郷里での年末には息子とスキー・・。小生は40年ぶりのスキーですが学生時代に夢中になっていたので意外に滑れましたが、家内と息子は生まれて初めてだってようで、へっぴり腰・・・。
次の日の大晦日は体中が痛くて寝間着のままのんびりしていたら、母の菩提寺の奥さんが来訪にて大慌て・・。
元旦には亡くなった家内の菩提寺を訪問。住職にお寺を案内していただき、なんと天皇陛下の御位牌まで拝むことに。神仏奨励になごりとか・・。
その後は加納鉄哉の作品を観ながら住職との恒例の骨董談義でしたが、母の菩提寺も、亡くなった家内の菩提寺も同じ宗派(東京も同じ宗派)で、住職が骨董好き・・・、いろいろとお願い事を頼みやすい・・・。
さて本日紹介する作品は「道光年製」と銘のある染付の作品です。
ちょっと時代のある染付になんでもいいから「古染付」と題すればいいというものではありません。本日紹介する作品の箱書きには「南京古染付」とありますが、これは間違いでしょう。「古」は不要でしょうね。
染付山水文鉢 清時代 道光年製銘
景徳鎮窯 清 誂箱(南京古染付と明記)
作品サイズ:幅204*奥行*高さ60
本来の古染付とは明時代末期の天啓年間(1621~27)を中心に景徳鎮民窯で焼成された染付です。特に日本向けの作品とされており、遺例も日本に多いですね。
「新渡り」と呼ばれる清時代の染付に対し、古式に属する古渡りの染付との意味合いで、独特の様式の一群が古染付と独立して呼ばれるようになったいう説もあります。本作品はその「新渡り」の作品でしょうね。
古染付は中国の明朝末期に景徳鎮窯で焼かれた粗雑な染付磁器のことです。古染付の呼称は、日本で近代になってからつけられたもので、江戸時代には本来の古染付は南京染付のなかに含められていたのは事実です。
では「南京古染付」とは・・、中国の染付ということから中国の染付全般を「染付南京」と呼ばれていたのが始まりです。江戸時代後期に、新渡と呼ばれる「清朝染付」が現れたのをきっかけに、初期からの染付南京は「古染付」と呼ばれるようになりましたので、「南京古染付」という分類は存在しないように思いますが、中国で作られた染付ということで「南京染付」というようになったのかもしれません。ただ「南京古染付」というように本作品に「古染付」という題を記するのは間違いでしょう。
ところで古染付は2種に大別されます。
その一つは碗、皿、鉢などの日常食器であり、造りは薄手で、見込にはいかにも飄逸で軽妙洒脱な絵模様が描かれているのが特色です。この手の作品が民窯の良さの出ている本来の「古染付」です。
この絵画風の文様に魅力を感じた江戸初頭の茶人が、好みの茶道具に絵付させて新味を得ようと、景徳鎮窯に水指、花生、向付、鉢、香合などの焼造を注文し、その結果つくられたのが、もうひとつに分類される粗厚で風韻のある古染付です。後者は明の天啓年間(1621~27)に優品の多くが焼造されたようです。
大皿も古染付に分類されていることもありますが、厳密には(古染付)芙蓉手としていると思われます。大皿は兜皿の形状を成すものが多いですがサイズが小さくなるとそうでないものもあります。高台内に銘のあるものとないものとがあります。
本作品の高台内には「道光年製」の銘があります。道光(どうこう)とは、中国清朝後期の皇帝の名及びその治世の年号(1821~1850)のことです。この銘があるのはそれ以降の作品となります。
この時代には景徳鎮民窯に日本の茶人が注文して、過去に日本に将来した中国の茶陶の写しを作らせていたようです。よって茶道具が多いようです。
染付の絵には本来の「古染付」のような軽妙さは見られなくなりました。
虫喰いや砂付き高台という荒々しさも鳴りを潜めています。
本作品の製作時代は道光年製の銘の通り、清朝末期1821~1850年頃(江戸末期)の作品と思われます。「道光年製」という銘はむろん日本の有田の焼き物などでも平気で記しているのでしょう。
よって古染付とされる分類ではありませんね。
古染付を礼賛するのではありませんが、古染付の方が野趣があっていいですね。ただこの時代の作品はこれはこれで味がある・・??
日本の茶人からの注文品もあった清朝末期の染付。当時は講義で中国染付として「南京(古)染付」と称していたのかもしれませんが、少なくても「古染付」と題すると分類から外れてしますことになります。
当時の杉の箱に収納されています。筆ペン皿に良さそうな作品です。