夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

初紹介の陶工 楽焼と九谷焼の二刀流 楽焼上絵山水画盤 栗生屋源右衛門作

2025-01-13 00:01:00 | 陶磁器
男の隠れ家にて年末年始がたいへんなのは神棚・・・。



普段の行いが芳しくないこともあり、神様、仏様に頼ることが多い。



仏壇は西日が入るということもありブラインドを取り付けました。最初は枠の上に付けてしまったことから、板を取り付けてビス穴跡を隠しました。隠すにも仏様や神様に似合うように・・・。

玄関は大黒様。注連縄は例年よりワンサイズ大きめとしました。後ろの絵はなぜかしらワイズバッシュ・・。



廊下に突き当りには福禄寿、神様にはスッポトライト・・・。



観音様には・・・??? 調光付の照明器具が映っています。



いろいろとお世話するとご利益があるかなと・・・下心が見え見え。



「男の隠れ家 その1」にて今年も平穏に正月を向けることができました。



築30年以上は経過していますが、メンテいしいると住みやすいものです。



居住空間は骨董と同じ、メンテが大切。散らかしてはいけませんというのも同じ。




さて「栗生屋源右衛門」という陶工をご存じでしょうか? 古九谷や再興九谷のファンなら御存じの方も多いかもしれませんね。当方ではあまり馴染みのない陶工でしたので、調べてみようと思い入手した作品の紹介です。



雰囲気から楽焼でしょうと推定されますが、形と山水画の絵付けが粋な作品ですね。家内も気に入ったようです。



楽焼と九谷焼の二刀流 楽焼上絵山水画盤 栗生屋源右衛門作
初代徳田八十吉識箱
口径245*高さ80



「栗生屋源右衛門」の陶歴を調べてみると下記の記述のとおりです。

粟生屋 源右衛門(あおや げんえもん)は寛政元年?(1789年)生まれ、安政5年?(1858年)没したたされる江戸時代後期の九谷焼の陶工です。父は源兵衛で東郊と号した楽焼の名工とされます。子に同じく陶工の青木栄五郎がいます。号は父と同じく東郊で、江戸時代に楽焼と九谷焼の二刀流に取り組んだことで有名ですね。



加賀能美郡若杉村の若杉窯の本多貞吉のもとで学び、父の死後、文政5年(1822年)小松の材木町で開窯しています。再興九谷の窯とされる若杉窯では主工を務めています。



その後文政7年(1824年)に本多貞吉の養子清兵衛らと共に吉田屋窯を開窯、同じく主工を務めています。更に蓮代寺窯、小野窯、松山窯などでも指導に当たり再興九谷焼の発展に尽力しました。楽焼系の軟陶を能くし、白土を化粧掛けした上に上絵で彩色した木工品のような硯箱、箪笥、机などの作品があります。



若杉窯において本多貞吉のもとで製陶の技能を習得することに励み、若くして主工を務めるようになりましたが、貞吉の教えを受けながら、後に「青九谷」と呼ばれる九谷焼の様式を研究し続けました。

貞吉の歿後も、古九谷の再興を目指し続け、父から受け継いだ楽焼の陶技、若杉窯で貞吉から指導を受けた色釉薬の調合技術や錦窯の焼成技術を磨き、遂に、古九谷の再興において大いに貢献をした陶工の一人となりました。そして、源右衛門の門下生の中から、九谷庄三、松屋菊三郎、北市屋平吉(金沢藩主前田家のお抱えの九谷焼絵師 号 北玉堂)、板屋甚三郎(小野窯の陶工となる)などの多くの名工が輩出され、彼らもまた九谷焼の発展に貢献しました。



さらに詳細に調べてみました。

源右衛門は、小松に生まれ、父 源兵衛が楽焼を生業としていたので、幼いときから父の傍らで楽焼作りを見て、自然に製陶を習得しました。しかし、文化6年(1809)に父源兵衛が歿したため、それから約2年後、本多貞吉が若杉窯に来たのを知り、貞吉を頼ってその門下に入りました。

源右衛門は、もともと器用な人であったようですが、頭取の貞吉から、窯焚きや釉懸けから修業を始め、出身地 肥前の技法や青木木米ゆずりの京焼系の製陶技術を習得し製陶の技術全般を身に付けました。そして、父から楽焼の釉薬を習っていたこともあり、貞吉から上絵付の絵の具作りを任され、またいろいろな様式の上絵付も担うようになりました。こうして、源右衛門は若くして若杉窯にはなくてならぬ存在となったと考えられます。

*どうも楽焼の技術は父から、絵付は独学のようですが・・・。



このことを示すのが、若杉窯が八幡村に移るまでの若杉窯の作品です。芙蓉手の染付に始まり、祥瑞風のもの、赤絵細描の鉢や瓶などのほか、青手古九谷風の縁・黄・紫・紺青の四彩を用いた塗埋手の一点ものなど、いろいろな作風の色絵の作品が含まれることからわかります。

一方で、若杉窯は、文政10年(1813)に伊万里風の意匠を得意とする三田(赤絵)勇次郎がこの窯にやって来ると、次第にこの窯の作風は変わって行きました。そして、文化13年(1816)、若杉窯の経営が加賀藩郡奉行の直轄に移ると(若杉製陶所と改称される)、窯では藩の殖産興業政策に基づき量産化が進み、そのうえ、文政2年(1819)、窯の頭取である貞吉が歿し、勇次郎が主工となりました。このように、若杉窯が変容する中で、源右衛門は、もはや若杉窯にはそうした研究を続ける条件がなくなったと考え、青手古九谷を踏襲する様式を再現するために、文政3年(1820)、若杉製陶所を辞しました。この前後に、貞吉の養子 本多清兵衛や貞吉の他の門人らもこの窯から離れていきました。



源右衛門は、文政3年(1820)、小松に戻り楽焼の窯を開きました。そこには庄三、甚三郎らがやって来て、白磁の製法の教えを乞いましたが、源右衛門はあえて陶器の着画法を教えたといわれます。それは、なおも、青手古九谷の再現のために上絵付の研究を続けていた源右衛門の製陶への姿勢の現れである、と考えられています。ですから、このころ、清兵衛とともに、かなり離れた大聖寺藩の九谷村まで出向いて素地や顔料となる岩石を探し歩いていたのも、青手古九谷の再現を目指した活動でした。

*栗生屋源右衛門は再興九谷の歴史を語る上では欠かせない陶工であり、知る人ぞ知る陶工の一人で、地元では多くの展覧会が催されています。

 

そうしたころ、源右衛門らは、文政6年(1823)、古九谷を再興することに情熱を持ち続けていた大聖寺の豪商 豊田伝右衛門(四代目)と出会いました。伝右衛門から、すぐにも九谷村での開窯に参加してもらうように依頼されましたので、開窯の準備に入り、翌年、開窯できるところまで漕ぎ着けることができました。しかし、若杉製陶所が加賀藩から支援を受けている窯で、その窯の主工であった源右衛門が大聖寺藩内の吉田屋窯へ無断で参加したことに関し若杉製陶所の管理者の了解を受けていなかったため、小松奉行所からお咎めがあり、源右衛門を至急「若杉陶器所」へ呼び戻すようにとの達書が発せられました。こうしたことからも、当時すでに、28歳の源右衛門がかなりの名工として扱われていたことがわかります。



源右衛門は、文政7年(1824)、吉田屋窯への参加について許しを受けたので、晴れて吉田屋窯の錦窯の主工として迎えられ、吉田屋窯が開かれる運びとなりました。吉田屋窯における源右衛門の月給が三匁であるのに対し、窯の監督者の月給が二匁であったことからも、源右衛門が指導的立場の陶工であったことがわかります。こうして、源右衛門、清兵衛ら多くの陶工によって、吉田屋窯は、源右衛門が長年研究してきた古九谷青手に比肩できるほどの「青九谷」の数々を今に残すことになりました。



九谷焼の陶芸家 北出不二雄(故人)は著書「日本のやきもの 九谷」の中で、源右衛門が九谷焼再興のシンボルとして研究し続けた青手古九谷とはまた趣の異なる吉田屋窯の青手を創り出したと、次のように述べています。「吉田屋窯の絵の具は古九谷よりも一層落ち着いた渋さを持っており、絵具相互が彩度や明るさの点でよく調和していて、」「このような素材的な特質のために、吉田屋窯の製品はどれをとっても美しい。」「青黒んだ素地に、落ち着いた絵の具を厚く盛り上げた吉田屋窯は、そのような素地故に、絵付が素地から離れることはない。」絵の具の調合は熟練の画工の役割でしたから、吉田屋窯の作品に見られる色合いも、源右衛門が清兵衛らの協力のもと、素地と絵の具との調和を繰り替えし試しながら、苦労して見つけ出されたものと考えられます。



天保2年(1831)、吉田屋窯が閉じてから、源右衛門は、能美郡の小野窯や蓮代寺窯、さらに江沼郡の松山窯などで客分の主工として、彼の持てる技術と実績を活かしながら、それらの窯の発展に精力を注ぎました。



源右衛門は、大聖寺藩が嘉永元年(1848)に再び青手古九谷を復興するため、山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村に開いた松山窯へ松屋菊三郎とともに招碑されました。この窯で、源右衛門らは大聖寺前田家が贈答用品などに用いるための「青九谷」系の作品を制作しました。これらの作品は青手古九谷の完成品に近いといれ、その上、菊三郎の手が入っていることから、その作風は古九谷より意匠化され、写実的な絵画を見るような趣を見せています。源右衛門は松山窯と蓮代寺窯の間を通っていたころの文久3年(1863)に歿しました。



以上のように、源右衛門は、青手古九谷の再現に尽くしましたが、父ゆずりの楽陶作りにも晩年まで携わり、多くの優品を残しました。

*本作品はこの頃の晩年の作かもしれませんね。



厳密に言えば、楽陶は九谷焼ではないのですが、その作品は「粟生屋焼」と呼ばれ、称賛されるほど趣のある優品が数多くあります。「粟生屋焼」は、素焼を強く焼きしめた上に白の絵の具で化粧掛けし、絵呉須で模様を骨措きし、青、鼠紫、黄、褐色の彩釉を施して焼成したものです。木工品のような独特の趣のあるのが特色です。これらの作品は晩年10年間余りのものだといわれています。器種は硯箱・文庫・箪笥・炉縁・燭台・卓・花台などがあります。数は少ないものの、自動噴水器や水時計のような珍しい作品も作っています。

下記写真の作品は粟生屋の代表作品で、市指定文化財の「色絵竹林七賢人図木瓜形平卓(もっこがたひらじょく)」と称し、香炉などを置く台のようです。黄色や青など鮮やかな六色で七賢人や竹林が描かれており、脚部は曲線のような形で卓越した造形力と推察します。



さらに下記の写真は現存する粟生屋の唯一の青手九谷とされる大鉢で、重厚で落ち着いた緑や青の色合いが見事な作品です。



*号は父同様「東郊」で、書銘や小判型印あるいは円印が捺されているものもありますが、数多くの作品は無銘です。

本作品は近代九谷の名工、初代徳田八十吉の識箱に収められています。



このブログでも紹介しているように現在は徳田八十吉は4代目となります。初代徳田八十吉の陶歴は下記のとおりです。

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初代徳田八十吉:現・石川県小松市大文字町に生まれる。
(1873年11月20日 - 1956年2月20日)。

吉田屋窯風の作風を得意とした。号は鬼仏。指導者として浅蔵五十吉、二代目、三代目徳田八十吉等を育てる。日本画家を志し荒木探令に絵画を学んだほか、九谷「松雲堂」で義兄松本佐平(佐瓶)に師事、陶芸の道に進み、輸出物の絵付を手伝うが、しだいに古九谷、吉田屋の青手に惹かれ、独立して九谷五彩の研究に没頭、多くの釉薬の開発しています。昭和28年に文化財保護法により国の無形文化財に認定されました。

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初代徳田八十吉による九谷に関する識箱は結構多いようです。

 

箱の書付などが痛まないようにカバーを掛けて、さらに箱が古くて痛んでいるので補修して風呂敷に包んで保管しています。



菓子皿や食器に最高の景色を持つ器ですね。渋みがあって九谷焼には珍しく茶器にも使えますね。



貴重な作品かもしれませんね。






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