行橋市中川にある彼女の生家に近い長狭川沿いに建つ句碑
「 緑陰や矢を獲ては鳴る白き的 」
その句碑は、勝山から行橋を流れる長狭川沿いにある。
竹下しづの女 ( たけした しづのじょ、1887年3月19日-1951年8月3日 ) は、
日本の俳人。本名は静廼 ( シズノ ) 。
福岡県京都郡稗田村中川 ( 現・行橋市 ) 出身。
福岡女子師範学校 ( 後の福岡教育大学 ) 卒業後、6年間の教員生活を経て結婚。2男3女を儲ける。
育児の傍ら本格的に句作を始め、 「 天の川 」 を主宰する吉岡禅寺洞を知り、指導を受ける。
大正9年に高浜虚子が主催する「ホトトギス」の巻頭を飾り、彗星のように俳壇に登場し、
中央の俳壇でも認められるようになった。
しづの女の句は、母の心と子供の成長の様子、そして貧困の苦悩など、
生活そのままを大胆に表現している。
杉田久女とは同世代だが、久女とは生き方も句も対照的であった。
「 天に牽牛地に女居て糧を負う 」
昭和20年 ( 1945年 ) しづの女は、農地確保のため博多から帰郷し、
田小屋を建てて五反の田を作り、米を博多の子女へ一人で運んでいた。
今夜は七夕である。天の牽牛星は織女星と会うが、
私とは関係のない世界のことで、ここ地上には私という女が居て
夜道に食糧の荷を負って運んでいる。
この慣れぬ重労働で少なからず健康を害したようであった。
しづの女の句は、理知的な手法で、女性の自我や自立を詠った作品が多い。
代表句として 「 短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉 ( すてつちまおか ) 」 が知られる。
昭和12年 ( 1937年 ) には、長男・竜骨 ( 吉信 ) を中心に
「 高等学校俳句連盟 ( のちの学生俳句連盟 ) 」 の結成にあたり、
機関誌 「 成層圏 」 を創刊し、昭和15年 ( 1940年 ) に句集 「 颯 」 を刊行した。
その後参加した中村草田男とともに指導にあたり、香西照雄、金子兜太ら後進を育てた。
また没年まで九大俳句会を指導している。