「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

竹下しづの女 『 緑陰や矢を獲ては鳴る白き的 』 句碑

2013-11-11 00:03:41 | 文学・文化・映画作品



行橋市中川にある彼女の生家に近い長狭川沿いに建つ句碑







「 緑陰や矢を獲ては鳴る白き的 」










その句碑は、勝山から行橋を流れる長狭川沿いにある。

竹下しづの女 ( たけした しづのじょ、1887年3月19日-1951年8月3日 ) は、
日本の俳人。本名は静廼 ( シズノ ) 。

福岡県京都郡稗田村中川 ( 現・行橋市 ) 出身。
福岡女子師範学校 ( 後の福岡教育大学 ) 卒業後、6年間の教員生活を経て結婚。2男3女を儲ける。
育児の傍ら本格的に句作を始め、 「 天の川 」 を主宰する吉岡禅寺洞を知り、指導を受ける。

大正9年に高浜虚子が主催する「ホトトギス」の巻頭を飾り、彗星のように俳壇に登場し、
中央の俳壇でも認められるようになった。
しづの女の句は、母の心と子供の成長の様子、そして貧困の苦悩など、
生活そのままを大胆に表現している。
杉田久女とは同世代だが、久女とは生き方も句も対照的であった。

「 天に牽牛地に女居て糧を負う 」

昭和20年 ( 1945年 ) しづの女は、農地確保のため博多から帰郷し、
田小屋を建てて五反の田を作り、米を博多の子女へ一人で運んでいた。

今夜は七夕である。天の牽牛星は織女星と会うが、
私とは関係のない世界のことで、ここ地上には私という女が居て
夜道に食糧の荷を負って運んでいる。

この慣れぬ重労働で少なからず健康を害したようであった。


しづの女の句は、理知的な手法で、女性の自我や自立を詠った作品が多い。
代表句として 「 短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉 ( すてつちまおか ) 」 が知られる。
昭和12年 ( 1937年 ) には、長男・竜骨 ( 吉信 ) を中心に
「 高等学校俳句連盟 ( のちの学生俳句連盟 ) 」 の結成にあたり、
機関誌 「 成層圏 」 を創刊し、昭和15年 ( 1940年 ) に句集 「 颯 」 を刊行した。
その後参加した中村草田男とともに指導にあたり、香西照雄、金子兜太ら後進を育てた。
また没年まで九大俳句会を指導している。



紅葉を抜けて 「 田川ー杷木ー久留米ー日田 」

2013-11-11 00:02:41 | 探訪 ・ ドライブ














昨日、朝から紅葉を抜けて六つの古墳と二つの私塾。
それに久留米の 「 はぜ並木 」 や 「 日田千年あかり 」 などを廻って来た。
降雨と、暗さでイマイチだったし、思惑と違った情景もあったりしたが、
それでも予定していたコースを全て回れたので、ヨシとせねばなるまい。

先週の 「 唐津くんち 」 や 「 バルーンフェスティバル 」 も雨だったし、今週も雨。
続くときは続くから、ひょっとして来週の日曜も雨になるのではないかと危惧している。

大牟田や唐津の写真を整理していないので、
動画や写真が次から次と溜まるばかりである。
順不同になるが、出来た端から紹介して行きたいと思っている。







『 ビーチコーミング 』

2013-11-11 00:01:41 | 沖縄







浜辺を歩くと、いろんなものが目につく。
普段は持って帰ることはしないが、
津堅島に行った時、船の出航まで時間があったので、
浜辺を歩いてシーグラスを拾った。
ほんの数分のことだが、これだけのシーグラスを集めた。
いったん集めたものを捨てるのも勿体ないような気がして、
ポケットに入れて船に乗ったが、
その気になって探せばもっと色んなグラスを捜し出すことが出来たと思う。

けど、こうして持って帰るのも、浜辺で拾うのもこれが最後である。