昨日は久方ぶりに山種美術館へ・・、「川合玉堂展」を観てきました。作品はいいものが揃っています。なかなか見ごたえがありますが、後半は同じような作品ばかりでいささか消化不良でした。
山種美術館はトイレが大失敗です。展示フロアにトイレが無く、あっても数が少ない。
それと1階で放映している美術館PRビデオはなんとかならないものか? ビデオに放映される館長さんの着物との化粧のバランスが不自然で観ているほうがげんなりしてしまします。
本日は滝平二郎の版画作品です。
滝平二郎の作品というとなんと言っても、朝日新聞の日曜版の連載などの子供と田舎の風景を描いた切り絵の作品ですね。
南の人(女) 滝平二郎作
木版画 表面右下・裏面右直筆サイン タトウ入
色紙サイズ 縦272*横242
同時に出品されていた作品「百合」に1966年(昭和41年)作と記されていることから、同時期の作品と推察されます。戦後に版画から切り絵に転じたが切り絵での評価が高くなる前の作品と推察されます。
同時期ではないと思われますがインターネット上での直筆サインと印章を探し当てました。
この作品の価値がいかほどかはまったくわかりませんが、あの朝日新聞の切り絵はいつか欲しいものだと思っています。
滝平 二郎(たきだいら じろう):1921年4月1日~2009年5月16日)。日本の切り絵、版画作家である。日本美術会委員、日本児童出版美術家連盟会員、日本きりえ協会代表委員。力強さ、優しさ、時には怖さを表現した作風で知られる。1921年、茨城県新治郡玉里村(現:小美玉市)に生まれる。県立石岡農学校(現:茨城県立石岡第一高等学校)在学中は風刺漫画に関心を寄せていたが、卒業後は木版画へと向かう。陸軍少尉として沖縄で終戦を迎える。1942年造形版画協会第6回展に初出品。1955年頃に東京都豊島区に移り住み、装幀、版画、切り絵の仕事を始める。1968年第6回国際版画ビエンナーレ展に出品。1970年第1回講談社出版文化賞ブックデザイン部門(『花さき山』)[1]、1974年度モービル児童文化賞、1987年第10回絵本にっぽん賞などの賞を受賞。1970年から1977年にかけ朝日新聞の日曜版に独自の切り絵を連載する。2009年5月16日、がんのため死去。88歳没。
山種美術館の喫茶で「早乙女」なるお菓子を食べて帰宅の途ににつきました。
予想通り日本のサッカーは中国に勝てず・・、サッカー男子にはどうも過剰評価ずぎて応援しかねるところがあります。
山種美術館はトイレが大失敗です。展示フロアにトイレが無く、あっても数が少ない。
それと1階で放映している美術館PRビデオはなんとかならないものか? ビデオに放映される館長さんの着物との化粧のバランスが不自然で観ているほうがげんなりしてしまします。
本日は滝平二郎の版画作品です。
滝平二郎の作品というとなんと言っても、朝日新聞の日曜版の連載などの子供と田舎の風景を描いた切り絵の作品ですね。
南の人(女) 滝平二郎作
木版画 表面右下・裏面右直筆サイン タトウ入
色紙サイズ 縦272*横242
同時に出品されていた作品「百合」に1966年(昭和41年)作と記されていることから、同時期の作品と推察されます。戦後に版画から切り絵に転じたが切り絵での評価が高くなる前の作品と推察されます。
同時期ではないと思われますがインターネット上での直筆サインと印章を探し当てました。
この作品の価値がいかほどかはまったくわかりませんが、あの朝日新聞の切り絵はいつか欲しいものだと思っています。
滝平 二郎(たきだいら じろう):1921年4月1日~2009年5月16日)。日本の切り絵、版画作家である。日本美術会委員、日本児童出版美術家連盟会員、日本きりえ協会代表委員。力強さ、優しさ、時には怖さを表現した作風で知られる。1921年、茨城県新治郡玉里村(現:小美玉市)に生まれる。県立石岡農学校(現:茨城県立石岡第一高等学校)在学中は風刺漫画に関心を寄せていたが、卒業後は木版画へと向かう。陸軍少尉として沖縄で終戦を迎える。1942年造形版画協会第6回展に初出品。1955年頃に東京都豊島区に移り住み、装幀、版画、切り絵の仕事を始める。1968年第6回国際版画ビエンナーレ展に出品。1970年第1回講談社出版文化賞ブックデザイン部門(『花さき山』)[1]、1974年度モービル児童文化賞、1987年第10回絵本にっぽん賞などの賞を受賞。1970年から1977年にかけ朝日新聞の日曜版に独自の切り絵を連載する。2009年5月16日、がんのため死去。88歳没。
山種美術館の喫茶で「早乙女」なるお菓子を食べて帰宅の途ににつきました。
予想通り日本のサッカーは中国に勝てず・・、サッカー男子にはどうも過剰評価ずぎて応援しかねるところがあります。