
最近の展示室からスナップ写真を投稿します。

幕末頃の古伊万里の大皿を展示してみました。

橋本関雪と平野庫太郎氏の作品はしばらく飾っています。

軸は古画(伝秋月等観筆)に、棚には源内焼。

飾り棚にはしばらく平櫛田中作の観音像。

さて本日は平福百穂が描いた小色紙の作品です。
平福百穂は大正時代に、当時の新聞「国民新聞」にて、大相撲力士の似顔絵を描いて人気を博していましたが、現在20世紀の最強力士とも称されている第27代横綱「栃木山」をその当時に描いた作品です。
色紙 横綱栃木山 平福百穂筆 その27
紙本水墨 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240

立会いの一瞬を描いた百穂ならでは簡略な筆遣いで見事に表現されています。小品ながらひと目で平福百穂の作と判断される佳作です。
色紙の裏には次のように記されています。
「大正七年(1918年)一月□□□東京築地□□□於て平福百穂□ト飲ム ツヒ」
大正7年にまだ大関であった栃木山と平福百穂が会食した際に、百穂より栃木山に贈られた作品のようです。

平福百穂は明治40年(1907年)国民新聞社に入社。以後20年間同社に籍を置き相撲スケッチ、議会スケッチなどを描いて活躍し人気を博していました。
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栃木山 守也:(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身の元大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。
1917年5月場所で大関に、1918年5月場所の横綱昇進を挟んで1919年1月場所まで5連覇を達成する。この大関昇進の場所が初優勝で、それから5場所連続優勝を入れて合計9回の優勝を成し遂げている。大関昇進後はほぼ全ての場所で優勝争いに加わり、風邪で途中休場した1場所を除いて9場所で優勝、6場所で半星差の優勝次点、残る1場所は優勝力士との間に半星差の優勝次点力士を挟んで1勝差の3位相当だった。1920年5月場所は8勝1分1預ながら、優勝者は9勝1敗の大錦、翌年1月場所も無敗だったが預り1つの差で大錦が優勝している。幕内の勝率は.878だが、横綱在位中の勝率は.935である。栃木山以降で横綱での最終勝率が9割を超えた者は出ておらず、この安定感をもって近代最強力士に推す意見も多い。

引退後は、養父である木村宗四郎の持ち株であった年寄・春日野(8代)を襲名した。当時は「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許され、春日野部屋を創立した。不文律の作者・常陸山が唯一認めた例外で、養父の名跡を受け継ぐものであると同時に栃木山自身を人物的に高く評価していたためだった。
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引退後6年経ってからの大相撲選手権大会で現役の大相撲力士を破って優勝したこともある相撲の名人と称されましたが、体は小兵であったそうです。稽古場では頭のつるつるのおじいさんが倍もありそうな力士に胸を貸し、現役幕内力士を相手をコロコロと転がして負かしていたそうです。
実に愉快な逸話ですが、人格・実力抜群、早めの引退、後進指導・・・、プロとはそうありたいものですね。小さな色紙に歴史が詰まっています。

幕末頃の古伊万里の大皿を展示してみました。

橋本関雪と平野庫太郎氏の作品はしばらく飾っています。

軸は古画(伝秋月等観筆)に、棚には源内焼。

飾り棚にはしばらく平櫛田中作の観音像。

さて本日は平福百穂が描いた小色紙の作品です。
平福百穂は大正時代に、当時の新聞「国民新聞」にて、大相撲力士の似顔絵を描いて人気を博していましたが、現在20世紀の最強力士とも称されている第27代横綱「栃木山」をその当時に描いた作品です。
色紙 横綱栃木山 平福百穂筆 その27
紙本水墨 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240

立会いの一瞬を描いた百穂ならでは簡略な筆遣いで見事に表現されています。小品ながらひと目で平福百穂の作と判断される佳作です。
色紙の裏には次のように記されています。
「大正七年(1918年)一月□□□東京築地□□□於て平福百穂□ト飲ム ツヒ」
大正7年にまだ大関であった栃木山と平福百穂が会食した際に、百穂より栃木山に贈られた作品のようです。

平福百穂は明治40年(1907年)国民新聞社に入社。以後20年間同社に籍を置き相撲スケッチ、議会スケッチなどを描いて活躍し人気を博していました。
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栃木山 守也:(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身の元大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。
1917年5月場所で大関に、1918年5月場所の横綱昇進を挟んで1919年1月場所まで5連覇を達成する。この大関昇進の場所が初優勝で、それから5場所連続優勝を入れて合計9回の優勝を成し遂げている。大関昇進後はほぼ全ての場所で優勝争いに加わり、風邪で途中休場した1場所を除いて9場所で優勝、6場所で半星差の優勝次点、残る1場所は優勝力士との間に半星差の優勝次点力士を挟んで1勝差の3位相当だった。1920年5月場所は8勝1分1預ながら、優勝者は9勝1敗の大錦、翌年1月場所も無敗だったが預り1つの差で大錦が優勝している。幕内の勝率は.878だが、横綱在位中の勝率は.935である。栃木山以降で横綱での最終勝率が9割を超えた者は出ておらず、この安定感をもって近代最強力士に推す意見も多い。

引退後は、養父である木村宗四郎の持ち株であった年寄・春日野(8代)を襲名した。当時は「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許され、春日野部屋を創立した。不文律の作者・常陸山が唯一認めた例外で、養父の名跡を受け継ぐものであると同時に栃木山自身を人物的に高く評価していたためだった。
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引退後6年経ってからの大相撲選手権大会で現役の大相撲力士を破って優勝したこともある相撲の名人と称されましたが、体は小兵であったそうです。稽古場では頭のつるつるのおじいさんが倍もありそうな力士に胸を貸し、現役幕内力士を相手をコロコロと転がして負かしていたそうです。
実に愉快な逸話ですが、人格・実力抜群、早めの引退、後進指導・・・、プロとはそうありたいものですね。小さな色紙に歴史が詰まっています。