
当方と郷里が近い棟方志功ゆえか帰郷するとあちこちで棟方志功の作品と出会いますし、母の実家では代表作である「二菩薩釈迦十大弟子」を 所蔵していたせいもあり、当方でもいつかは欲しいと思っている版画家のひとりです。真作らしきものがあるとついつい入手してしまうのですが、印刷や復刻など含めて星の数ほどの作品がある魑魅魍魎たる作品群ですね。今回もそのような失敗の例のようですが・・・。
まずは苦しい時の神頼みからか当方はどうも神様の作品に弱い・・。

天神図 伝棟方志功筆
紙本水墨 額装
作品サイズ:縦223*横193

真贋も碌に解らないのに、どうもこのような贋作は描かないだろうという安易な判断で入手してしまいます。

墨一色で描かれた作品です。

押印されている印章はよく見かける印章で、同じような印章が数種類存在するものです。

昭和22年12月に描いたとされる肉筆の「天神図」に下記のような作品があるようです。ただやはりこの作品についても真贋は不明です。

1946年(昭和21年)、棟方志功は戦時疎開のために富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住し、1954年(昭和29年)までここに住んでいます。
***1951年、鈴木信太郎からアトリエを譲り受けて荻窪に居を移すとも・・。
自宅の八畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付け、住居は谷崎潤一郎の命名により「愛染苑(あいぜんえん)」と呼んでいました。栄町にあった住居は移築保存され、現在は「鯉雨画斎」として一般公開されています。
1947年(昭和22年)秋、京都市左京区南禅寺下川原町にある谷崎の自宅「潺湲亭」(せんかんてい、現在の石村亭)の表札を彫っていますが、あくまでも推察ですが、真作ならこの頃の作と思われます。
版画にて天神様の真作の作品には下記の作品があるようです。
棟方志功 怒天神の柵

手元にあった緑色の額に入れて、緑釉を主体とした源内焼の対の作品と飾ってみました。

また卵殻の菓子器とも飾ってみました。

いろんな組み合わせで飾るのは蒐集家の特権ですね。
さてもう一点は下記の作品です。

オイラセ 十和田の柵 棟方志功筆 1974年
杉板絵馬着色額装 誂:タトウ+黄袋
額サイズ:縦570*横480 作品サイズ:縦330(360)*横275(300)

写真はガラス越になりますのでご了解ください。まずは印刷ではなさそうです。サインの鉛筆などは経年変化で一見すると印刷のように見えることあるようです。

印は微妙ですが、ほぼ資料と一致します。


裏彩色も含めて彩色されていますが、基本的に版画ですので同じ作品が存在します。
下記の写真は真作のようで、評価金額はなんと140万円だそうです。

本作品を制作したとされる1974年頃の棟方志功の画歴は下記のとおりです。
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1974年(昭和49年)1月、平凡社『別冊太陽』のために、倭画『禰舞多運行連々絵巻』を描く。3月から8月にかけて、毎日映画社にて記録映画『彫る 棟方志功の世界』を撮影。5月には1972年から始めた松尾芭蕉の「おくのほそ道」紀行が完結。6月には『棟方志功油画展』(油彩)を開催した。7月には名前を志功から志昂に改名するが、半年ほどで元の名前に戻した。同じ頃、八戸市公会堂のための緞帳をデザインする。この夏に日本で制作した最後の板画作品となる『不盡の柵』(むじんのさく)を制作。8月5日、青森市の三内霊園に自身と千哉子夫人の生前墓を建立するため、墓碑の版下スケッチを描き、『静眠碑』(せいみんひ)と名付けた。これは崇敬していたゴッホの墓を模した夫婦連名の墓となっている。9月17日から10月15日まで、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載。10月18日に渡米し、約一か月間ダラス、セントルイス、ニューヨークなどで板画展を開催、グッドマン夫妻とも再会を果たした。棟方は各大学で「日本の禅と美」というテーマで講義を行ない、ニューヨークではリトグラフを制作したが、10月末に体調を崩してニューヨークで療養したあと12月2日に帰国し、東京慈恵会医科大学附属病院に入院する。

1975年(昭和50年)3月、大縣神社に絵馬を奉納する。4月26日に退院し、5月には安川電機製作所のカレンダーとして、富山県南砺市の瞞着川の河童を描いた1943年(昭和23年)作の板画『瞞着川板画巻』(だましがわはんがかん)全三十四柵より十三柵を選んで彩色を施すが、これが最後のまとまった仕事となった。同じ月に棟方は絶筆となった倭画『白木観音 四万六千日のための観音像』を描き、6月5日に瞞着川の彩色板画についての口述を残したあと、9月13日に肝臓がんのため東京の自宅で死去。72歳没。同日付けで従三位に叙された。戒名は華厳院慈航真𣴴志功居士。棟方の亡骸は生前の希望通り、青森市の三内霊園にある「静眠碑」に埋葬された。静眠碑の背後にある久栗坂石の石碑には、以下のように『不盡の柵』を刻んだブロンズ・レリーフの銘板が嵌め込まれている。
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棟方志功は作品の題名に『〇〇〇の柵』(〇〇〇のさく)と名付けていますが、棟方志功によると、柵とは四国八十八箇所の参拝者が持つ納札を指し、寺社に納めるお札のごとく願いを込めて制作した作品という意味だとしています。

摺りについて、棟方は始め黒一色で摺っていますが、のちに柳宗悦の助言により、黒色で摺り上げた版画の裏面に彩色する「裏彩色」を用いるようになっています。墨は現代の十丁型の奈良墨を使い、倭画や裏彩色には岩絵具や水彩用の顔料を用い、バレンは虎屋の羊羹に使われている竹の皮で自作しています。通常、版画家は最初にまとまった枚数を摺り、必要に応じて限定番号を入れますが、棟方はこうしたやり方を嫌い、必要な枚数のみを摺り、その都度摺った日付とサインを入れています。なお、棟方が作品にサインを入れ始めたのは1955年(昭和30年)前後であり、戦前のものにはサインがありませn。作品の題名が変わることもしばしばあったようです。

本作品は裏から意外に表からも彩色されているようです。題材は我が郷里に近い十和田湖の奥入瀬ですので、ま~飾って愉しむのには支障がないでしょう。