋窯の古九谷の雰囲気があり、とても気に入っています。



片面に山水、片面には草花図が品があっていいし、唐草文様もいいですね。



箱書きには下記の記述があります。

 

谷口金陽堂(谷口吉次郎)については資料には下記の記述があります。

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谷口金陽堂:明治8年(1875)、金沢で初代 谷口吉次郎によって九谷焼の店舗として開業されました。他の陶器商人よりかなり遅れて、明治28年(1896)に神戸に支店が設け、輸出に力を入れました。特に、小松の松本佐平・佐太郎親子を招聘したことが谷口金陽堂の業績を拡充させました。

佐平の経営していた松雪堂が、明治30年代の経済恐慌の影響を受けて陶磁器産業にもたらされた不況のため、明治36年(1903)に倒産したとき、初代は、親しくしていた松本佐平・佐太郎の親子に支援の手を差しのべ、谷口金陽堂に招き入れました。これによって、佐平は銘「金陽堂佐瓶造」の作品を谷口金陽堂で制作することを晩年まで続けられ、また佐太郎は谷口金陽堂の経営に参画することになりました。

二代 吉蔵は、なおも、事業を進め、明治41年(1908)以降、たびたび、欧米各国、満州、韓国などを往来して九谷焼の販路拡張に努めました。こうして、松本佐平・佐太郎の親子を通して、谷口金陽堂は、明治43年(1910)、石川県よりイタリア万国博覧会への出品を委託されるなど、九谷焼の名声を上げることに貢献しました。

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箱内には下記の資料も同封されています。



ともかく当方には未知の領域ゆえ資料を整理しないとよく把握できないようです。



近代からの九谷焼は一部の陶工の作品を除き、実に魅力ないものになっていますが、古いものにはその努力が味わいを呼び込んでいる魅力があるようです。



九谷焼の歴史を詳しく調べてみる必要がありそうです。



ちなみに保管用の箱の誂えはとてもいいものす。



古い箱は痛めないように布で包むのがいいでしょう。



とりあえず展示室での展示では後方の藤田嗣治の猫を描いた作品と一緒に愉しんでいます。いずれの作品も「勘」で入手した作品・・。なにやら冒頭の「荒木十畝」の作品から藤田嗣治までを含めて「良さそう」と「勘」がつぶやいています。


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