夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

梅花書屋図 甲斐虎山筆

2016-06-27 00:05:24 | 掛け軸
先週はは現場のパトロール、近くの現場の元同僚も訪ねてきました。元気そうで安心しましたが、我々のような昔気質のような現場マンが少なくなったようにお互いに感じたようです。朝礼の打ち合わせに点数をつけたりということにはどうも同意しかねるのは私だけでないかもしれません。なにかあったら自己弁護する資料にはなっても、根本を理解し、教育していかないとものづくりの現場は崩壊していきます。

本日の作品も「良さ」という根本を考えさせられる作品です。

梅花書屋図 甲斐虎山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 共箱入
全体サイズ:横790*縦2080 画サイズ:横575*縦1380



賛には「山川隣宿好 風月喜良縁 坐在梅花下 研朱注太玄 一室小天地 一朝小古今 白雲時入座 □我勿無心 明治辛丑仲春写於西京寓居□録旧詩 虎山 押印」とあり、1901年(明治34年)、甲斐虎山が34歳頃の作品と推察されます。



「虎山」と名乗ったばかりの頃の作品です。箱書は「乕山居士梅花書屋座図堂幅」と題され、箱裏には「*斐簡自署 押印」とあり、後年の箱書であると思われます。

*訂正:「叟簡自署」→「斐簡自署」 2016年9月10日「観月」氏からの作品 その2へのコメントより

 

甲斐虎山は知る人ぞ知る人気画家ですが、南画の人気が高い大分出身ということも人気の高さにあるのかもしれません。

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甲斐虎山:日本画家。大分県臼杵市の海添の人。通称を駒蔵。名は簡、字は厚甫、号を虎山・梅花道者などと称した。

幼少より画を好み、初めに菊川南峰に就き漢籍を修め、旧大分郡浄雲寺、城陽師に師事して画を修める。明治13年に同郷の加納雨蓬戸と共に戸次へ至り帆足杏雨に学ぶ。その後、三原活山・村上姑南・広瀬濠田・秋月古香にも師事した。専ら田能村竹田・帆足杏雨の画風を研さんし一家を成し、杏雨門下の名家として名も高くなり、別府亀川の瑠璃荘にて筆を取っていた。



晩年揮ごうも多く、虎山独特の画風を持って多くの傑作を残した。京都に私立文中園女学校を創立、教導にも当たった。昭和36年(1961)歿、94才。彼は能書家としても知られ、独自の画境を確立すると共に、和漢の書にも精通した学究的人でもある。上村松園の手記に「甲斐虎山翁が幼い私のためにわざわざ刻印を彫って下さったこともあります。その印は今でも大事に遺してあります。」とあります。

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甲斐夫婦(妻は甲斐和里子)は学校設立などで西本願寺との関連が深いことは意外に知られていません。さらには九条武子との関係も・・。

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甲斐駒蔵(虎山)は慶応3年、大分県臼杵で生まれる。漢学と南宋画を修学した駒蔵は明治28年に岡山に教師として赴任。同校の校長が足利義山で、義山は娘の和里子との結婚を望んだ。夫婦となった駒蔵と和里子は仏教系の女学校の設立を目指し、明治33年(1900)に文中園という私塾を開設。翌年、文中園は文中女学校と改名。駒蔵が校長に就任。この頃から駒蔵は甲斐虎山を名乗った。和里子も教科は英語の他、国文と家政も担当した。

甲斐夫婦はこの女学校の運営で経済的に大変苦労し、これに対して西本願寺から月額5円の支援を受けたが、それでも経営は厳しく、和里子は文中女学校で教師をしながら、帰宅すると内職をした。光尊未亡人・円光院はそんな窮状を見兼ね、600円の資金援助を申し出てた。しかし、それらの心労が祟って虎山は明治42年(1909)の秋頃から胃潰瘍を患い、病床に伏す。そうした事情から、虎山とは、文中女学校の経営を西本願寺に任せた。

明治43年(1910)2月、虎山は西本願寺と仏教婦人会連合会の支援を受けて京都高等女学校と京都裁縫女学校を買収し、文中女学校と合併。4月に経営権を仏教婦人会連合会本部に委譲。自身は校長を辞任。これに伴って、校名も文中女学校から京都高等女学校へと改められた。仏教婦人会の総裁は大谷籌子裏方でした。大谷籌子裏方(裏方は門主夫人で、籌子は光瑞門主の奥方。籌子は九条道孝の三女)は、幼い頃に大谷光瑞の許嫁となって京都の西本願寺で養育され、17歳で光瑞と結婚。仏教婦人会は京都高等女学校の経営を獲得すると、籌子は名誉校長に就任した。

甲斐和里子は経営からは手を引きましたが、教師として京都高等女学校に勤めた。虎山も最初は教員として女学校に勤務したが、大正3年(1914)に退職。以後は画家の仕事に専念し、故郷・大分にアトリエを開設。弟子を取り、美術の世界で活躍します。明治44年、籌子裏方が急逝、享年31歳。

籌子の死を受けて、籌子の義妹・九条武子が仏教婦人会の職務を継承。九条武子は大谷光瑞の妹です。幼い頃から西本願寺で養育された籌子とは、実の姉妹のように仲が良かった。武子は後に九条家(籌子の実家)に嫁ぎ、九条良致の妻となる。
九条武子は歌人としても有名で、くわえて美人で、大正三美人ともてはやされました。武子と白蓮は佐佐木門下の縁で、後に親しくなった。武子は籌子の生存中から仏教婦人会の本部長を務めいた。籌子の死後、実質的なリーダーシップは武子が取る。武子は布教活動や社会奉仕活動に明け暮れますが、昭和3年(1928)に病没。享年42歳。

大正9年(1920)、京都高等女学校は晴れて京都女子高等専門学校となり、甲斐和里子は教授となる。和里子は学校のために尽くしますが、夫・虎山が大分のアトリエから帰って来ず、また大分で暮らしていた女性の間に子供を設けた事などから、家庭問題で苦悩したようです。そうした心労から、昭和2年3月、京都女子高等専門学校を退職。この時、和里子60歳。和里子と虎山の間には実子が無く、明治40年に中江庸生(つねお)を養子とした。庸生は和里子の甥。また、甲斐夫婦は明治41年には石原廣江を養女に迎えた。庸生と廣江は9歳違いで、大正12年に結婚。庸生と廣江の間に第一子(男の子)が誕生したのは大正14年11月25日。この初孫の誕生が虎山と和里子を復縁させる事になる。長年、大分と京都で別居生活をしていた虎山と和里子は再び生活を共にするようになった。また、和里子が教職を退職し、虎山の世話に集中した事も影響しているのかもしれません。

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甲斐虎山の作品は独特の雰囲気があります。



「竹田の清雅を享けて必ずしも同じからず、杏雨の富潤とは殆んどその格趣を異にし、特異の筆致、深厚の墨気、看取すれば遠く宋、元諸家の蹟に近づくものあり、自ら一家の風格をなす。」(原文のまま) という評があり、昭和42年当時の評ですが、甲斐虎山の作品への鑑賞は、多少の誇張を除けば、正しい理解がされていたと思います。



南画という枠ですべての南画の作品について評価が低い現在ですが、「いいものはいい」というのが変わらぬスタンスだと思います。その点では、思文閣が襟を正して南画のいいものにはきちんと高い評価をしていることは極めて立派なことと評価できます。



南画という枠にはめないで絵そのものを見る・・・・。田能村竹田、帆足杏雨という偉大な画家によって脈打つ南画の伝統を伝える大分の画家。



「特異の筆致、深厚の墨気、看取すれば遠く宋、元諸家の蹟に近づくものあり、自ら一家の風格をなす。」・・・。


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