
我が家のトイレが漏水・・・
早速近所の親戚の水道屋さんが見てくれて便器を除去してみましたが、あいにく下地の床板まで漏水で腐食しており、後日補強工事を実施しました。どうも便器の寿命は10年らしく、ウオシュレット部分から漏水しておりすでに機種の交換部品がないらしい
このトイレの便器は20年以上使用したので交換せざる得ないようです。冷蔵庫など支出する事象はまとめてやってくるようです。

本日は本ブログで投稿している市川鉄琅の作品「その5」になります。同型の聖観音像の作品としては以前に「楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作」の「聖観音像」を紹介していますが、本日の作品は極彩色の作品で、大きさも40センチとなる大きめの作品です。
色彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作 その5
彩色 共箱・共布
幅150*高さ400

市川鉄琅は師とする加納鉄哉が復活させた鉄筆彫刻の最後の継承者です。金属茶道具に鉄筆の自由な筆致で花鳥風月を描き、絵画と彫刻を結ぶ技法と評価されれていますが、昭和62年(1987)歿しており、享年は85才です。市川鉄琅については最近の市川鉄琅の作品を紹介したブログに記述していますので本日の記事においては詳細については省略させていただきます。

評価は、師である「加納鉄哉」をしのぐとも言われています。加納鉄哉が復活させた鉄筆彫刻で著名ですが、彫刻においても優れた作品を遺しています。

東大寺 第208世 清水公照とは、互いの師匠同士につながりがあり、当然のように市川銕琅とも親交が続き、互いに技量を認め合い、清水公照は市川銕琅の業に惚れ込み「天下の至宝」と評価していました。

このことについては他の作品「東大寺寶物 伎楽面酔胡王」の投稿記事でも記述してありますが、東大寺 第208世 清水公照とは深い親交があったようです。

当方では市川銕琅については、鉄筆の作品より彫刻の作品を主に蒐集しておりますが、これは彫刻の作品に優れた作品が多いですね。

「聖観音像」の作品は、本ブログにて高村光雲、平櫛田中、澤田政廣らの作品を紹介していますが、市川銕琅の作品も負けず劣らずの出来だと思います。

見事なのが彩色ですが、平櫛田中が平野富山に彩色を依頼していたのに比して、市川銕琅は自ら彩色していたようです。

拡大すると多少の彫が粗い感じがしますね。

ただ木目を生かした彫刻は見事です。数多くの彫刻家、仏師が手掛けている「聖観音像」ですが、比してもちょっと出来がいいと思います。そのちょっとが大きな差であろうと思っています。

裏面もきちんとしています。彩色は簡単なようで難しいらしいです。

鉄筆や彫刻から彩色まで一人でやれる人は少ないでしょうね。

市川銕琅は大展覧会には出品せず、もっぱら注文品ばかりの製作でしたが、市川銕琅の愛好者には、皇族の名も連なっていたそうです。

一般にはあまり知れていない市川銕琅の作品ですが、近年代替わりで、相続処分が多くその結果骨董市場に多数出回り始めたそうです。これらは前回の記事で記述していることがらです。

台座の裏面に彫銘があります。

共箱はきちんとしています。おそらくあまり飾っていなかったのでしょう。保存状態は良好です。

箱書には「南都最勝精舎 □□ 鉄琅山人刀 花押」とありますが、「最勝精舎」とは加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てた本拠地のことです。この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、市川銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なかったようです。

加納鉄哉と市川銕琅作品の箱書や花押などは独特のもので、加納鉄哉などは息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅が代筆で書いたという逸話があります。
ところで市川鉄琅の雅号には下記の2種類があります。
「1918年(大正7) 銕良」
銕哉長男・和弘とあこがれの奈良に赴きました。元弟子の渡辺銕香より“奈良は彫刻の宝庫”と聞いていたので、慌てて手ぶらで行きました。「彫刻師が小刀を忘れる等、武士が魂を失ったようなものだと大目玉・・・・・」銕哉より叱られたという逸話も残っています。この時、銕良の雅号を銕哉よりもらいます。 ( 『銕琅の六十年』より引用 )
「1923年(大正12) 銕琅」
「師銕哉と共に出かけた広島で師に代わり、彫った銕筆の技量を認められ、奥田抱生氏(銕哉の友人で、漢学の先生、銕哉作品の漢詩等の校正、助言をしていた人)の薦めによって銕良改め銕琅を名乗る。」(『銕琅の六十年』より引用)
つまり市川鉄琅の雅号は大正12年以降となります。加納鉄哉は大正14年に亡くなっていますので、「最勝精舎」を引き継いだ昭和になってからの作品と推定されます。

以前に紹介した下記の作品は本作品より後年の作と判断しています。
楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作
楠木 金彩色 共箱・共布
幅136*高さ315

こちらの方が好みであるという方が多いかもしれません。両作品を並べてみました。

箱書きの比較は下記のとおりです。

両作品ともに贋作ということではなさそうです。

本日の作品は昭和初期、「楠木彫聖観音菩薩尊像」のほうが昭和中期と推定しています。

思いのままに飾って愉しんでいます。本作品の後方に掛けられたのはアイズピりの作品です。

完成した2階の廊下の棚の上・・・。木目を生かした作品が良く似合う??

早速近所の親戚の水道屋さんが見てくれて便器を除去してみましたが、あいにく下地の床板まで漏水で腐食しており、後日補強工事を実施しました。どうも便器の寿命は10年らしく、ウオシュレット部分から漏水しておりすでに機種の交換部品がないらしい


本日は本ブログで投稿している市川鉄琅の作品「その5」になります。同型の聖観音像の作品としては以前に「楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作」の「聖観音像」を紹介していますが、本日の作品は極彩色の作品で、大きさも40センチとなる大きめの作品です。
色彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作 その5
彩色 共箱・共布
幅150*高さ400

市川鉄琅は師とする加納鉄哉が復活させた鉄筆彫刻の最後の継承者です。金属茶道具に鉄筆の自由な筆致で花鳥風月を描き、絵画と彫刻を結ぶ技法と評価されれていますが、昭和62年(1987)歿しており、享年は85才です。市川鉄琅については最近の市川鉄琅の作品を紹介したブログに記述していますので本日の記事においては詳細については省略させていただきます。

評価は、師である「加納鉄哉」をしのぐとも言われています。加納鉄哉が復活させた鉄筆彫刻で著名ですが、彫刻においても優れた作品を遺しています。

東大寺 第208世 清水公照とは、互いの師匠同士につながりがあり、当然のように市川銕琅とも親交が続き、互いに技量を認め合い、清水公照は市川銕琅の業に惚れ込み「天下の至宝」と評価していました。

このことについては他の作品「東大寺寶物 伎楽面酔胡王」の投稿記事でも記述してありますが、東大寺 第208世 清水公照とは深い親交があったようです。

当方では市川銕琅については、鉄筆の作品より彫刻の作品を主に蒐集しておりますが、これは彫刻の作品に優れた作品が多いですね。

「聖観音像」の作品は、本ブログにて高村光雲、平櫛田中、澤田政廣らの作品を紹介していますが、市川銕琅の作品も負けず劣らずの出来だと思います。

見事なのが彩色ですが、平櫛田中が平野富山に彩色を依頼していたのに比して、市川銕琅は自ら彩色していたようです。

拡大すると多少の彫が粗い感じがしますね。

ただ木目を生かした彫刻は見事です。数多くの彫刻家、仏師が手掛けている「聖観音像」ですが、比してもちょっと出来がいいと思います。そのちょっとが大きな差であろうと思っています。

裏面もきちんとしています。彩色は簡単なようで難しいらしいです。

鉄筆や彫刻から彩色まで一人でやれる人は少ないでしょうね。

市川銕琅は大展覧会には出品せず、もっぱら注文品ばかりの製作でしたが、市川銕琅の愛好者には、皇族の名も連なっていたそうです。

一般にはあまり知れていない市川銕琅の作品ですが、近年代替わりで、相続処分が多くその結果骨董市場に多数出回り始めたそうです。これらは前回の記事で記述していることがらです。

台座の裏面に彫銘があります。

共箱はきちんとしています。おそらくあまり飾っていなかったのでしょう。保存状態は良好です。

箱書には「南都最勝精舎 □□ 鉄琅山人刀 花押」とありますが、「最勝精舎」とは加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てた本拠地のことです。この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、市川銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なかったようです。


加納鉄哉と市川銕琅作品の箱書や花押などは独特のもので、加納鉄哉などは息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅が代筆で書いたという逸話があります。
ところで市川鉄琅の雅号には下記の2種類があります。
「1918年(大正7) 銕良」
銕哉長男・和弘とあこがれの奈良に赴きました。元弟子の渡辺銕香より“奈良は彫刻の宝庫”と聞いていたので、慌てて手ぶらで行きました。「彫刻師が小刀を忘れる等、武士が魂を失ったようなものだと大目玉・・・・・」銕哉より叱られたという逸話も残っています。この時、銕良の雅号を銕哉よりもらいます。 ( 『銕琅の六十年』より引用 )
「1923年(大正12) 銕琅」
「師銕哉と共に出かけた広島で師に代わり、彫った銕筆の技量を認められ、奥田抱生氏(銕哉の友人で、漢学の先生、銕哉作品の漢詩等の校正、助言をしていた人)の薦めによって銕良改め銕琅を名乗る。」(『銕琅の六十年』より引用)
つまり市川鉄琅の雅号は大正12年以降となります。加納鉄哉は大正14年に亡くなっていますので、「最勝精舎」を引き継いだ昭和になってからの作品と推定されます。


以前に紹介した下記の作品は本作品より後年の作と判断しています。
楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作
楠木 金彩色 共箱・共布
幅136*高さ315

こちらの方が好みであるという方が多いかもしれません。両作品を並べてみました。

箱書きの比較は下記のとおりです。

両作品ともに贋作ということではなさそうです。

本日の作品は昭和初期、「楠木彫聖観音菩薩尊像」のほうが昭和中期と推定しています。

思いのままに飾って愉しんでいます。本作品の後方に掛けられたのはアイズピりの作品です。

完成した2階の廊下の棚の上・・・。木目を生かした作品が良く似合う??